Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

聖霊の教えあれこれ

曰く---

キリスト教の信仰は「父と子と聖霊」と言われています。
聖霊は弟子達と共に永遠にとどまるために新しい豊かさを持って弟子達の上にくだられました。そして、今も、共にいて下さいます。

・このようにイエスが話された初代教会から、現在〜未来にいたるまで、聖霊がともにいて、わたしたちを導いて下さっています。

聖霊によって罪のために死んでいる人々を生かし、死ぬべき体を生かして下さいます。

聖霊は、教会と信徒の心にお住まいになっています。

聖霊は信者のなかで祈り、証しをたて、真理に導きます。

聖霊は主

曰く-------
聖霊が知性と感情と意志を持つことから、確かに人格を持った方であるという事が解ります。聖霊は考え知り(1Cor2:10)、悲嘆し(Eph4:30)、私たちのためにとりなされ(Rom8:26—27)、神の御心に従って意思決定されます。(1Cor12:7—11)聖霊は三位一体のなかの、第三位格です。神である聖霊は、イエス様の約束されたとおり、私達の助け主として働かれるのです。(Joh14:16、26、15:26)

曰く-----------
私たちは聖霊に満たされるとき、神の命に満ちあふれた力強い働きをすることができるのです。
クリスチャンのうちには、すでに聖霊が宿っておられます。しかし、「聖霊の満たし」というのは、それよりさらに一段上の事柄なのです。
聖霊の内住と、聖霊の満たしとは違います。
聖霊の内住とは、単に聖霊が内におられるということです。しかし聖霊の満たしとは、あなたの魂の隅々にまで聖霊の命と力がおよび、満ちあふれることです。
あなたの人生の主人公はもはやあなたではなく、聖霊が、あなたの人生の主人公になられるのです。


曰く------------
−引用-
「今日の私たちの生活の中で、聖霊の役割は何ですか」
「一旦私たちが救われて神に属するものとなったら、御霊が私たちの心に永遠に住まわれ、私たちが永遠に神の子どもであるという確かで保証された確実な誓約をもって私たちに保証の印を押してくださるのです」
「イエスはご自身がいなくなることに対する「代償」として、御霊をくださいました。それはもしご自分が個人的に私たちとともに残られたのなら私たちのためにしたであろう役割を御霊に託されるためでした」
「御霊は私たちの理性に、礼拝、教理、クリスチャン生活に関わる神の助言を明らかにしてくださいます。御霊は、究極の導き手であり、私たちの前を行き、行くべき道に私たちを導き、障害を取り除き、私たちの理解力を開いてすべてを分かりやすく明確にさせます。御霊はすべての霊的なことについてわたしたちが行くべき道に私たちを導かれます。そのような導きがなければ、私たちは間違いに陥りやすいことでしょう」
「I コリント12章には、私たちがこの世でキリストのからだとして働くために信者に与えられる霊的な賜物のことが説明されています。これらすべての賜物は、大きいもの小さいものを問わず、私たちがこの世界への御霊の大使となってその恵みを現わし、栄光を帰するために御霊によって与えられているものです」
「神の聖霊が私たちの生活の中に住まわれ、これらの奇蹟的なことを実演してくださり、私たちとともに永遠に住まわれて、私たちを離れることも、見捨てることもないという知識が、私たちにすばらしい喜びと慰めをもたらします。聖霊とそのお働きというすばらしい賜物のゆえに、神に感謝しましょう」


曰く------------
聖霊は私たちの人生を魅力的にするお方です(ガラテヤ5章22〜23節)。
聖霊は私たちの教師であり、導き手です。 聖霊は私たちに大胆さと証をする勇気をおあたえになります。 私たちは聖霊にまったく身をゆだね、聖霊に支配していただかなければなりません。
すべてのクリスチャンは神の栄光を表す生活を送り、 真のキリストの大使となる責任を持っています。





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所見;教会で教えられる内在や内住また充満等々・・
遅くとも第五世紀まではこうした教えは成立しなかったと思える。アウグスティヌスの頃は過去に存在した聖霊ある人々「聖なる者ら」への畏敬が残っていたことが窺える。上記の聖霊の「内在」などは、おそらく三位一体の教理と共に出現し広まったのではないか?第三世紀のオリゲネスはよりはっきりと聖なる者たちの存在を語っており、聖霊を実際に経験した世代からそれほど隔たってはいなかった。第二世紀に至っては、依然、聖霊の顕現が実際に見られている時代で、誰が聖霊の持ち主かは歴然としており、そのうえ殉教の危険と隣り合わせであったから、今日のような「有難い」聖霊解釈は到底不可能であった。
ざっと見て、「新しい契約」と結びつけた解釈は見当たらない。つまり、聖書を貫く「聖なる民」理解の根本と関連付けられるものではないからだろう。誰でも彼でも信じさえすれば聖霊を受けることにしてしまった以上、無理からぬことである。ご利益信仰に堕した以上、キリストに従い義に殉じる「アブラハムの裔」を理解することはまずできない。その全容の目的も、聖霊が罪や義や裁きにどう関わるかを知ることも無理のように思える。
上記のような解釈において、聖霊は主に信者への有難い益をもたらす護符の役割が与えられている。そうしてキリスト教もスピリチャルな軽い宗教となった。それでも信者が増えないのはどうしたことか?




・ウィスレーの「信仰の確証」
ローマ8:15.6を根拠に、自分の救いは確信できるものであると教えた
 第一の証しは「良心の確証」と言われるもので、「私たちの霊とともに」が、それを示唆している。ここに良心の証しとは、聖書の示す救いの条件を果たしたか、また、救いの前後で明らかな変化が認められるのか、などを理性的に、冷静に判断する時に、納得される類の証左である。
それに対して、もう一つの信仰の確証は、聖霊によって信じる者の内心にもたらされる直接的な証しであって「聖霊の確証」と言われるものである。

トレント会議でローマはこれを拒絶したというが・・年代がまるで合わない、アルミニウス主義の「先行恩寵」のことを言うのだろう)

他方でカルヴァンの「神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる」の予定説の教理は、「聖徒」が世の基の置かれる前から選ばれたというエデンの「女の裔」また、ファラオの頑なさやパウロの言う「誉の無い器」を曲解したものであろう。上記のいずれも「聖徒」理解の欠落に混乱の原因があり、それに気付けばそこまで複雑化させる理由のまるで無いものである。
カルヴァンの限定的贖罪や聖霊の内住は、聖徒の特殊性までもうひといきであり、アルミニウス=ウィスレーの先行恩寵は、聖徒の信仰によって召されたことを主張していたところまでは初期キリスト教に幾らかでも近付いていたと云えよう。
両者それぞれ部分を含んでいたのであるから、何故か共に「聖徒」の理解に到達しきれずに不発で終わったのが不思議なほどである。対して今日のキリスト教は、すっかりハードルを下げてしまって、いよいよご利益信仰のように見えるが・・


・「旧約の聖徒」という概念を持ち出し、「共に救われる」としてしまうと、「新しい契約」の意味をどう説明するのだろうか?
まず、その「救い」は何のためのものなのか。贖罪を為す祭司職との関連は語られないようだが・・
この辺りは、考慮しても何ら収穫は望めそうにもない。(ハーヴェスト何某とおっしゃるようながら)そういえばメシアニック・ジューにとっては「聖霊の賜物」を過小評価する誘因は小さくはないことが容易に想像される。ましてそれが異邦人に広まり、他方で神殿を失って再興されていない以上は・・彼らには悪夢かもしれないが、それでも裁かれた「世代」ではないから諸国民以下に堕ちてはいない。ましてエシュアをメシアと認めるなら聖徒への道も一条開けているはず。しかし、自分たちを血統のゆえに格別だと主張するのなら、パウロの書くところと正面衝突することになり、それは新約を否定するものでユダヤ教から次元上昇したキリスト教たり得ない。











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