Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

用語メモ

原罪の存在がどう世の法思想に影を落としているか

トマス
人間社会は、勧告や教導だけによらず「平和と徳のために」実力(暴力)と刑罰に対する恐れによって強制する実定法が必要であると認め二種類の実定法 lex divine と lex humana によって実践理性による自然法(lex naturalis)は補足される必要があると認識していた。
また、「人の支配」よりも「法の支配」優越性を読み取っていた。
第92問題
2項:実定法はすべての悪徳を禁ずるべきか
3項:実定法はすべての徳の行為を命じることができるか


アウグスティヌス
「自由意志論」で、「正しくない法は、法とは思われない」
この考えからすれば、法は自然法に即していなければならず、もし人々の基本的良心に明らかに反し、また納得が難しいものを法に制定しても施行させる力をもたなくなる。(人々は暗黙の内にその法を破ることを正義と感じる これを無理に捻じ曲げようとすれば宗教教理の脅しや民族主義を持ち出すことになろう つまり自然な良心の働きを別の感情と置き換えてしまうこと)



スピノザ
自然は民族を形成せず、ただひとりの人間を生むのみ。
理性と信仰を分け、哲学と宗教の分離を説いた。信仰を理性に置き換えることはできず、宗教と哲学は目的と根拠において異なる。理性と啓示。「両者の間には一切の通約性も類縁性も無い」(第14章)〈これは時代の必要が生んだ極論であると思う〉
















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Rm8:11.13
「その人は聖霊によって生きる」意味
ローマ8章の一部を取り出して内住に用いるのは自ら間違いを認めるようなもの。
「すべての信者が御霊の証印を押されているという事実は、2Cor1:22とEph4:30にも書いてあります」←この「すべての信者」というのは?
「聖書を公平に読む限り、つまり、自分たちの神学的伝統に捕らわれて無理な聖書解釈をしない限り聖霊の啓示の働きが歴史のいつかの時点で止まったとか、なくなったという理解は生まれてきません。ただし言えることは、聖書の正典が成立した後、聖書に付け加えられなければならないような、啓示の必要性はなくなったことです。(黙示録20:12)私たちは、私たちの信仰と行いのために必要なすべての基本的啓示が、現在の聖書の中に含まれていると考えています。だから、聖書には何も付け加えてはならないし、また、省いてもならないのです。しかし、個々人の特殊な事情や特殊な状況の中においては、御霊の特別な啓示が必要とされる場合もあると考えます。聖書の基本的な教えや導きの範囲の中で、どのような選択をし、どのような決定をすべきかということです。もし、神様にお仕えする人生を送ると決心していながら、結婚について迷っている若者がいるならば、当然真剣に考え、さまざま友人たちの意見も聞くでしょう。しかし、それよりもまず、神様の導きを求め、助けを願うことでしょう。この場合、基本的に神様に捧げた人生を送るという決定は、聖書に従って可能です。」?????


×「●内住してくださっている【内住の聖霊】は、私たちにどのように働いてくださっているのでしょうか。
④ 〈聖霊〉の働き
・ 子としてくださる 「アバ 父」 ローマ8:15 ガラテヤ4:6
・ 助け・とりなし ローマ8:26 深いうめきによって
・ 真理に導く ヨハネ16:13 / 14:17
・ すべてのことを教える / みことばを思い起こさせる ヨハネ14:26
・ 神のみこころを知る Ⅰコリント2:11
・ 自由(束縛からの解放) Ⅱコリント3:17
・ 主の姿に変えられていく Ⅱコリント3:18
・ 神の愛が注がれる ローマ5:5
・ 〈御霊〉の賜物 Ⅰコリント12章
・ 御霊の実 ガラテヤ5:22−23
・ 御子の栄光を現わす ヨハネ16:14
聖霊による喜び ローマ14:17」
以上、ご利益ばかりで「経綸」理解まるで無し、関心は個人の益のみ


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「荒憎者」
北の王が起こす者
北王から立ち上がる「腕」が神殿を蹂躙するので「七頭の野獣」そのものではない
七頭の野獣が聖所を蹂躙する過程でこの者を据えるDn11:32
偶像のように神の神殿に座し、あらゆる神々の上に自分を高める
背教の聖徒で、サタンの権威を帯びて不思議を行う者の頭目
キリストの代替者で聖徒の中からも従う者が出る
その呼び込む滅びは背教を受け容れた全世界






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