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情報や資料のノートの蓄積

ものみの塔の奇跡の業への見方

以下引用文

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・奇跡的な霊の賜物がなくなったにもかかわらず,現在の会衆にはより完全な知識があり一層強い信仰や希望や愛を抱く理由があります。
92.7/15「愛の勝った道に付き従う」31p

・大人になった人は子供の考え方や態度や方法を捨て去りました。同様に,神の地的な組織が成長してその揺籃期から出た後,神はその組織に預言や異言や知識の霊の賜物がもはや必要ではないと判断なさいました。今や円熟期にある現代の会衆の成員もそのような賜物の必要性を感じませんが,神の霊の導きの下で神に喜んで仕えています。
(コリント第一13:11を引用)同資料

・実際のところ,クリスチャン会衆はもはや揺らん期にはなく,会衆が果たす役目を確かめるための神からの啓示や奇跡の賜物はもはや必要ではありません


奇跡的な異言の賜物はもはや必要ではなく,異言を今日の真のキリスト教の一部として信じる聖書的な根拠もありません。聖書が完成しており,広く頒布されている現在,わたしたちに必要なものは神の言葉の中にあります。わたしたちは聖書から永遠の命に導く,エホバとみ子に関する正確な知識を取り入れることができます。

92.8/15「異言の賜物は真のキリスト教のものですか」6p

使徒たちが死んだ時,いやしの賜物はなくなりましたパウロ自身そのようになることを示唆しました。パウロはクリスチャン会衆をみどりごに例えて,次のように述べました。「わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,大人となった今,みどりごの時のことをやめたのです」。この例えの要点は,霊の奇跡の賜物はクリスチャン会衆が揺らん期にあった時のものであったということです。それは「みどりごの時のこと」でした。ですからパウロは,『それは廃される』と述べたのです。
92.6/1「信仰はどのように病気の人の助けとなるか」5p

・それでは,なぜ癒しがなされたのですか。他の奇跡と同様,それは一つのしるしでした。クリスチャンの伝える音信が紛れもなく神からのものであって,「真理」であることを証明するものだったので」す。使徒パウロは次のように書いてそのことを示しました。「わたしたちの主を通して語りはじめられ,彼のことばを聞いた人びとによってわたしたちのために真実さを立証されたという点で,これほど偉大な救いをおろそかにした場合,わたしたちはどうして逃れられるでしょうか。しかも神は,数々のしるし,また異兆やさまざまの強力な業をもって……その証しに加わられたのです」。(ヘブライ 2:3,4)ですから,重要なのは救いの音信であり,奇跡ではありませんでした。奇跡は音信の真実性を証明したに過ぎませんそのこと,および神がクリスチャン会衆を用いておられる事実がひとたび確立されるや,霊による奇跡の賜物は癒しを含め,もはや必要なくなりました。―コリント第一 12:27‐13:8。
81.12/1「信仰治療-それは害をもたらしますか」7p

・しかし,それら奇跡的な賜物はクリスチャンの会衆が揺らん期にあることを印づけており,なくなることが予告されていました。事実,イエスでさえ,ご自分の追随者は強力な業によってではなく,互いに対する愛によって見分けられることを示唆されました。
洞察1「神からの賜物」612p

初期クリスチャン会衆における奇跡の目的  奇跡は幾つかの重要な目的にかないました。最も基本的なこととして,人が神から力や支持を受けていることを証明する,もしくは確認するのに役立ちました。(出 4:1‐9)モーセとイエスのいずれの場合も,人々はそのような正しい結論を引き出しました。(出 4:30,31; ヨハ 9:17,31‐33)神はモーセを通して,来たるべき預言者のことを約束しておられましたが,イエスの行なわれた奇跡は,見守る人々にとってイエスがその方であることを見分けるのに役立ちました。(申 18:18; ヨハ 6:14)キリスト教がまだ日の浅かったころ,奇跡は音信と相まって,神がキリスト教を支持しており,それ以前のユダヤ人の事物の体制から顔をそむけられたことを理解するよう,個々の人を助ける働きをしました。(ヘブ 2:3,4)やがて,1世紀当時存在した奇跡的な賜物は過ぎ去ることになりました。それはクリスチャン会衆の揺らん期の間だけ必要だったのです。
洞察1「奇跡」687p

今日は状況が異なっている  わたしたちは今日,神がご自分のクリスチャンの僕たちの手によってそのような奇跡を行なわれるのを見ているわけではありません。なぜなら,世界中の読み書きのできる人々にとって必要なものはすべてありますし,すべて利用できる上,文字が読めなくても話を聴こうとする人々を助けるために,研究と経験によって知識と知恵を身に着けた円熟したクリスチャンがいるからです。今の時代には,イエス・キリストが神の任命された救出者であることを証明したり,神がご自分の僕たちの後ろ盾となっておられるという証拠を示したりするために,神がそのような奇跡を行なわれる必要はありません。たとえ神が奇跡を行なう能力を引き続きご自分の僕たちにお与えになったとしても,そのためにすべての人が納得させられることはないでしょう。というのは,イエスの奇跡を目撃した人たちでさえ,そのすべてがイエスの教えを受け入れるよう心を動かされたわけではないからです。
洞察1「奇跡」687p

霊が使徒たちに授け,使徒たちが他の人たちに伝えた様々な奇跡的な能力は,クリスチャン会衆の“揺らん期”の間だけ存続し,その後はなくなることが予告されていました。(コリ一 13:8‐11。「神からの賜物」[霊の賜物]を参照。)マクリントクおよびストロング共編「百科事典」(第6巻,320ページ)は,「使徒たちの死後最初の100年間に初期クリスチャンが奇跡を行なったという情報はほとんど,もしくは何もない。これは議論の余地のない言葉」である,と述べています。
洞察2「力、強力な業」199p

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以下の句はそれぞれに奇跡の賜物がキリスト教にどれほど重要かを示しており、ものみの塔の主張はこれらの前に色あせる。
・コリント第一2:4-5
わたしの話し方,またわたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。5 それは,あなた方の信仰が,人間の知恵によらず,神の力によるものとなるためでした。
ヘブライ2:3-4
[わたしたちの]主を通して語りはじめられ,その[ことば]を聞いた人々によってわたしたちのために確かさを立証されたという点で,これほど偉大な救いをおろそかにした場合,わたしたちはどうして逃れられるでしょうか。4 しかも神は,[数々の]しるし,また異兆やさまざまの強力な業をもって,またご意志のままに聖霊を配ることによって,その証しに加わられたのです。
ヨハネ10:24-25
あなたがキリストなら,わたしたちにはっきり言ってください」。25 イエスは彼らに答えられた,「わたしはあなた方に言いましたが,あなた方は信じません。わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします。
ヨハネ10:38
たとえわたしを信じないとしても,その業を信じなさい。それは,父がわたしと結びついておられ,わたしが父と結びついていることを,あなた方が知るようになり,常に知っているためです
・ルカ10:13
あなた方の中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中に座ってずっと以前に悔い改めていた
ヨハネ15:23-24
わたしを憎む者は,わたしの父をも憎むのです。24 もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。しかし今,彼らはわたしもわたしの父をも見,そのうえ憎んだのです。
ヨハネ第一5:10
神に信仰を持っていない者は,[神]を偽り者としているのです。なされた証し,つまり,神が証人としてご自分の子に関してなさった[証し]に信仰を置いていないからです
・ペテロ第二1:16
わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなた方に知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,その荘厳さの目撃証人となったことによるのです。


所見:新約聖書を書かせた霊感はどこから来たか?当時以上の「完全な知識」がものみの塔に有るとでも?「現在の会衆」とまでいうが、聖霊なくして何の連絡性もない。
第一に、新しい契約と聖霊の賜物の関係性がまるで考慮されていない。むしろ、彼らの言う「油そそがれたクリスチャン」に何の賜物も無いことの言い訳に終始するかのように、聖霊の奇跡を避けようと躍起になっているように読める。
コリント第一13:8を専ら根拠に、聖霊の賜物の廃されることを繰り返している。しかし、その文脈の意図はアガペーを説くことにあり、賜物がいつどのように廃されるかは語られていない。
現状で自分たちに聖霊の奇跡が無いことを弁護するためにこの聖句と悪霊の影響とを並べて聖霊の奇跡そのものの価値を引き下げている。
また、大人になったとき幼子のようなことから離れるというのは、文脈では聖霊注がれた地上の聖徒らの当時の奥義への理解度について記し、将来に天に召された状態では奇跡の賜物による理解を上回る完全な理解を得る事と述べているのであり、将来の聖徒、ましてや聖霊もない普通の人について云うのではない。これは少し読めば明らかなことで、聖書記述の悪用になっている。書いている本人も気付けないとは到底思えない。そこに故意は無いものか?

またなぜ、エフェソスやローマ8章のような解説を一方でしておきながら、他方でひとつの句を挙げてそれを否定するようなことになっているのか?
おそらくは、自分たちが現状で聖霊の賜物の無い事態にあることを正当化するうちにこうなったのであろう。それにしても、あの宗派の「会衆」にどうして『完全な知識』があると言い得るのだろう?聖書をすべて理解していると言うのだろうか?

「揺籃期」だから神の助力が必要だったという論法だが、実際には聖霊の賜物が去る第二世紀以後は本格的な背教の時代を迎える。では、成熟期とはいつなのだろうか?むしろ、聖霊の地上から去ったところに背教が入り込んだようにしか見えない。

それを恰もパウロが賜物の廃される時期を述べていたというべきだろうか?
その文脈では、聖なる者たちから賜物が必要を失う時期が到来することを述べているのであり、より重要な不変の事柄、特にアガペーの重要さを教えている。
更には、はっきりはそう言わない一つの句だけで”神は判断した”などと言える傲慢さはどこから来るのだろうか?自分たちの見解を神の判断にまで高めることに怖れはないのだろうか?歴史をみると聖霊降下がいつに終わったとはっきりは言えず、第三世紀には無くなっていたというのが言える限度ではないか。
マクリントクとストロング共編「百科事典」の記載は大味で余りに具体性に欠ける、「使徒らが死んだ時」とは何時か、では史料に残る聖霊の痕跡の数々、シリアのクワドラトゥスの護教論の記述をどうするのか、エウセビオスは、小アジアの監督たちの証言は、エイレナイオスは?他にもヘゲシッポスや「イザヤの昇天」の筆者の存在をどう見做すのか、結局はものみの塔は、自分に都合の良い言葉を捜すのが「研究」のようだ。初期キリスト教を云々する割には、その辺りを掘り下げはしない。

加えて、終末の聖なる者たちの聖霊の言葉による世界宣教について沈黙しているのは何故か?それこそは聖霊によって語るとされているが、ものみの塔は普通の人々の人海戦術で宣教を行おうとしていることと関わりがあるのでは?つまりは、ものみの塔聖霊を侮り、忌避さえしている。それは『聖霊に対する冒涜』とならないものか。そのうえ、信者を伝道時間申告制の下に置き、その生活から搾取を行ってこなかったか。
・ルカ21:12-15
これらのすべての事の前に,人々はあなた方に手をかけて迫害し,あなた方を会堂や獄に引き渡し,あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。13 それはあなた方にとって証しの[機会]となるのです。14 それゆえ,どのように弁明するか前もってけいこなどしないことを心に定めなさい。15 わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。
・マタイ10:17-20
人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。18 いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。19 しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。20 話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。


必要な事は聖書にすべて書かれているので、今日には聖霊の啓示は必要がないという新教系の教理は珍しくないが、聖霊派に対抗してゆくうちに、全否定に走ってしまったようだ。しかし、その「必要な事」というのはどんな「必要」なのだろう?論旨は破綻しており、あまり付き合うのもくだらないが、信奉者も少なくないので一応は分析しなければならない。

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ものみの塔の暴言
「奇跡を見ても信じない者が居たのだから、奇跡は必要な証拠ではない」

神はモーセを通して,来たるべき預言者のことを約束しておられましたが,イエスの行なわれた奇跡は,見守る人々にとってイエスがその方であることを見分けるのに役立ちました。
今の時代には,イエス・キリストが神の任命された救出者であることを証明したり,神がご自分の僕たちの後ろ盾となっておられるという証拠を示したりするために,神がそのような奇跡を行なわれる必要はありません。
たとえ神が奇跡を行なう能力を引き続きご自分の僕たちにお与えになったとしても,そのためにすべての人が納得させられることはないでしょう。というのは,イエスの奇跡を目撃した人たちでさえ,そのすべてがイエスの教えを受け入れるよう心を動かされたわけではないからです。
 洞察1「奇跡」687p

これはひどい聖霊の奇跡の業こそは、ユダヤ人をメシア信仰の篩いにかけたものであり、ある者らが肯んじなかったのは聖霊による裁きのためである。まさに聖霊は御父が御子に証しを立てた実体であった。これを覆すには使徒ヨハネの著作、福音書と書簡を否定しなければならなくなる。同様に終末において聖霊の奇跡の業は聖なる者たちを通して働き、世界の人々を篩いにかけるものである。それであるから、聖霊への冒涜の罪は許されることのない究極の咎となり、エデンの二本の木と同様の分かれ目を人に与えるものとなると言える。聖霊の奇跡の業によってメシア信仰はユダヤ人の中で試され、ある者には聖霊が、別の者には火の滅びが、その世代の内に臨むこととなっている。これを聖霊による裁きと云わずして何であるのか。(マタイ12:31-37/マラキ3:2/マタイ3:11-12)

聖霊の到来は神の証しであって、シナイ山のような圧倒的な顕現にはならない。
なぜなら、国家法でもあった律法契約に於いては強制的従順が求められたが、終末の世の裁きでは証しを否むこともできる仕方で世に対して神は自由意志を保たせ「信仰により」人を裁かれる。そのために臨御するキリストも不可視である。聖霊と聖徒の証しの場となるからであり、聖霊の奇跡を否定するような、ものみの塔の「油注がれたクリスチャン」の出る幕は有り得ない。
・Joh16:8
『そのものが来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』
・Joh5:36
『わたしにはヨハネがしたものより偉大な証しがあるのです。父がわたしに割り当てて成し遂げさせる業そのもの,わたしのしている業それ自体が,わたしについて,すなわち父がわたしを派遣されたことを証しする』
・Joh13:20
『わたしが遣わした者を迎える人はわたしを[も]迎えるのです。』
・Joh14:12
『わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも,それより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです。』

聖霊による信仰の有無による裁きがキリストの公生涯を通じて存在したことを無視できるだろうか。もしそうするなら終末でも聖霊の働きを認めず、神の裁きの手段を軽んじるのだろう。
そこまで聖霊を軽んじ、その奇跡を軽視するというはやはり『聖霊を冒涜する』という危険に対して恐れなき大胆さを示すことになる。
この宗派は『聖霊が語る』という終末の事態(Lk21:12-15)を一貫して黙殺しているのだが、その理由は何か?
彼らの伝道活動の意味や動機が消えてしまうからか?ならば、それは本末転倒という以外無いし、伝道を強要し酷使することで信者を欺いていることにもなる。結果的に、自派の団体の拡張のために生活上の犠牲を払わせ、非効率な伝道に従事させることに於いて奴隷化を促進するのが目的となっている。それが聖霊の働きを卑しめた酬いとなっている。

明らかにものみの塔聖霊の証しは存在しない。それはほかのどんな宗教や宗派とも変わるものではなく、それを弁解するために組織からの強制的な信者の『業』や道徳性の外面によって取り繕っている。また、諸教会の中世的な蒙昧を利用して、自分たちの教理の方が優れているとしているが、ものみの塔が教え、エホバの証人がオウム換えしに唱える『真理』には、誤謬や不正確さばかりでなく、自己欺瞞の傲慢や、他者への不寛容と優越感がみなぎっている。これは聖書理解が正確か否かの以前の人間性に問題を抱えさせるものである。

まさしく『その実によって』偽預言者を見分けるとは、教理の合理性ではなく、このような教えの結果こそ吟味するべきことを指していると言える。その行いは信者を支配し、異論を許さない独裁体制のものであり、その教導者らは『キリストの兄弟』を自称しながら、その証しを持ってはいない。ただの貪婪な支配欲に動かされ、信者の人格を踏み躙ってまで団体を拡張させ、財産と労力をしぼり取った上に、生活のあらゆる面を支配しようと目論んでいる卑劣漢というべきであろう。どうしてこれらの者らが、キリストの兄弟として振る舞って良いのだろうか。それでも信者らは貧しい生活を奨励されるなかで、「楽園」での良い暮らしと永遠の命に絆され、それを質に取られているために、射幸心と恐怖心のため、その体制を擁護してしまう。その動機は自己保存本能であって、神や人への忠節な愛とはいえない。典型的な「ご利益信仰」という以外に何というべきか。



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8Ἡ ἀγάπη οὐδέποτε πίπτει· εἴτε δὲ προφητεῖαι, καταργηθήσονται· εἴτε γλῶσσαι, παύσονται· εἴτε γνῶσις, καταργηθήσεται.
「愛」は失せることはまったくない、例え預言と言えども消え失せ、異言であっても終り、知識であっても廃されてしまう
9ἐκ μέρους γὰρ γινώσκομεν καὶ ἐκ μέρους προφητεύομεν·
知識は一部分にすぎず、預言も一部分に過ぎない
10ὅταν δὲ ἔλθῃ τὸ τέλειον, τὸ ἐκ μέρους καταργηθήσεται.
全きもの[テレイオン]が到来すると、部分のものは廃れる
11ὅτε ἤμην νήπιος, ἐλάλουν ὡς νήπιος, ἐφρόνουν ὡς νήπιος, ἐλογιζόμην ὡς νήπιος· ὅτε γέγονα ἀνήρ, κατήργηκα τὰ τοῦ νηπίου.
子供であったとき、子供として話した。子供として考えた。子供として推論した。大人になった時、子供としての事は廃させた。
12βλέπομεν γὰρ ἄρτι δι’ ἐσόπτρου ἐν αἰνίγματι, τότε δὲ πρόσωπον πρὸς πρόσωπον· ἄρτι γινώσκω ἐκ μέρους, τότε δὲ ἐπιγνώσομαι καθὼς καὶ ἐπεγνώσθην. 
今はぼんやりとした鏡(像)を見ている、その時、顔に顔を合わせて見る。今は部分を見る、その時にはまったく見る。
13Νυνὶ δὲ μένει πίστις, ἐλπίς, ἀγάπη, τὰ τρία ταῦτα· μείζων δὲ τούτων ἡ ἀγάπη.
今、信仰と希望と愛は留まる。この三つ、最大のもの、それはこの「愛」なのだ。



所見:
聖霊の降下があった時期についてパウロは「部分」を知るのみであると言っている。ではテレイオンが到来したのはいつか?
その全きものとは、彼らが顔に顔を合わせて見るようになる段階を言っており、それは彼ら自身に起きる事柄を指している。
従って、テレイオンの到来とは、彼ら自身が契約を全うした後の天界での姿を述べていると捉えるのが自然であり、将来の誰かについて述べているとはとても思えない。
コリントスのエクレシアには賜物の種類が揃っていた、そこで慢心しがちであったところをパウロ聖霊から益を得るよう秩序立ててもいるが、賜物を得ることに執着する余りにより高次なキリスト教の指し示す精神を忘れぬよう促すのがこの部分と言える。⇒「
ここでは聖霊の賜物が主題なのではなく、『聖なる者』にとって聖霊の賜物に勝るものがあることを強調しているのであり、まして賜物が廃される時代が来ることを主旨にしているわけではない。より優れた賜物を求めてゆくと、究極的にアガペーに至るというのが趣旨である。彼らは天界ではもはや奇跡の賜物を必要としなくなるのは了解できることであったに違いない。
当時の聖霊を注がれた『聖なる者』たちでさえ部分を見るのみであったのなら、聖霊の無い者らは更に低次のものを見ているに過ぎないことになる。
聖書の完成は聖霊の賜物に勝るのではなく、聖霊の賜物が書かせたものであり、聖霊の無い後の時代に、それが在った時代を窺わせるものである。そこで信仰の対象に聖書は含まれず、聖霊がその座を占める理由がある。そして聖書が完成されたものかどうかを誰が言えるだろうか。理解さえ完成に程遠いのだから。
(聖書至上主義は偶像崇拝に近く、聖書記述そのものをさえ誤認させる)

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ここでも、ものみの塔・SDA・モルモンの三者によく共通することで
「神とサタンの緊張関係を信者に迫る」という傾向が強い。
個々の信者の責任として神とサタンのゲージの上を行き来すると教える。その成績重視は信者間にナルシストと鬱病を作り出している。
実際には、その度合いはそれぞれのドグマや教団に対する献身度を指しているが、それが神の是認の大小に関わるものと錯覚させている。
その間断の無いストレスは、サタンや悪霊の存在を身近に妄想させ、同時に神の助けと思われるものをも妄想させる。そのために被害妄想の症状を呈する信者も時折見かけられる。


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「聖書は実際に何を教えていますか」書評

・導入部:これはこの書であつかうべきでない。パンフに記載し本書への誘導として、本書では直に濃い内容に移るべき。そうでないと導入の後での文章の密度が急激に上がり読者層が絞れない。
・神についての思考:これも本書のヴォリュームからしてアンバランスであり、本旨から離れており、これも他の薄い書物で扱うべき。
・聖書の解説:なぜ聖書から説くかは、その表層の字句に硬直的に従わせるという意図が見える。だが聖書には罠があり、それに多くのユダヤ人が落ちた事は考慮されず、神の善意の書としている。信仰の対処が聖書になるように仕向けるところで新教系教会と同じ過ちを犯している。
・サタンの解説:神が悪魔を処置しないのは創造物への裁きのためであり「神が公正だから」ではない。ここでこの世一般を敵視させる土台を据えているが、これは社会適応を妨げ、神の王国に自分が属すと誤解させ自分が世の者でないと妄想させてしまっている。
・キリストの解説:役割が曖昧なまま、人間への奉仕者のように描かれてしまっている。これがご利益信仰と神への無関心の原因を作っている。三一への反論を簡単に取り上げているが、これは聖霊から論じた方が自然に解決する。
・贖い:これを「贈り物」とするのは決定的に誤っている。人間の救いは副産物に過ぎないのであり、しかも、それを得るか否かは裁きによるのであるから、そちらに注意を向けさせるべきで、贖いの犠牲を当たり前のように書いてしまっている。パウロが「無償の賜物」[ ἡ δωρεὰ ἐν χάριτι]と呼ぶものは一貫して、贖いによる「義」を指しており、これは聖徒にのみ当てはまる。「過分のご親切」[τὴν ὑπερβάλλουσαν χάριν]とされるものもエフェソスでは同列に論じられている。
・死の実相:アダムの堕罪の原因を感謝の無さから来る不従順に帰しているが、神の求めは「言う通りにする」事を超えた愛の忠節と創造者の権利の観点が欠けている。ここで不従順と死を関連付けることで滑らかに神の支配の地上の代理者たる統治体以下の組織への従順に置き換える準備を整える。
・復活の希望:人間的親愛の情を煽るべきでない。それをするとアダムと同じ罪を煽ることになる。人類全体への希望が一宗派の信者獲得の便法に利用されている。
・神の王国:ここまでで人間的な欲を煽ってから、人に奉仕するものとしての神の手立てとして登場させているが、これは相当な冒涜であろう。しかも、そのご利益を宣伝しろと言っている!人受け良く、現状の諸悪を除くものとして示されるが、神の王国の目的は人間の復帰による創造の完遂と神を神とすることであって、人間への奉仕ではない。既にその支配が始まったとされるが、その意義が不明瞭で矮小で、この辺りの説明は苦しい。
・霊者の解説:霊の障碍を避けることはまだ良いものの、この章は精神衛生にとってかなりの問題がある。信じた者を悪霊と天使の狭間にあるものとして、日常的に不可視のものへの緊張状態に置くことになり、しかも、この宗教組織はこの脅迫意識を利用しようとしている。それが無いわけではないとしても悪霊の働きを強調することは信者の責任を都合よく転嫁させ、妄想による精神病を招き兼ねないことに於いては除霊を行ったキリストや使徒らの行いに逆行している。
・悪の存在理由:主権者が誰であるべきかを明らかにするために多様な支配を永い期間に亘って試させたという主張は根本的に間違っている。特に神は「主権」を望む理由がない。神が時を経過させているのは魂が存在するのを待っているのであり、その全数が揃うか否かは創造者の意向によるのであり、創造の第七日が終了していない。また全創造物の裁きが関わっている。
・神に喜ばれる生き方:これはひどい!こうして律法の奴隷に舞い戻ってしまっている。善人の外見を整えることに腐心し、自由人のアガペーを忘れている。放縦を避けることは有益ながら、これでは規則によって人を間断ないストレスに陥れ、パリサイのような相互監視社会を作ってしまうことになる。特にヨブ記の解釈の浅さに読む方が恥ずかしくなる。
・命に関する見方:堕胎、体を汚す習慣、敵意を避けることは結構ながら、規則化するべきでない。特に血については律法の規定がそのままキリスト教取り入れられたのではない。それは表面的は神の命令として捉えるべきでなく、キリストの犠牲の価値と深く関わっているのであり、輸血を避けるのは健康上の理由以外に残らない。
・家庭生活:これは契約に預かる者らへの指示を規則化している。より重要なのは聖霊による聖化を体で表すことであった。それをこのように適用するなら、不必要な圧力をかけることになる。むしろ、このような問題は、聖書の本旨とするところではない。一般人の聖書への誤解を利用してしまっている。
・神に是認される崇拝:今日、聖霊なくして神に是認された崇拝がどこにあるのだろうか?契約に無い者に崇拝を興せるか?アダムの罪人であるのに「自分たちは正しい」とか「神に是認されている」とか言う以上の偽り者もない。「狭い門を通って」行くのは聖なる者らのことであり、信徒に奴隷の輪縄をかけるようなことはするべきでない。それでは「崇拝」ではなく「カルト教」になってしまう。


全体に、この団体への信者集めの心理誘導が随所に見られ、聖書やキリスト教の精紳から徐々に引き離されてゆく、最後にはキリスト教が指導部への信仰に入れ替わっており、その過程では様々な欲望煽られ、恰もエデンの蛇のように組織信仰を脅して強要してくる内容である。
特に、排他性に於いて組織以外を敵視また蔑視させる手法には多くの悪意ある中傷を見させられる想いがする。

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ものみの塔支配の根拠
・キリストはメシアであり神の王国の王である
×1914年からキリストは天で支配を開始しているのだから、地上の信者をも治めているはずである
・1914年の年代根拠は考古学によって崩れているうえ、百年以上を経過し意味が無いし「世代」の解釈は完く間違っている
×キリストの兄弟たちが終わりの日に居るはずであり、その者らの代表は統治体である
・終りの日にキリストの兄弟らは最前線にあり強い迫害の下にある
×その者らに親切を示せば救われるのであるから、統治体に親切を示す信者がハルマゲドンで救われる
・為政者に対峙して論駁不能な言葉を統治体はとても語れない
×統治体への親切とは伝道を行うことである
・世界伝道は為政者への聖霊の言葉に世界が注目する中で行われる
×キリストは統治体を通して地上に神権統治を行っている
・キリストの地上統治の前に聖徒は天に揃っているはず
×神は常にひとつの組織だけを用いてきたのだから、ものみの塔だけが唯一正しく、その信者であることが倫理的に正しい
・初期キリスト教のエクレシアは緩やかな連合を持ち、使徒や主要な弟子らが各地で個別に活躍し、中央集権体制を持たなかったが、霊の導きによって一致を得ていた


誘因
・楽園での永遠の命
これをキリスト教界が唱えて来なかったので、ものみの塔だけがこのご利益を差し出しているかのように錯覚している。そこでこの組織に永遠の命が占有されているかの誤解を煽り、命欲しさの願望を利用させてしまった。
そこでは、永遠の命が組織の指示に従うことの見返りや報酬のようにされているのだが、信者は、その区別がつかないように思考誘導を受けている。
エホバという神は、その意に適う人を生かし、そうでない人を滅ぼすという好き嫌いの激しい性格として描き出される。当然ながら、これはキリストを犠牲とした聖書の神とは言えない、造られた神である。組織はエホバという神の好き嫌いに不安を感じさせることで、信者の行動を制御している。「エホバはこう感じている」という言い回しにその脅しが端的に表れているが、指導者の都合に過ぎないこの欺瞞に対して、信者は強い不安を煽られてしまう。信者の関心が自己保身に向かっているからで、神探求の気概が無いからである。この脅しに屈する信者の利己的な「従順さ」に、指導層はさぞやほくそ笑んでいることであろう。人間性への蔑視がここまでまかり通ってしまう事例は歴史上に度々みられてきたことながら、どうしても繰り返すのが人間の性らしい。



ctg17「ものみの塔 関連
ctg20「エホバの証人向け



多くの人々を支配下に置く圧制体制の構築については巧妙であり、聖書を自ら研究していない人であれば、同意し易い罠となっている。
しかし、近年の伸び悩みは、上層部が研究を怠っており、以前からの誤謬を糺す気概に欠けて、権威にしがみ付いて恰も状況倫理指導のように程度を下げた道徳性を強調しながらも、実際の道徳性での犯罪と欠点が露見しつつあるところに問題があるようだ。但し、人は一度信じ込んだものを簡単には変えられず、全体が老化しながらも細々とは続いてゆくのであろう。

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ものみの塔研究用2017年4月号
『誓約したことは果たせ』16節

聖書は別居の根拠について述べていませんが、特定の状況のもとで別居せざるを得ないと判断した人もいます。配偶者から虐待されている場合や、配偶者が背教的な見方を持っている場合など、自分の命やエホバとの関係が極度の危険にさらされる場合です。

虐待はともかくも、「背教的な見方」を配偶者が持つと「自分の命やエホバとの関係が極度の危険にさらされる」というところに呪術的な思考が感じられる。特に「エホバとの関係」というのは将来得るであろう「永遠の命」を指すつもりであろうが、配偶者は自動的にその関係の範囲外に居るということになる。では、配偶者の命をどうするつもりか?またそれを決めるのは組織に所属することなのか?これは『神の象り』としてのすべての人を尊重させず、却って差別させ、人命を軽く見させることにおいて悪魔的であり、軍隊が兵士を消耗品と見做すような人間性への蔑視に人を誤導する教理というべきである。
まず、生活を規制する律法として聖書を見ており、ここにまず矛盾がある。一夫婦の別居の根拠まで聖書は面倒を見るだろうか?
次いで「背教」とは何か?そう判断する背景は単に「組織への批判は一切受け付けない」というだけのことではないか?そうでなければ、例えその組織に立場に立って考えても、信者の大切な配偶者の「命」のために、その信者自身も組織も役立つところがあるのではないか?
つまるところ、こうして夫婦関係にまで深く立ち入ることさえも、信者に組織批判を聞かせないための保身に過ぎず、この宗教組織は極めて利己的で隣人愛にも宣教の精紳にも反しており、この宗派が宗教としてもはや危機的段階に入っていることを表している。既に、宣教に打って出ることを上層部そのものが放棄していることが、この処置法に見えている。宣教とは、誤謬を正してゆく行為であって、自分の間違いを指摘されることを怖れていては何もできない。自分が正されるべき誤謬だからである。



別記

・得られる益を広告にする
それが聖書にあると言っては、自分の派に人集めする。
つまり、それらの益を得られる方法があると言っては、その方法を教えるのは自分たちだけだとして、聖書にある希望を餌に人々を仲間にし、一つの教団に閉じ込めようとする。
誰がその集団が存在することによって利益を得るかと言うと、まず、配当を受ける会員であり、次いで、それによって生計を立てる教団指導部である。
それから、無給ながら、人々のそれぞれの集まりの長老たちが権威を振るう事が許されるのだが、実質的にはどんな苦労も自発的に負う事になり、他の信者と変わることなく奴隷化されるが、僅かな特権意識に煽られ自分の立場の低くされていることに気付かない。そこで指導層も各集りの長老を大切にはする。


  • これらを俯瞰し要約すると

保証する必要のない聖書に書かれた理想世界を宣伝して、人々の欲を誘い、一つの教団に取り込んで奴隷とし、ひたすら人数を増やす仕事を最優先にさせ、それが神の喜ぶ崇拝であると思い込ませていることになる。

目的は、本来は宗教思想の顕示欲が高じたものであったらしいが、そこに会員報酬を加えてしまい、人集めをしてそこからの配当を目当てとする集団が混じり、指導層の内部で営利化が進んでしまい、1914年説が後退を余儀なくされた辺りから、指導部が営利目的の人物で占められるようになり、営利という毒が全体を蝕んでもいたが、近年では訴訟による賠償や和解のための負担が非常に大きくなり、営利とも言えないような事情に陥っているらしい。

近年の聖書理解の稚拙さは、指導層がキリスト教には素人であることが散見される。そこで信者の良識がいよいよ試されつつもある。

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