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聖霊が到来し世に暴き出す三つのもの

ヨハネ16章8節を解する

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7:ἀλλ’ ἐγὼ τὴν ἀλήθειαν λέγω ὑμῖν, συμφέρει ὑμῖν ἵνα ἐγὼ ἀπέλθω. ἐὰν γὰρ μὴ ἀπέλθω, ὁ παράκλητος οὐκ ἐλεύσεται πρὸς ὑμᾶς· ἐὰν δὲ πορευθῶ, πέμψω αὐτὸν πρὸς ὑμᾶς. 
しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。


8:Καὶ ἐλθὼν ἐκεῖνος ἐλέγξει τὸν κόσμον περὶ ἁμαρτίας καὶ περὶ δικαιοσύνης καὶ περὶ κρίσεως·
そしてそれがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 註1


9:περὶ ἁμαρτίας μέν, ὅτι οὐ πιστεύουσιν εἰς ἐμέ·
罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないから


10:περὶ δικαιοσύνης δέ, ὅτι πρὸς τὸν πατέρα ὑπάγω καὶ οὐκέτι θεωρεῖτέ με·
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるから


11:περὶ δὲ κρίσεως, ὅτι ὁ ἄρχων τοῦ κόσμου τούτου κέκριται.
 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるから 註2


12:Ἔτι πολλὰ ἔχω ὑμῖν λέγειν, ἀλλ’ οὐ δύνασθε βαστάζειν ἄρτι·
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。


13:ὅταν δὲ ἔλθῃ ἐκεῖνος, τὸ πνεῦμα τῆς ἀληθείας, ὁδηγήσει ὑμᾶς ἐν τῇ ἀληθείᾳ πάσῃ· οὐ γὰρ λαλήσει ἀφ’ ἑαυτοῦ, ἀλλ’ ὅσα ἀκούσει λαλήσει καὶ τὰ ἐρχόμενα ἀναγγελεῖ ὑμῖν.
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。


14:ἐκεῖνος ἐμὲ δοξάσει, ὅτι ἐκ τοῦ ἐμοῦ λήμψεται καὶ ἀναγγελεῖ ὑμῖν.
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。


15:πάντα ὅσα ἔχει ὁ πατὴρ ἐμά ἐστιν· διὰ τοῦτο εἶπον ὅτι ἐκ τοῦ ἐμοῦ λαμβάνει καὶ ἀναγγελεῖ ὑμῖν.

父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。


16:Μικρὸν καὶ οὐκέτι θεωρεῖτέ με, καὶ πάλιν μικρὸν καὶ ὄψεσθέ με.
しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう

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註1:これは口語訳、他に「世にその誤りを認めさせます」(新改訳)「世の誤りを明らかにする」(新共同訳)
本文でこの部分は8節の最初にあり、多様に訳されている元の動詞は[ἐλέγξει](原型エレグコー)で「叱責する 批難する 明るみに出して確信させる ひどく咎める 窘める 誤りを示して言い開きを要求する 罰する」等
直訳「その者は来て、この世の誤りを明示し咎め立てる。つまり罪について、義について、裁きについて」(指弾されても世が納得して神と和することは決して無く、却って敵対を鮮明にし、神と人の論争に至る)


註2:口語訳では「裁かれる」となっているが新改訳は「さばかれた」本文では[κέκριται]と完了形受動態であるので、既に「裁かれた」が近い
これはキリストの刑死の前の晩に語られているが、その死に至る忠節がもはや明らかであるので、完了した裁きとして決然と語られていると見てよいのであろう。


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「その者(聖霊)は来て、この世の誤りを明示し咎め立てる。つまりについて、について、きについて」 (Joh16:8)

聖霊が到来し世に暴き出す三つのもの


1.「罪」=「わたしを信じないから」
聖霊の業を見てさえキリストを信じない(Joh3:36)。これはイエスを通じて為される業の証しを受け容れず(Mr3:22)イエスの「父の業」を認めず(Joh5:36-38)イエスが遣わされたメシアとして受け入れなかった(Joh10:36-38)そうして不信仰から聖霊に対する決定的な罪に至った(Mr3:29)。同じように終末には聖徒がイエスの業を行い(Rev11:6-7)、この世がその聖霊の業に対して不信仰を見せることからその決定的な「聖霊を冒涜する罪」を暴くことになる。(Joh14:10-14)



2.「義」=「わたしが父の御許に行くから」
キリストは地上で忠節を保って義を打ち立て神の右の座に就く(Heb10:12)イエスが父の御許に戻るからにはその働きを成し遂げており、被造物の神への忠節が一度限り立証され(Rom3:25)、キリストの「義」を完全なものに仕上げた (Isa9:7/Heb2:10)。その義はキリストの兄弟に共有され彼らを清めることになる(Heb2:11)パリサイ派をはじめとしてユダヤ人は律法遵守による「義」を目指したが、パウロが指摘するように「人は律法によって義とされることはない」(Rom3:20)人が義とされるのはキリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ、その犠牲に基づく義によって許される以外にはない。(Rom1:17)聖徒らに聖霊が注がれるのもイエスが天の座に就いた証拠(Act2:33)。ゆえにイエスは天に去らねば聖霊は来ないという(Joh16:7)。終末にこの義は、聖霊の再来によって再び世に示される(Mt10:18-20)



3.「裁」=「この世の支配者が裁かれたから」
キリストの死に至るまでの忠節は創造界に判例を示すことになった(Ps16:10)。キリストの死は創造者の意図に反して生きるサタンとすべての追随者らに反論の余地を残さなかった(Heb2:14)。この観点から見てキリストの死は悪魔に対する勝訴となっている(Joh14:30)。神に対する忠節を肯じない終末の世は、その歩みの根本である悪魔の支配する利己的精神が既に裁かれていたことを聖霊の業を通して知らされる(Eph2:2)。世が神に敵するのはその支配者が神の敵対者だからである(1Joh5:19)。聖霊の宣告により、神を無視しサタンの道を行くすべての者には究極的悪の烙印が押され(1pet3:19)、こうして将来に世が裁かれるときに聖霊を通して裁きの根拠は明らかにされる(Rev15:4)。聖徒らは天に召された後「天使をさえ裁く」権限をも得る(1Cor6:3)



・これらが世に対して聖霊によって暴き出されるとは
「これこそが正義だ」と言って、根本的な倫理上の問題を指摘することは、人間の不倫理性のために人間同士では単なる争いになるばかりで決して意義も進展も無い。しかし、キリストの犠牲で初穂として贖われた「契約の子ら」には義があり、その証しとして超自然の聖霊が臨んで、彼らを通して世に語り、人の能力を超えた証しの業を行わせることができ、そこに創造者の真の義がある。このように世が滅ぶべき理由を示すことができるのは聖霊を得た者らのみの行い得るところである。それでも人間の側の一半は神に論争を仕掛けるだろうが、自らの論理が崩壊していることを悟るごり押しとなるのだろう。そこで裁きは必要となる。⇒ いなごは五か月の間人々を苦しめる 騎兵隊は殺す

新約において聖徒の贖われ罪の無い状態が強調されるのも、聖霊を受けた者としての浄化と、聖霊が成し遂げる事柄の超越性を担保するからであろう。彼らがただの人であるなら「新しい契約」は何の意味も効力も持っていないことになる。彼らがキリスト同様に罪が無い状態に入っていなければ聖霊を受けることはできない。(Rom8:1)

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ἁγιασμῷ πνεύματος εἰς ὑπακοὴν
(キリストへの)従順による霊の聖化(聖潔) 1Pet1:2
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。


"ὅσιος"
「罪によって汚れがない、不正とは無縁の、あらゆる道徳的責任を宗教的に観察している、純粋な神聖な物、信心深い」 Rev15:4 NWTはなぜ「忠節」と訳したか⇒「忠節な者が腐れをみることを」以来ホシオスを「忠節」と訳し同一語を当てた。思うにこの原語の意味は然程狭いものではないので、もう少し幅を持たせてよかったのでは?Ps16:10では[הסידך](はスィドゥはー)「敬う者」ヘセドに由来⇒LXXでは[ὅτι οὐκ ἐγκαταλείψεις τὴν ψυχήν μου εἰς ᾅδην, οὐδὲ δώσεις τὸν ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν. ] ペテロ(ルカ)の引用文⇒[ὅτι οὐκ ἐγκαταλείψεις τὴν ψυχήν μου εἰς ᾅδην οὐδὲ δώσεις τὸν ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν]Act2:27 同一文
こうして見直すと随分意義深い内容になっている。つまりヘブライから"ὅσιος"を見ると「変わらぬ愛の持ち主」を含意すべきことが分かる。神は「変わらぬ愛の持ち主」つまり忠節な者をハデスに捨て置かれなかった。同様に「変わらぬ愛の持ち主」の死は「神の目に貴重」である(Ps116:15)。つまりキリストに続く殉教者たちは、神への「忠節」を尽くし「変わらぬ愛の持ち主」であることを示す。これをNWTは「忠節」"loyal"の語に集約した。口語、新改訳、新共同、岩波委員までもが横並びで1Tim2:8などで「清い」としたほかは一貫して「聖(なる)」を当てている。しかし、これはヘブライ語からの含蓄を以ってはじめてそのニュアンスと重要さが感覚される。単に「聖なる」では決してないし、単なる「忠節」でもない。だが、どちらかと言えば「忠節」にずっと近い。これもまた精密な意味の転写(単なる翻訳を超える)が極めて難しい単語の例であるうえ、文にもたらす影響も小さくはない。「エデンの問い」で求められるのはこれではないか。







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「聖人」とは-引用

  • カトリックでこの聖人と呼ばれる人々は、自分自身の功徳によって義とし、自分を救うに足る功績、功徳を積んだ人です。そればかりではなく、なお自分を救うための功績・功徳の余りがあるのです。・・ローマ・カトリック教会の理解によれば、教会の中には2種類のクリスチャンが存在するとしています。その第1は、自分の功徳・功績によって自分を救うことのできる偉大なる聖人です。第2は、自分自身の信仰や功徳・功績で自分すら救うことのできない弱い、平凡なクリスチャンです。この偉大な聖人と弱い平凡なクリスチャンの交わりを「諸聖人の通功」というのです。その中で、もっとも大切な価値のある交わりが、聖母マリヤと理解し信じるわけです。-
  • 福音主義教会にとって、聖徒交わりとは何でしょうか。私たちは、「イエスは主なり」と告白する者たちが集まっていると聖徒の交わりが成立すると信じています。この程度の理解では、聖徒の交わりと言うことはできません。

聖徒の交わりの本質は、聖書が正しく説教され聖礼典が正しく執行されるところに存在するということなのです。つまり説教と聖餐を中心とした交わりの中にこそ成立する交わりです。決して諸聖人たちとの交わりではありません。この聖徒の交わりの本質はどこにあるのでしょうか。アウグスブルク信仰告白の第七条には、次のように述べられています。
第七条 教会について:「また、われわれの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時の続く限り、永続するものであること。さらに教会は聖徒の会衆であり、そこで福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音にしたがって正しく執行されるのである」。
聖徒の交わりの本質は、聖書が正しく説教され聖礼典が正しく執行されるところに存在するということなのです。つまり説教と聖餐を中心とした交わりの中にこそ成立する交わりです。決して諸聖人たちとの交わりではありません。-

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