Notae ad Quartodecimani

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自己愛性パーソナリティ障害

アナニアとサッピラ、デオトレフォスの例から思い当たる症例

Wikiより-(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%84%9B%E6%80%A7%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3
アーノルド・クーパーによる自己愛性パーソナリティ障害の原因となる因子

・生来の過度に敏感な気質
・現実に立脚しない、バランスを欠いた過度の称賛
・良い行動には過度の称賛、悪い行動には過度の批判が幼少期に加えられた
・親、家族、仲間からの過剰な甘やかし、過大評価
・並外れて優れた容姿、あるいは能力に対する大人からの称賛
・幼少期の激しい心理的虐待
・予測がつかず信頼に足らない親の養育
・親自身の自尊心を満足させるための手段として評価された

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病理的なナルシシズムは重症度の連続体の中に生じる。その中でも極端な形のものが、自己愛性パーソナリティ障害である。自己愛性パーソナリティ障害は、自分は人に根本的に受け入れられない欠陥があるという信念の結果によるものと考えられている。この信念は無意識下に保持されているため、そのような人は、もし尋ねられても、概してそのような事実を否定するであろう。人が彼らの不完全性(と彼らが思うこと)を認識し、それに続いて耐え難い拒絶や孤立が生じることを防ぐために、その様な人々は他者の自分に対する視点と行動を強力にコントロールしようとする。

病理的なナルシシズムは、幼年期の世話役である親との関係性の質の低下によって発達することがあり、そのような関係性においては、両親は健全で共感的な愛情を彼らに与えることが出来なかった。その結果として子どもは、自分が人にとって何の重要性も持たず、関係性もないと認識してしまう。このような子どもは概して、自分には価値が無く、誰にも必要とされないというパーソナリティ上の欠陥をいくらか有していると信じるようになる。

病理的に自己愛的である限りにおいて、彼らは操作的で、非難がましく、自己没頭的で、不寛容で、人の欲求に気がつかず、自分の行動の人への影響を意識せず、他者に対し自分が望むように自分のことを理解するよう強く主張する。自己愛的な人物は、他者を犠牲にして自分を守るための様々な戦略を用いる。彼らは他者を価値下げし、非難し、傷つける傾向がある。また彼らは怒りと敵意を持って、脅迫的な反応で応じる。

過度に自己愛的な人物は概して、批判されたときは拒否され、屈辱を与えられ、脅かされたと感じる。これらの危険から自分を守るために、現実あるいは想像上のものにかかわらず、いかなるわずかな批判に対しても、彼らはしばしば軽蔑、怒り、あるいは無視などで反応する。そのような状況を避けるために、自己愛的な人の中には、社会的にひきこもって内気で謙虚であるように装うものもいる。自己愛性パーソナリティ障害の人物が、称賛・是認・注目・肯定的態度が不足していると感じた場合には、彼らは自身が脅かされたという感情をはっきりと示すことがある。

自己愛性パーソナリティ障害の人物は、しばしば野心的で有能なことがあるが、挫折や反対意見、批判に我慢強く耐える能力がなかったり、加えて共感性の不足が、人と協調的に仕事をすることや、長い期間を要する専門的分野での成果を維持することを困難にしている。自己愛性パーソナリティ障害の人物は、現実離れなほど誇大的に自己を認識しており、しばしば軽躁気分を伴って、概して現実の業績に不釣り合いな認識でいる。

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セオドア・ミロンの分類-
(実際には以下が混じり合っているケースが殆どとのこと)

1.反道徳的ナルシスト
良心に欠けている。無節操で、道理に無関心であり、不実で、詐欺的で、人を欺き、傲慢で、人をモノのように扱う。支配的で、人を軽蔑し、執念深い詐欺師である

2.多情型(好色的)ナルシスト
性的に誘惑的であり、魅惑的で、心を引きつけ、思わせぶりである。舌のよく回る巧みな人物であり、快楽主義的な欲望に耽るが、本当の親密さにはほとんど無関心である。貧乏な人やうぶな人を魅了し、意のままに操る。病的に嘘つきで、人を騙す

3.代償的ナルシスト
自尊心の欠如および劣等感を中和あるいは相殺することに努める。すなわち、自分は優れており、特別で、賞賛されるべきであり、注目に値するという幻想を生み出すことで自己の欠損をバランスしようとする。それらの自己価値感は自身を強調した結果生まれたものである

4.エリート主義的ナルシスト
偽りの業績や特別な子ども時代の体験のために、自分は特権的で、特別な能力を有すると信じている。しかし、立派な外見と現実との間に関連はほとんどない。恵まれた、上昇気流にのった良好な社会生活を求め、人との関わりにおいては特別な地位や優越が得られる関係を築こうとする

5.狂信的ナルシスト
自尊心はひどく幼少時代に捉われており、普段から誇大妄想的傾向を示し、全能の神であるという幻想を抱いている人物である。自分は重要ではなく、価値が無いという幻想と戦っており、素晴らしいファンタジーを夢想すること、あるいは自己鍛錬を通じて、自尊心を再確立しようと試みている。他者から是認や支持を得ることができない時には、壮大な使命を帯びた英雄的で崇拝される人物の役割を担おうとする

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構造-
病理的な親は自分の延長物として子どもを利用する。常に上を目指すよう励まし、人より優れることを期待する。期待に沿う限りにおいて子を甘やかし、賞賛するが、出来ないときには失望し、怒りを表出する。自身の自己愛によって子を振り回すのである。こうした期待の内実は親自身の欲望であり、子どもを自分の道具、所有物、飾るモノとして扱っているにすぎない。親の自己愛の照射を受けて養育された子どもは、期待に添う限りは賞賛され、愛されるが、一方では自分は無条件には愛されない(すなわち、本当には愛されない)という二重構造の中で生きる事となる。

そうした子どもは物質を介して甘やかされても、信頼と受容の関係という甘えを体験していない。輝く子どもであることを無意識に要求され続け、しかし際限のない親の欲望を満たすことができず、常に自己が無力化される機構が働いている。無力化される体験を浴び続けることで形成されるのは、深刻な欠損を抱えた空虚な自己である。自己不信を中核とした自己意識は常に悪性の抑うつを生み出し続ける。自分は無力で価値のない、無意味な存在であるという極度に価値下げされた自己像を抱える子供は、自己不信が生みだす深刻な抑うつを防衛するために、鏡像で映したような万能的な自己を発展させて自己をバランスしようとする。甘えの代償として手に入れたのは病理的自尊心であり、背後には茫漠たる自己不信が横たわっている。

内的価値は自分の存在が周囲から許され愛されており、無条件に自分という存在には価値があるという感覚があるときに成立する。自分の内的なものに自信がない彼らが社会で生きていくためには、誰もが目で見てわかるような外的価値を獲得するしかない。学歴、職業、地位、才能、ブランド、スリムな体型などはその代表的なものである。周囲の人からどう思われるかに敏感であり、常に他人と自分を比較しながら生きざるを得なくなる。輝く自分を実現するには、他人を蹴落してでも上位にならなければならない。外的価値は結果を出すことでしか得られないため、プロセスはなんの意味も持たなくなる。

結果主義は勝ち負けの世界を用意し、必然的に嫉妬と羨望を呼び起こす。等身大の自分を持ち合わせていない彼らは、優越している自分は他者を見下す対象にし、転落した無能な自分は見下される対象になり、対等の人間関係をつくることが困難になる。早期に自立を期待され、甘えを封印してきた彼らは、子ども時代を積み残したまま次の発達段階へと進んでいく。誇大的自己は無条件に愛されなかった証であり、これは一種の躁的防衛でもある。

マスターソンは、「自己愛パーソナリティ障害の精神内界構造は、誇大自己表象と万能対象表象から成り立っているが、この両者は融合して一つの単位となり、継続的に活性化されて、基底にある攻撃的な、あるいは空虚な対象関係融合単位に対して防衛している。このように絶えず活性化されているので抑うつを経験することが少ないのである」と述べており、誇大的自己は抑うつを防衛するために機能していることを指摘している。


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自己愛性パーソナリティ(障害)を有していたとされる有名人には、三島由紀夫太宰治サルバドール・ダリヘルベルト・フォン・カラヤンがいる。

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治療の中心は精神療法で、薬物治療は抑うつ症状等に対する対症療法として行う。

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所見:カナダの学者の曰く「現代社会はナルシストの生産工場のようだ」。そこで、これらの人々もまた被害者と言えるのだろうし、その原因となった親たちも、歪んだ社会構造の影響を被ったのかも知れない。
親の原因、本人の様子など思い当たる例が幾つかあり。
いずれも他の人々と異なるが、その他者との関わり方、自分自身への考えを明かされるなどを経てはっきりとしてくる。
見るところ、このような人々は往々にして、自分の利益について綿密に計算するので、指導的立場に就くことが多いが、ほとんどの場合に能力的にはそれを満たしている。しかし、人格面では包容力やときに道理に欠け、そこで他者を自然に愛することが難しい。
ナルシストは周囲を傷つけるので評判は必ずしも良くない、これらの人々を批判することは容易だが、実効的な対策を講じることこそが求められるように思える。
最低限、この傾向を持つ人々にはそれを自覚、あるいは自重してもらう必要がある。もちろん自己愛が過剰な人を一般よりも高い立場を与えることは到底相応しくなく、双方に害を招く。
ナルシズムが症状であるなら、それが当たり前に社会に押し通されない防壁を必要とするに違いない。
そうして初めて他の人々の接近も安心できるように思う。(いや、安心とまではゆかない)
だが、自覚のきっかけをどう作るかは難しい。たいていの人は自分がナルシストである現実を受け入れられない。殊に宗教集団内では人格に欠陥があるとの共有認識が広がることを、その人は自己愛のゆえにも受け入れられない危険度は高い。それがその人に対する福祉であると説いても、それを本人が周囲からの「攻撃」と把握すれば、増々頑なにさせることになり兼ねない。
医療側に委ね診断を下してもらうにしても、受診の意向がなければどうにもならない。加えて、症状の多少によっても対応が変わってくるのだろうし、余り神経質になると集団内部で「診断合戦」を誘発する危険もある。
一つには「対人問題」が生じたところで受診を促すことはできるかも知れない。だが、この場合「問題」を未然には防げない。
また、測る規準が主観が頼りなので、本人の説得が難しい。
予防法としては、普段から隣人愛について全体に講話が繰り返され、他人と比べて優越や幸福を感じることの無い様に説き勧められ、全体にその雰囲気を醸成されている必要がある。もちろん、誰にせよ高い立場を目指すよう誘うことなどできず、それはサタンの精神を助長し、「高ぶる目」の持ち主を是認してしまうだけでに違いない。
集団を導く者は、この種の危険にも気を配り、自己愛過剰な精神を即座に見分け、これをその都度退けることができなければ、サタンの特質を蔓延させて(まったく浄化することは無理にせよ)しまうだろう。この問題は単なる悪行以上に深刻でありながら、対象者は「ひとかどの人」に見える。そうなると教導者は内部の人であれば相手が誰であっても、ひるまずにはっきりと叱責を与えることも出来なければならない。(この資質については別記しよう)

これが、神との関係、殊に「裁き」にどう関わるのかは予断を許さない。それは健常者にせよ同じであろうが、危険度が低くないとは言い切れない。それが病気なのか、倫理的決定なのかを知るのは終末の裁きにおける本人の行動次第という点はだれも同じであるのだろう。だが、やはり危険度は極めて高いように見えて仕方がない。そこで、これははっきり本人に自覚してもらい、周囲も助ける必要があるのだろう。畢竟、人間は皆倫理的に欠陥があり、その点で助け合う必要はそれぞれに在るだろうから。(このものの見方は甘いだろうか?)
しかし、彼らの能力だけは用いるべきか?そうされないと彼らは全人格を否定されたように感じるのだろうけれども、標準以上に高い評価を与えることも本来病状には良くないだろう。能力に関わりなく無条件に受け容れられていることを信じてもらえるようにするべきか。
最初の問題は、その人の自己愛の過剰さと見えるものの尺度が観察者の主観に頼る以外にない点、それから、その言動が本心から出ているのか、症状なのかの判断が一般人には難しいこと。
ひとつの判断基準として、本人がある程度の時間を経ても態度を変えない、また、はっきりと意志表明して去ってゆく場合、これはその人の決定として尊重すべきなのだろう。


(思うに、代議士を立候補制にしたところで、世の体制はこの人々を濾し取らず、相当数が政治の世界に居るのではないだろうか?また、そのような人々が成功を収める構造であることに注意を喚起するどころか、却って自己愛に問題ある人々を利用さえしているのではないか?となれば、政治の世界は増々キリスト教からは縁遠い。ましてキリスト教団体もそのようなら何をかいわんや)







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