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多くのキリスト教徒にとって自らの「救い」が気にならぬわけもないだろう。あるいは、神との関係を得たと思える事象の経験もそれに類するかも知れん。
そのように自分の「救い」が確定したと得心するのも「信仰」のなせる業か?
この状態に入ると相当に安心するのだろうか、それ以上に深く聖書の内容を探求する意欲が失せるようにみえる。
あとは「適度」な付き合いを惰性で進めるかのように、周りの信者から着かず離れずといった運命共同体のような集団生活を専らとするようになる人々は多い、というよりは大半がそのように見える。
例える相手が素晴らしすぎるかもしれないが、後に使徒に選ばれることになる漁師のアンデレとシモン(ペテロ)の兄弟は『我々は(遂に)メシアを見つけた!』と喜び叫んだとき、これらの兄弟の精神は、自分たちをともかくとして、無心に神の業を見出そうとしていたように見える。(ヨハネ1:41)
彼らはバプテストのヨハネに喜びを見出し、さらに進んでその先のメシアにいち早く到達したのである。
一方で、伝統的な宗教領袖たちは自己満足の蒙昧のうちにあり、新しいものはヨハネを含めて望んではいなかった。
彼らはモーセに関わる口頭伝承という懐古的で彼らからすれば「安定的」に見える古いぶどう酒に浸って、それ以上ないであろう安心感にあったろう。
今日のクリスチャンと称する人々の多くは、まずは自己の保全たる「救い」の確定が何といっても最重要な事柄ではないのだろうか。
それは、自分の将来が関わっており、それが安全となればそれで宜しいのであろう。あとは関心の埒外である。
したがって、その後は自分の将来を保全してくれる「教理」とそれを教える「教団」は運命共同体であるので、それが脅かされないことを切に願うであろう。それで「古いぶどう酒は美味い」というのだろうか。(ルカ5:39)
その「教理」は間違いであってはならず(例え実際に間違いがあったとしても)その教団は絶対的に神からの経路でなくてはならない。
なぜなら、そこに自分の大切な将来がかかっているからである。
この人々にとって、「神の事柄」は行きがかり上関係したもので、自分の将来に奉仕させる下僕なのである。
つまり、その中心は自分ということになろう。それで居ながら神に仕えていると信じて疑わない。果たして神はこのような「崇拝者」をどう感じているのだろう。
そこにアンデレやシモンのような探究心はない、いや、この点で言えば、教団の印を額と手に受けたかのように、教導者の言う通りに考え行動しようとし、その枠から出ることを異様に恐れるので教導者からすれば信者とは御しやすいものである。
自分たち以外はみなサタン圏のものである!と言えば自己保存に励む信徒たちは自分たちの将来の危険に怯えつつ、自分の教師の教え以外の一切を拒み、それが恰も「善悪の知識の木」でもあるかのようにせっせと避けるであろう。
つまり、将来を安心したくば我が教えに従え!他を見れば危うくなろうぞ!と脅すなら喜んでそうする隷属の身である。
しかし、その動機は自己保全であって、神の道がどうかということでもないし、まして探求ではなく餌付けされた動物のようなものである。
なにしろ、人間の提供するものの中に絶対の真理や神の経路を掴んだというのであるからたいしたものではないか!
そこに絶対の真理や神の経路があるのなら、私もそうしたい!
彼らに神自身やその意志また行動を知ろうという素のままの動機がどれほどあるのかは分からないが、どうも怪しいものである。
自分の救いに相当する部分を知りさえすれば、それでもう満腹のご様子ではないか?
自分たちの置かれたユダヤの宗教領袖たちの作る宗教世界に満足せず、上からの業を探り求めたアンデレたちのようではなさそうには見える。
探究心を妨げるのは、利己心や怖れではないのだろうか?
端的に言って、それは自分が崇拝したい神を徐々に造り上げさせる。
神を無視したその人間の方便の動機は、もちろん利己心である!
さて、あなたが神であったなら、このような崇拝者をどう感じるだろうか?
「安心と安全」は人々の求めて止まない重要なことがらではあるけれども、その観点から神を見てよいのだろうか。
では、その場合、「神」とはそれらの人々にとって何なのか?
鎮護すべき荒ぶる霊と云うなら神社に参拝すればよいではないか。安全の護符なら仏寺でも戴けるではないか。
「ハースィード」[חָסִיד]というヘブライ語があるが、これは対象への愛着や支持を表す、「忠節」とも訳される語であるが、自己保全に努める信者たちはなるほど自分自身には愛着を持っているようだが、実際にどれほど神自身に愛着(ハースィード)を持っているのだろうか?
常に神を中心にして、神が何を企図し何を行おうとしているかを探ることは神への愛着であろう。それは、一旦自分を脇に置いてでも神に関する啓示されたあらゆることを知ろうと願う。
それが「何であれ」自分に不利であろうとなかろうと、ひたすら「屈みこんで見つめ」*、知ろうとすることでありアンデレはそうしてメシアに至った。*(ペテロ第一1:12字義)
『敲き続け、求め続けよ!そうすれば見出す』の言葉がすでに廃れたとは到底思えない。
対して、「見るな!聞くな!触れるな!」という律法の奴隷状態を再び求める宗教指導者とはいったい何か?
自己保全の人々の動機を悪用し、自分と組織に愛着と支持を求めて神から引き離してはいないか?
そうした教派には、将来の安楽に優れた生活を「見つめるべき酬い」のように宣伝するものがあるのは偶然だろうか。それがどこか的を逸しているようには感じられないのだろうか?
本来、神が意図するところは創造物の回復という神との親密さに関わるものであるが、これに到達するにしては人間というものは具体的物質的益を願望するという幾らか次元の低い生き物だということか?
探求し続け、捜し続けても神はけっして尽きることはない。
それはひとつの教派に収まりきるようなものであるわけもない。
自分の益を離れ神に向かえば、神が不利益をもたらすだろうか?
そこが信仰ではないのか?神は人より素晴らしい。
利己心から開放され、人の脅しに怯えず、神に敲き求めれば、今でもアンデレのように喜ばしい宝にそれぞれ到達するだろう。
(あるいは、これは人を漉すためのフィルターなのだろうか?)
ご利益崇拝は関係性や親密さを望むところの「生ける神」を追いやり隔ててしまうだろう。
なぜなら、畢竟その意識の中心は自己また利益であって神ではない。もにかく自分なのだ。
どうやら、親密さというものには二種類あるようだ。
相互関係と思い込みの一方通行である。
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