Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アキュラとプリスカ

アキュラスとプリスカ

 

 アキュラスはポントス州の出身で、聖書中で知られる限りでは、クラウディウス帝の時にローマに居て、ユダヤ人であるために退去令を受け、コリントスに移っていた。妻プリスカも夫との関係で少なくともユダヤ教の背景があるものと見做される。

スエトニウスの「皇帝列伝」には、このユダヤ人退去令の原因は「クレストスの煽動でユダヤ人は絶えず騒擾をおこしたので、ローマからの追放を行った」との記述がある。(25:4)<ローマからのユダヤ人追放は歴代三度目であり、前139と後19年にもあり、それぞれ彼らの伝道に問題があったとされる。但し、この三度目の追放令の年代は不明であり41年から53年までが候補とされている。この年代で参考になるのはガリオのコリントス赴任時期であり、これがパウロに関する唯一の信頼できるタイム・ポストとなっている>

 

ローマを去ってコリントスに逗留していたところにパウロが到着し、テサロニケーとベレイアの猛烈な迫害から逃れ、アテナイの不信仰に辟易としつつコリントスに流れ着いたパウロをアキュラスは妻のプリスカと共に家に宿泊させている。したがって、この夫妻はメシア帰依者であったに違いない。

しかも、パウロは後続としてマケドニアの事態収拾に残してきたテモテの一行が到着するまで、共に天幕作りの仕事を行っていたが、そこでパウロが以前にその職に在ったことが触れられている。使徒18:1-

コリントスでは『ここには多くのわたしの民がいる』との主の言葉の通りに、この地のエクレシアは速い進展を見せた。

テモテやテトスがパウロに合流すると、マルクス・アントニウス以来、特権を享受して富裕な仲間の多い都市フィリッポイからの援助金がもたらされたことで、パウロは専らに宣教を行い始めた。(この間、パウロにルカが同行していたらしい)

アテナイとは異なり、コリントスではハッザーン役のクリスポスがキリスト教に転向し、まず大きな進展を見ている。しかし、やがてユダヤ人らがパウロに敵して立ち上がり、パウロを執政官代理であったガリオ(セネカの兄)の前に引き出したが、ガリオはユダヤ人の律法を巡る問題には関わろうとしなかった。そこでユダヤ教徒に打ち叩かれたのはハッザーンであったソステネスであった。これをガリオは黙認した。<対照的にエフェソスの評議員パウロに親切である。おそらくパウロ聖霊の働きをエフェソスの方が味わい知っていたからではないか。エフェソスでパウロは獣刑を受けても生き残っている>

<後にソステネスはコリント第一書簡の差出人に名を連ねて手紙を権威づけており、エフェソスに移ったらしい。彼はまず間違いなくコリントスでの教勢拡大に寄与しており、シュナゴーゲには沐浴施設が付属しているケースが多いことからすれば、パウロに代わりバプテスマを施していた可能性がある>

 

一年半のコリントス滞在の後、パウロがエフェソスに向かう航海に夫妻も同行したが、その後にパウロはこの夫妻とおそらくはルカやテモテらもエフェソスに残して、ほぼ単身でアンティオケイアに一旦戻り、キリキアを通ってガラティア方面に向かい(おそらく冬)、その土地の弟子らを『強めた』とルカはただ一行述べている。(このルカ不在がパウロに窮境をもたらしたのでは?)

その都合、ルカの叙述はアキュラ夫妻に向かい、彼らがアレクサンドレイアから来た雄弁なユダヤ人アポロと出会ったことを告げる。しかし、アナトリアを巡っていたパウロについては行路を述べるに留めている。

一方、アポロは『霊に燃えた人』であったが、ヨハネバプテスマまでを知るばかりであったため、アキュラス夫妻からイエスについて教えられている。

このアポロは、イエスについて知ると時を然程置かずにコリントスに行くことを希望した。後にアポロの雄弁はコリントのエクレシアの分派傾向に利用される。アレクサンドレイアからアポロを追って来たという十二人ほどのグループのその後が聖書中にみられないので、まず間違いなく彼らもコリントスに向かったであろう。コリントスパウロが水のバプテスマを施した人数が限られていてクリスポスとガイオス、またステファナの家の者らだけを挙げているが、件の十二人はアポロと共にコリントスから更に移動していたらしく、コリント第一書簡が書かれた時点でアポロがそこに居ないことが分かる。

<アキュラスとプリスカコリントスからパウロと共にエフェソスに移った背景には、宣教の目的が暗示される。だが、パウロアナトリア山地の旅の危険と、エフェソスのエクレシアの安定のために、また以前はイエスの霊が小アジアに入ることを妨げたのでルカを含む一行を当地残したのであろう。小アジアのその後の実りは非常に大きいものになっている>

 

ローマ書簡では、この夫妻はローマに戻っている

したがって、使徒言行録から夫妻の所在が確認できるのは、アレクサンドレイアの人アポロスを教えたところまでになる。

アルテミス神殿の騒動が有ってからパウロはすぐにギリシア本土に渡っており、ルカによれば、ギリシア側をあちこち回って三ヶ月とある。その間にローマ書簡が書かれた信憑性はケンクレイアでパウロ誓願が終わったことが暗示され、また同港からフォイベをディアコノンに任命してローマに遣わし、おそらくはローマ書簡も託したであろうところにある。

おそらくはギリシア本土滞在中に、モロッソイからエペイロスを抜け、イリュリュクムに至ったのであろう。それであれば、長文のローマ書簡は旅の終わりにコリントスに戻ってテルテオスの筆記により一気に筆記されたと思われるが、確証はない。だが、ペテロや後のエイレナイオスが云うように、その文章には性急さが見られ、しかも理解の難所が矢継ぎ早に現れる。それも相当に高度な内容を含んでいる。

それであれば、ローマ書簡でパウロが言うように、宣教が行われていないところをバルカン半島に残してイタリアに行かないことを思い定めて、急いでイリュリュクムに向かい、コリントスの者を連れていたのかも知れない。但し、ルカはその辺りをなぜか書いていない。

これも想像ではあるが、コリントスのエクレシアへのパウロ来訪の成果は芳しいものでなかったように思われる。またエルサレムに向かう前のこのギリシア本土の旅にアキュラス夫妻は同行していないことが明らかで、コリントスのエクレシアは旧知の夫妻を明らかに見ていなかった。そのローマ書簡には、既にローマに居るアキュラとプリスカへの挨拶が記されており、夫妻がローマに戻っていることを示している。そこで、アポロがコリントスに去った辺りで夫妻はローマに戻ったとみる理由がある。

 

後のパウロのローマ軟禁からの釈放後については、テモテ第二書簡4:19で夫妻はテモテの近くにおり、オネシフォロスの家の者らにあいさつを伝えるようにパウロは頼んでいる。それであればその場所はまず間違いなくエフェソスであることを示している。この『オネシフォロスの家の者ら』にはオネシフォロス自身を含んでいるものと思われる。その理由はその書簡で『丁度ローマに居たときに尋ねてきてくれた』とある。これはギリシア語の関係で、オネシフォロスがローマに来たことを言うと見るべきで、パウロ自身がその書簡を記した時ローマに居たと思われる。

なぜなら、パウロに対する二度目の捕縛とその二度目の審問までにルカ以外の旧知の人々がクモの子を散らすように去っていることが書かれている。おそらく、ローマ大火でキリスト教徒の立場がかなり悪化したため、夫妻は再びローマから逃れ、オネシフォロスの居るエフェソスに落ち着き、テモテと合流していたのであろう。

この点でパウロは敢えてテモテを安全地帯のエフェソスに留まるよう命じ、以後の当地の世話を任せようとしたのであろう。伝承によれば、テモテはエフェソスのエピスコポスに任じられ八十歳まで長らえたとの情報もあるが、これは他の情報との関連がないらしい。

テモテへの第二の書簡では、パウロはテモテをローマに呼んでおり、ヘブライ書簡の最後にあるように、テモテも二度目の更なる捕縛を受けた危険も感じられる。その時期のパウロの身辺が非常に危うかったことは、当時のネロ帝を巡る苛烈な迫害の歴史状況も示している。それは一度目の審問とは段違いであったろう。

もし、テモテが長寿であったなら、エルサレム崩壊後の使徒ヨハネ、あるいは使徒フィリッポスに関する資料に彼らとのアシア州での出会いや、テモテの名が挙がった資料が有っても良いところそれは見聞きしない。

テモテは繊細な性格であったことがパウロの書簡に明らかで長寿というのはどうだろうか。胃痛持ちであったことから葡萄酒を薬用するようにと気遣っているところはルカの言い添えがあったのかも知れない。おそらく、テモテは平素は禁酒していた背景が窺える。

 

パウロが二年の不起訴を受けて釈放されたのが63年とすると、翌年に大火が発生し、65年頃から迫害が強まり、パウロが逮捕軟禁されたのが66年、処刑されるには二年未満の定めがあったとすれば、68年には処刑されていなければならず、よく言われる67年の斬首刑というのは、その通りに見える。

テモテ第二書簡はその少し前のものであれば、パウロは一度目のローマ軟禁から自由に活動ができた64年を最後にこの夫妻とは会えなくなっていたのであろう。

ルカが最後まで共に居たのであれば、使徒言行録が62年ころまでの内容で終わった理由は、テオフィロスがその後のパウロを知っていたからではないか。

 

アキュラとプリスカについての消息は、パウロの釈放後もローマに住んでいたなら、おそらくは64年のローマ大火、その後のネロ帝の苛烈な迫害から大きな影響を被った怖れがある。

しかし、夫妻の名がテモテに関連して記録されているので、その時点まで夫妻は無事であった。パウロは64年頃にローマを離れていた蓋然性があり、使徒ペテロと相前後して67年頃に殉教したのであれば、まさしくネロ帝の迫害の時期に当たる。

 

概観すると、この夫妻は各地を転々としており、そこに宣教への熱意が読み取れる。もとより、ローマに住まうユダヤ人の天幕製造業者というだけでなく、神を探求する姿勢をもつ夫婦であり、そこにガリラヤの漁師たちに通じるものが感じられる。

信仰に於いて得難い夫婦であり、パウロにとっての宣教の同僚であり、良き理解者また親しい友であったに違いない。

 


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49年にコリントスでアキュラとプリスキラ(本名プリスカ)に会った
54年にエフェソスにアポロが来て二人に会う
56年に二人はローマに居る
67年にふたりはエフェソスに戻っている
第三次宣教旅行;アンティオケイア・エフェソス・(アテナイコリントス・フィリッポイ・トロアス(アッソス)・ミテュネーレー(サモス)・ミレトス・(ロードス)パタラ・シドン
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