・1Tim1:20ヒュメナイオスとアレクサンドロスをパウロは『サタンに渡した』の『渡した』[παρέδωκα]には「送り出す」「諦める」の意があり、積極的な除名を行ったというには根拠は薄い。また同5:15には『現に一部(の寡婦ら)はサタンの後を追って逸れた(εκτρέπω原)』ともある。
原初のエクレシアでは叙階と赦し(破門解除)の按手があったらしいが、はっきりとした破門や類いする具体的処置の記録が見当たらない。ヤコブは塗油について述べてはいるが
・1Tim3:14でパウロはティモテのいる場所に行こうとしており、移動の自由があったことが分かる。1:3でパウロはマケドニアに向かったことが書かれてはいるが、それが何時のことであるかは不明。ただ、その際にティモテには「エフェソスに留まるように命じた」とある。この手紙の存在そのものがパウロとティモテの距離を証明していることは間違いない。
第二の書簡では、ティモテがパウロのところに来るよう要請しており、パウロに移動の自由がなかった可能性を示す。また、「弁明」と小アジアの弟子らとデマスが背信したらしく特にデマスがテサロニケーに去ったことで、パウロの立場が相当に悪く変化していることが分かる。
第二書簡では、パウロは自らの生涯が尽きようとしていることを悟っており、ふたつの書簡の間での状況の違いの大きさが覗える。
・1Tim6:2ではπιστοςが二回現れる。4:10にも「あらゆる信徒」がある。これは時代的背景があったのかも知れない。
・『』
・1Tim4章にある「結婚を禁じ、食物を断つ」の中に、結婚を禁じ、肉食を悪としたグノーシスの影が見えなくもない。(エルカサイ)第一書簡の最後はその件で綴じられているように読める。書簡末尾の『偽証「グノーシス」』という述べ方は、研究者らによっても明らかに特定の集団を指していると考えられている。自由主義ではマルキオンへの言及で後代の付け加えとしている。
<ヘロデ神殿崩壊以前に、ユダヤ教からの逸脱が栄えており、はっきりとグノーシス派には見えないものの、西方まで伝播していた>
・この最後の挨拶の一文を、二人称複数の代名詞「あなたがた」に動詞語尾を付けるのは、テモテ第二4:22とテトス3:16だけで、ギリシア語としては不自然な印象を与える
<牧会書簡では、パウロが移動したかで筆記者が変わったのでは>
・この書簡にも幾つかの詩文の引用の挿入がある 2:5 / 3:1 / 3:16 / 5:24⇒Isa58:8 / 6:11 / 6:15*(ここにはヘブライ的表現が見られる)
・牧会書簡の真正さが疑われる理由のひとつには、余りに制度的ヒエラルキア色が強い事が挙げられている。しかし、ディダケーにも同様の要素が見られる。<これはパウロが自分の命が長くないことを悟り、しかもエクレシアが管理を必要とするほど拡大していたことへの対応では?>
・テモテへの第一と第二の書簡の間隔は二年とされている。
第一ではパウロは自由を得ており、第二は拘禁されている姿が窺える。
期限切れで63年に釈放され、ローマ大火が翌年、二度目の捕縛は65年か?
<ヤコブの殉教がほぼ62年であれば、テモテの釈放を述べるヘブライ書は63年のパウロの解放後と見ることができる。そこでヘブライ書が早く、次いでテモテ第一とテトス、それから二年してテモテ第二が書かれ、パウロの生涯が67年前後に終わっていると考えられる。ネロの死が68年6月>
?ネロの死は68年、ではパウロの死が67年と言われる理由は?
<ウェスパシアヌスがユダヤ攻撃を息子に委ね急遽ローマに向かったときにパウロやペテロは生存していたか?ネロ後であれば生存していたのでは?そのとき以前にペテロの書簡は書き上げられていたことにはなる。やはり、遅くとも68年以前に二人は亡くなっている>
・『復活は既に起きている』は後のケリントスにも見られるが、これは熱狂的終末待望論を指し、背後に愛国化したユダヤ教の異様な高揚があるらしい。そこでユダヤ教の隆盛が垣間見えるとも言われる。しかし、それも消え入る灯火の最後の盛りであった。
・クレメンス書簡(第一)では始めの方でV2-、ペテロとパウロが嫉妬と羨望によって迫害され死んだと述べている。これをユダヤ教徒によるローマへの唆しと見る見解もあり。
・ヤコブの殉教については62年であることをヨセフスが二度書いている。アルビノスの着任とアンナスの罷免がその直後にあった。
その背景には、ユダヤ国粋主義の高揚と反ローマ的意識の高まりがあるものとされている。ヘゲシッポスはヤコブ殉教を詳しく述べ、それをエウセビオスが採録して伝えている。<彼は目撃したか?>
・64年以降のネロの迫害について、タキトゥスは「初めに捕えられたキリスト教徒が仲間らを密告した」と述べている。これをユダヤ人信者による異邦人信者への対立の証しとする見解もある。<拷問で白状したというわけではないらしい。内部的軋轢のためか?>
・テトスがギリシア人であったためか『実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。』とパウロは書き送り、ユダヤ教を背景とする信者に問題が多かったことを露呈している。<ユダヤ教のイエス信奉者らとパウロ的キリスト教徒の間で、内包されていた相違点が論争になり始めていたか?>
・テモテへの訓戒『俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。』の『偽りの』(プセウドニュモス)は後のエイレナイオスによってグノーシスについて用いられている。そこからテモテの当時に、既にこの教派との対立があったとも言えるとされる。その一派にエンクラト思想があり、これはメソポタミヤとパレスチナのユダヤ教の支流に属する。それがこの当時エフェソスにまで影響を及ぼしていたとも言える。
<総じて、パウロの晩年のエクレイアイではユダヤ教思想が非常に強く、仲間であるはずのユダヤ・キリスト教徒を介して全体の脅威となりつつあったことが窺える。これは後のヨハネの著作にも強く表れている『ユダヤ人と云いながら・・』>
所見;テモテとテトスへの書簡にふたつの面がある。
1.ユダヤ教からの影響への対処
2.エクレシア管理体制の整備
しかし、それはグノーシス各派の運動として隠然たる勢力に育ってゆく
2.の整備は、以後権威主義の土台、言い訳とされてゆく
<権威化される必要といえば、無秩序だろう。しかし、それは独裁を好む者に格好の大義名分を与え、集団の状況はむしろ悪化する>
これら牧会書簡にはパウロ後への危惧が感じられると同時に、広げられた各地のエクレシアへの不安要素が多くなっており、テモテとテトスばかりでも負い切れないほどになっていたようにも読める。
しかし、エルサレムの破壊によってユダヤ体制派との確執は一端終わり、その過程でキリスト教の教義はユダヤ教から別のものとして離れてゆき、ヨハネ文書は遥か彼方の終末に焦点を合わせてゆく。
総じて使徒らは古巣のユダヤ教との戦いの中で生涯を送っていると言える。
少し気になるのは、聖霊と聖徒に関する言及が少なくなっていること。
「イザヤの昇天」が書かれた時にシリアからは預言者がまったく絶えていたが、その傾向が見えるのかも知れない。
-以下、前田護郎の牧会書簡説-
・成立;ローマでの二年の後に希望通りスパニアに行き、それから東方に向かった際、テモテとテトスへの手紙が成立したとする見解が有力である。すると、65-6年頃ということになる。執筆場所は特定し難い。
テモテ第一には『マケドニア旅行中に』とあるのは、マケドニア西方から回顧して再びエフェソスを訪れる希望、3:14を述べたと考えられる。テトス3:12にはニコポリスでテモテを待って冬を過ごそうとあるから、この書も東方旅行中のどこかから書かれたことは確かながら、それ以上は分からない、
テモテ第二には、世を去るべき時が近付いたとあるから、ローマでの二度目の逮捕をされ殉教を前にした際の作である。66年頃。パウロの知人の名が多く、土地の名も各方面に及ぶからカエサレイアで書いたとすると、行伝20章にやや合致するけれども、行伝ではテモテを同伴しているから成り立たず、第二の手紙の名前(4:21)もよくは合わない。結局、パウロが晩年にローマで書いたとするのが無難である。
・著者
牧会書簡がパウロ作でないとする説はなお有力である。第一はマルキオンの一覧に牧会書簡が無いことである。
これについては、マルキオンが福音書にルカだけを認めたくらいであるから、牧会書簡が訓戒が多いために無視したと考えられる。
Chester Beattyに無いということも真正でない証拠とされることがある。
だが、ムラトーリはパウロ作としており、イグナティオスの引用、エイレナイオスとテルトゥリアヌスらの教父たちに似た表現が出ている。
第二世紀以来のキリスト教文献全体を通してみると真正さを否定する根拠は極めて少ない。
牧会書簡の特徴には、激しい反律法主義的論議がなく、組織的に律法からの解放を説いてもいない。福音は自明なことにされているが、この調子からこれらがパウロのものでないとすることはできない。それは同労者個人への私信なるがゆえであり、筆者の年齢が進んだゆえとも考えられる。
<いや、書いている相手が・・>
・時期的状況
行伝や他の書簡に示されるパウロの旅程と牧会書簡との間には一致しないものが多い。テモテをエフェソスにテトスをクレタに残した、また自身はニコポリスに居たというのは、少なくとも第二、第三の宣教旅行には適合しない。
テモテ第二に見られる、パウロがローマに居て、その前にトロアスやミレトスに居た(4:13.20)のは行伝の記事の後に釈放されて再び東方に旅したと見るほうが自然である。
クレメンス5・7またムラトーリから、彼のスパニア行きが叶ったと考えられる。それと同じく再び東方を訪れたことも可能である。
行伝の終わりの二年の後に、殉教の死を遂げたとすることの根拠はない。
第一クレメンスの4-6章では、妬みの犠牲者の記録が歴史順に見られ、その中ではペテロの後にパウロが出ており、それから初代の殉教者らが続くところからすれば、ペテロよりもパウロが生き延びたとの印象を得る。
仮にこれらがパウロにものでないとしても、パウロを個人的に知る人々が在世中に書けたことであるから、百年以後にはならず、手紙にある事柄が歴史的に見て作り話とは考えられない。
・役職名
外は異端に対する防御、内は秩序の維持や集まりの運営に当然必要な世話役や相談役程度のものであり、けっして後代の組織の中での職制を意味しない。
・用語と文体
H.G.ホルツマンは171の新語を指摘した。他の手紙に見られる「義」「契約」「啓示」などの名詞や「自由にする」「誇る」などの動詞が無く、代りに「健全な教え」「委ねられたもの」「敬虔」など、ほかでは珍しい用語が度々現れる。また、他の書簡のような戦闘的論理はなく、淡々としており、時に神への美しい賛美の調子を見せる。
だが、単語の統計が著者問題を決定し得ないことは文献学上の法則である。用語が独特の性質を示してもそれは同じ著者の年齢や手紙の内容の相違によるに過ぎない。パウロの以前との比較(1Tim1:12-)がガラテア1:13-と似ており、宛名の人の信仰に感謝する書き振り(2Tim1:3-)がローマ(1:8-)と共通点があるのも、同一著者パウロによることの証左である。
キリストの贖い(1Tim2:6/Tit2:14)、創世以前から予定された信徒の救い(2Tim1:9/Tit1:2)、キリスト再臨の希望(1Tim6:14/2Tim1:12)などにパウロに思想、否、正統的聖書思想の表現が至るところに見えている。
ほかに断片説や秘書説などがあるが、断片にしては繋がりが良過ぎ、共に従来の真正性を疑う諸説の折衷案に過ぎない。
「新約聖書概説」から