Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ふたつの群れの事情

●「アシア州では特殊な型のユダヤキリスト教が発展してゆくことになる。」J.D111
思うに、エルサレム会議の通達は異邦人に受け入れられても、ユダヤ・イエス派はほとんど影響がなかったようだ。
むしろユダヤでは、総督への抗争を通してローマへの反感が強まってゆくに従い、イエス派も一層ユダヤ的に振る舞うべき強い圧力を受けた。
そこで、へブライストとヘレニストの間の溝は深まるばかりで、それは第一次ユダヤ戦役に及ぶ
このエルサレムの滅びは、このユダヤ・イエス派の律法回帰が神の意志でないことを体感させるものとなったことだろう。
エスの『山に逃れよ』の言葉は、ユダヤ・イエス派信徒の中での律法重視の様々な思いを超えて、一気に決着をつけるものとなり得た。だが、そこで思いの転換が不自由であった人々には、余り良い境遇は臨まなかった。

その後、一部のユダヤ・イエス派がイエスの親族を中心にしてエルサレムに戻ったが、その勢いは相当に削がれていたようだ。(クレオパスの子シモン)
それもバル・コクバの乱の以前には「悪しきユダヤ人」として猛烈な迫害を受けるに至った。
それはローマ側にユダヤ教徒キリスト教徒の差をぼかさせるものとなってしまったろう。この場合、誰にとっても結果は良くないものとなった。

これを幾らか長いスパンで見ると、既に西暦七十年に律法的ユダヤ・イエス派は、『山に逃れよ』という指示を以て終わっていたように見える。もはやエルサレムに神の是認はなく、戻るべき理由もなかったのであろう。(だが、小アシアはそうは言えない)
結果として、第二次ユダヤ戦役から得るものは何もない。それはダメ押しであって、滅びの徹底だけが行われただけであった。
興味を引く点は、イエスの親族を中心にエルサレム帰還を目指したグループに使徒が見出せないことである。

JDが云うように、ユダヤ・イエス派と異邦人イエス派の間には越えがたい溝があり、それはまるで異なる宗教のようでさえあったようだ。

それでも、ユダヤエルサレムの滅びから逃れ、小アジアに向かったエルサレムのエクレシアの柱については、その試練を通して恰も「練浄められた」かの観がある。
律法的思考を依然残していたにせよ、彼らユダヤ・イエス派には「預言者たち」の記憶をも持っていたのであり、それがヨハネ黙示録に昇華されているだろう。
彼らは、異邦人イエス派と共存をせざるを得なくなったが、周囲の人々はこれを敬意を以て受け入れ、使徒たちの指導に服した。
この結果を比べると、エルサレム小アジアの違いは歴然としている。


(一般の教会のキリスト教は、この意味でやはり小アジアを受け入れておらず、パウロキリスト教で終わってしまったようだ)




・ユスティノスの第一護教論の主日の集まりに関する記述LXVⅡからすると、既に140年代に愛餐と聖餐の区別がつかなくなっているように見える。朗読→説教→必要事への祈り→平和の接吻→愛餐クラシス(聖餐)→寄付


















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