Notae ad Quartodecimani

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なぜ「教会」と呼ばれるか?

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そもそも、キリスト教徒の集まりをエクレシア[ἐκκλησία]と呼んだのはエルサレム使徒らを含んだ集団を指したものが最初であったと言われる。ヘブライ語「カハル」をLXXに「エクレシア」とあるものを援用して(Ex;Ezr2:64)、ヘレニストや外部の諸国民が彼らイエス派を指して呼ぶときに使われたと思われるが、ユダヤ教との分離以前の段階からの習慣としてシュナゴーグのカハルを含意する。理由としては、ユダヤ戦役までナザレ派はエルサレムでは独自のカハルに集まっていても、地方ではユダヤ教のシュナゴーグとの分化がなかったことが考えられる。これはディアスポラでは幾らか事情が異なるらしい。⇒使徒13:42-50
西暦60年代に入ると、ユダヤ教は強くナザレ派を排斥し、シュナゴーグとの決別は不可避となってくる。ヘブライ10:25

(元々は、ギリシア語「エクレシア」でポリスの民会がこの名で呼ばれていた。民会には自らの手でポリスを守ることのできる中産階級以上の戦士ら退役戦士らが召集された。そこでキリスト教徒側にこの言葉への幾らかの躊躇があったかも知れない。しかし、パウロが『キリストの兵士』と例えたところで、民会の権利者を示唆した可能性もある。また、聖徒の集まりが王また権力者の集団という背景も考えられる)

一方、「教会」を「エクレシア」の訳語とするのは間違いであり、「教会」の語の元になったギリシア語は「キュリアコス」の方である。用例;1Cor11:20 「主の晩餐」に関して(キュリアコン・デイプノン) Rev1:10「主の日」(キュリアケー ヘメーラ)
従って、聖書から言えば「教会」を信者の集合体について用いるのは本来的でない。

この点で、リッデルとスコットのレキシコンは「キュリアコス」[κυριακός](主のもの)について、こう付記している。

assumed to be original as the Teutonic kirk, kirche, church; but how this Greek name came to be adopted by the Northern nations, rather than Roman name ecclesia, has not been satisfactorily explained.
「エクレシア」を用いずに西欧(北方面)教会はなぜか「キュリアコス」を自分たちの組織に適用し始めたが、その由来は不明というが・・・
(あるいは、聖徒が存在しなくなった為か?)
「教会」=「キリスト教徒のコミュニティと機関、また建造物を指す」


◆隠語としてのキュリア
キュリアコスがエクレシアと接点を持ったと考えられる箇所は使徒ヨハネ文書にあり、ドミティアヌスまたはトロヤヌス帝期の迫害時期にまで遡ることを示唆している。
ヨハネ第二:1
「選ばれた婦人とその子たちへ」
[ἐκλεκτῇ κυρίᾳ καὶ τοῖς τέκνοις αὐτῆς, ]
この夫人とは、「キュリア」と呼ばれる一人の女性を指すのか、或いは、ヨハネがエクレシアを指して象徴的に呼んだのかは今以て不明であり、もし、エクレシアを指しているならば、「主の者」を意味する「キュリア」(f)は即ち「エクレシア」(f)であることになる。しかも、ヨハネは『選ばれた』[εκλεκτη`]と形容しており、これは彼らしい「黙示」とも言える。
この「キュリア」がエクレシアの別称となり、やがて迫害をきっかけにして以後の趨勢を成したと考えられる。
初出はクレメンスAlxの著作とも。但し、彼がセプティミウス・セウェルス帝の迫害を逃れた50歳代以降にそれを称し始めたかは不明(微妙)。
⇒ 「ヨハネ第一書簡5:7-8&第二書簡の「婦人」

ヨハネの以前にペテロ書簡にも現れているが、こちらでは固有名にはなっていない
ペテロ第一5:13
『バビロンに居る、あなたがたと同じように選ばれた婦人 とわたしの子であるマルコが挨拶している』
[ἀσπάζεται ὑμᾶς ἡ ἐν Βαβυλῶνι συνεκλεκτὴ καὶ Μᾶρκος ὁ υἱός μου.]
συνεκλεκτὴ 形)主女単 「選ばれた(女)」これを「教会」と意訳されることも少なくない。
ペテロ第一の内容からすれば、急な迫害に曝された状況にあるので、自分の居場所をぼかすために「バビロンに居る選ばれた(女)」としている可能性はある。ここにもヨハネに同じく『選ばれた』[εκλεκτη`]が含まれているのはたいへん興味深く、福音書中で何かと共に行動していたペテロとヨハネの絆を見るかのようなところがある。ヨハネが共観福音書を読んで感想を述べた史料があるように、彼はペテロの書簡も読んでいた蓋然性は低くない。
ここでは「バビロン」がローマの隠語をされると解釈されることが多い。
その根拠としては、「エルサレムを蹂躙したのがバビロニアとローマであったことから、初期キリスト教徒の間でバビロンはローマを指す隠語であった」というものを目にする。だが、たとえそうであっても、本書簡をペテロのものとすると年代が合わず*、むしろ、この書簡が迫害側の手に渡り、ペテロとマルコの居場所が特定されるのを防ぐ目的があった蓋然性はある。そこで隠匿すべきが「バビロン」であったのか、「エクレシア」であったのか、その両者であった蓋然性も高いが正確には分からない。

あるいは、アレクサンドレイア(マルコと関連)やアンティオケイア、意外に宛先に近いペルガモン、それからユダヤ人の多かったバビロンで本当に伝道していた可能性も捨てきれない。パウロが異邦人に向かい、ペテロらはディアスポラに向かったとガラテア書が述べており(ガラテア2:7)、実際のバビロンならユダヤ人が多く、そのうえローマの権力が及びにくい。また、エルサレム陥落後ながら十二使徒のトマスはインドに迄至ったとの史料あり、タダイはアディアベネに向かったともされる。これは西暦70年の後の十二使徒の行き先として、ローマの権力を避ける場合妥当といえる。(ティトゥスユダヤ人に寛容であったが、その裏を返せば諸国民のユダヤ人への不満の高まりがあったことの証しでもあり、やがてローマはユダヤ人税を徴収するようになる)

しかし、そこで『選ばれた女』として女性名詞エクレシアを隠したことはヨハネの先駆として注目できる。それは習慣化され、ペテロの時代のネッロの迫害の後、二十数年後のドミティアヌスやトロヤヌスの迫害に面したヨハネの頃までも「エクレシア」と言うことが憚られた可能性はある。
これは現代でも、一般にはオープンと思われているネット上での巨大SNSで密かに行われている言論統制が実在するが、それを避けるべく、様々な隠語が用いられている実情を思い浮かべるなら、相当な説得力を与えるものとなるし、終末にはさらに顕著に行われるであろう。(この観点から黙示録を見ると、そこから意味を得るべき理由はいよいよ高まることになる)
なお、ペテロ第二書簡ではパウロを過去の人としていない→『彼もすべての手紙で同じことを話す[ λαλων](現能主男単 )通りのことだ』3:16
ペテロが述べた「火のような」迫害とは、ユダヤ人からの排撃ではなく、帝国の迫害つまりネッロのものを指すのであろう。なぜなら、それは「突然」のものであるからで、じわじわと広がったものではない。従って西暦64年を遡らず、70年には至らない。
(それから、ペテロ第一書簡のギリシア語の優秀性がマルコに由来している可能性がここにも見られる=第二書簡の時期マルコはどこに居たか?)


◆ヨーロッパ各言語での「キュリアコス」の痕跡
古英語では”cirice”や"circe"を「キュリアコス」に対置させていた
そこに何らかの理由でドイツ語"kirche"[キルヒェ]のスペルが混じり"churche"などに変化
どちらかと云えば、大陸で先行して用いられたものがブリトゥンに入ったのであろう。

ドイツ語"kirche"の由来はキュリアが"kir"に"che"がその形容か? 「主のもの」 
同族系ゲルマン語でも、南部のアレマンニでは"kilche, chilche,"高地では"chirihha"低地では"kerke"。オランダ語が"Kerk"「ケアク」スウェーデンでは"kyrka"「シェルカ」ロシア語"церковь"「セルケス(と聞こえる)」
ラテン由来のフランス語では"Église"「エグリーズ」[ekklesiaから]ポルトガル語が類似"igreja"「イグレーザ」スペイン語は"Templo"これは明らかに「神殿」で別系統
ラテン語系ではウルガタの影響からecclesiaに由来する語が多い。その一方でゲルマン語を中心に北方では κυριακός の影響が強い。例外はイタリア語であり
イタリア語 "Chiesa"これは”chiamalre”「訪問する」の動詞の変形とのこと。(評議会、相当な者らの会合「エクレシア」意に近似)キエザの発音からすると、どうやら北方への震源地はイタリアらしくも見えるが、発音ではなく意味が近い。フランス・スペイン等のイタリア以外の西ローマ帝国ラテン圏はその影響を受けていない。イタリア語の独自性の理由は不明。おそらく「キエザ」後から言い習わされた呼称と思われる。それが証拠にラテン典礼文にキエザはない。
なお、380以降のカトリック令よりずっと古いケルトキリスト教宣教と北方ヨーロッパの範囲が重なっている。この点からすると「教会」の語を広めたのはケルト人であったのかもしれない。→ ブリテンとキリスト教
チェコでは[Kostel]またポーランドでは[Kościół]でやはり影響を感じさせるが、この地域は古来カトリック後進国であった。(スラヴ人種以北はほとんどキュリアコス系)
ハンガリーは特殊でスペイン語のように[Templom]となっている。アッチラ大王以来、フン=マジャールの地域が独自の宗教環境にあったことが偲ばれる。つまり東欧では珍しくローマ教皇の影響が第五世紀に刻まれている。<アッチラ大王とレオⅠ世との故事は調べておくべき>
概してカトリック布教の早かった地域(伊、仏、西)では「教会」と呼ばれていない。


ディアスポラに先在したかも知れない習慣
イタリア語のその”Chiesa”の由来はヘブライ語の「カハル」(会衆)または「エダー」(集会[カハルより高等な])のLXXの一部にギリシア語がエクレシアばかりではなくキュリアコスもあった<新約への引用転記か?要検証>ところかららしい。ただ、キュリアコスとキアマーレの差は小さくは無いように見える。(発音はともかく)


The Encyclopedia Britannicaによれば・・

In the New Testament, "ecclesia" (signifying convocation) is the only single word used for church. It (ecclesia) was the name given to the governmental assembly of the city of Athens, duly convoked (called out) by proper officers and possessing all political power including even juridical functions.

つまり政治的なポリスの「評議会」という意味で使用されていたギリシア語"ecclesia"が、キリスト教徒の聖徒の集まりに用いられた。大意は「会合」という事になる。イタリア語は"Chiesa"が”chiamalre”「訪問する」の変化というのも、「出席されるべき会合」という意味合いから呼ばれたともとれる。イタリアの場合には、ローマ市に於いては今日までも"S.P.Q.R"つまり[Senatus Populusque Romanus](元老院ローマ市民)が市政の称号として用いられており、それはギリシア圏の諸都市に在ったポリスの民会 ἐκκλησία と意味が近く、キリスト教の聖なる宗教的イメージとの混同を避ける意識が中世まで働いていたことは考えられる。


◆教父時代の用例
キリスト教側で確認できる初出がアレクサンドレイアのクレメンスであれば、遅くとも第三世紀初頭と古くから使用されていたことにはなる。
この当時、あるいはユダヤ教ディアスポラ側の集まりが一部でもギリシア語でエクレシアと呼ばれていたとすると、キリスト教側の差別化を図る意図が働いた可能性も小さくはない。それが迫害後にも唱え続けられる素地を作ったと推測も出来なくはない。人は口癖を容易には変えられない。
(但し、LXXにカハルをシュナゴーグ[συναγωγ]と訳す慣習は見られる。つまり会衆と建築物とを同じ言葉で呼んでいる)
[καὶ ὅταν συναγάγητε τὴν συναγωγήν, σαλπιεῖτε καὶ οὐ σημασίᾳ.]Num10:7
パレスチナ本土は神殿を失い第二世紀に入る以前からユダヤ人が大量に流民化しつつあり、ヒレル・パリサイ派が世界に拡散しつつある時期とキリスト教の伝播とが時期的にも地理的にも重なっている。ただ、欧州初期キリスト教徒が好まないシュナゴーグに対応する語をわざわざエクレシアから別に変えそうにはなく、もし、そうしたのなら余程の事情(迫害など)があったのではないか。(ユダヤ嫌悪からすれば、ギリシア語はキリスト教徒の逃避先であったとも言える)

一方でユダヤ教はローマの保護教であったが、キリスト教はこの期間に度々の迫害を受けている。クレメンス自身も迫害に遭い、晩年はカッパドキアに逃避していることを勘案すると、使徒ヨハネの言葉に根拠をおく「キュリア」という、一女性であるのか分からないような隠語でキリスト教の集まりを指した蓋然性があると言える。ローマの迫害ということでは、ユダヤ教側が自分たちの集まりを何と呼んでいようと関わりなく有り得る。ヨハネの第二書簡が隠語で書く必要があるほど緊迫した状況に在ったのなら、増々そう言える。実際、あの第二と第三の書簡は余りに短文で、いずれも「会って話す」と書かれている。それを保管した初期収集家や写記者にも、何か思うところがあったのかも知れない。
ならば、初期教父が必要に応じてキュリアコスを用いたものがラテン教父に受け継がれ、最後の大迫害後のメディオラヌム勅令の時代に入っても言い習わされていたとも言える。<返還された集会所を彼らは何と呼んでいたか?>しかし、隠語もキリスト教の拡大に伴い次第に外部に知られるところとなったろうから、いつまで効果を発揮したものか。そこでカトリック系統がキュリアコスを用いなかったのも、「カトリック教令」により帝国でエジプト式の教義が唯一正統なものとされ、ほかの諸派閥の集会が全て禁じられたところで、カトリックは隠語で集まりを呼ぶ必要がなくなったことになる。

それからすると、迫害が付き物であった古いキリスト教、大抵は三位一体を教えない辺境のキリスト教の方で、堂々とエクレシアを名乗る習慣を持たなかったとの推測もできる。キリスト教の世俗化はエジプトから起り、皇帝の御座所である帝国の中央から法として確立されている。それは隠語で集まりを言い表す必要をなくさせ、壮大なバジリカはTemploと呼ばれても良いほどで、むしろ権力者の寄進もあり誇らしい建造物となっている。そこでカトリックが早かった地域ではエクレシアやテンプロの語で言い表し、辺境では隠語がそのまま定着したと言える言語地理上の傾向が見える。その変化は、おそらく第三世紀から第六世紀にかけてではないか。(ブリトンの事情からすれば、ローマンカトリックケルト系教会の勢力争いは9世紀頃もあったらしい)

その言い習わされたキュリアコス"Churiacos"が変転の後、現英語の"church"[チャーチ]となったと言えない理由はとりあえず見当たらない。また「エクレシア」は原始キリスト教的呼称で「エクレシア」(エク=外へ、カレオー=呼び出す)「召しだされた者ら」(「選ばれた」の意味が強い):キュリアコス=教会 は「信徒のコミュニティと機関」か? 前者が法の下にあるまともな全信者の民が出るべき会合であったが、後者は選ばれた者の集会で強制はなくアジト的。だが、ローマ国教化を経て後、キリスト教はコミュニティの宗教となりユダヤ教化する。そこでエクレシアは公同のシュナゴーグ化し、キュリアコン由来の「教会」と呼ばれる理由が薄れる。

しかし、四世紀以来のラテン語典礼文では、聖書ギリシア語に倣った「エクレシア」が採られている。
”Et unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam.”
「唯一にして聖なる公同の、そして使徒(伝来)的なエクレシア」 ミサ典礼文に"chiesa"はまったく登場しない。
"Te Deum"も同じく”Te per orbem terrarum sancta confitetur Ecclesia.”
「世界にあまねく満ちる聖なるエクレシア、(汝はそれを嘉し給う)」
第四世紀由来のラテン文書からは"Chiesa"を見つけることは難しいようだ。言葉そのものが存在していなかったのでは?


◆分かり難いイタリア語の用例

    • イタリア語"Chiesa"から見た場合--

ではキエザが採用されたのは、イタリア語分化からか?
民衆ラテン語が方言化し、イタリア語が文書上で認められるのが十世紀とのこと。したがって、その以前から古イタリア語という境界の曖昧な時代が進行していたであろうけれども、"Chiesa"の使用の始まりは中世に観てよいようだ。


時期として想定されるキエザの拡散時期を中世の古イタリア語の拡散と同時期と見ると、第五世紀以降の三位一体の完成と重なるのでは? そこでは「主」に意識を集中させる方が、「聖徒」という主人の居ないエクレシアより方便であったか?
考えると、イタリアの「キエザ」は独立した立ち位置にあるようだ。カトリック系のエクレシアやテンプロでもなく、北や東ヨーロッパ系のキュリコスにも由来していないらしい。これはイタリアの史料に入り込まないと分かりそうもない。カトリックの総本山で何があったのだろう?


◆聖徒の集まり無き信徒の集まり
加えて、ミサにおける聖体拝領の秘跡化も状況証拠を与える。つまり、その儀礼を行っても何の変化もなく、それでは集まりの権威の喪失に至り兼ねず、そこで実際とは異なるにせよ、パンが聖体変化を起こしていると強弁することで、聖体拝領の儀式の意義を保とうとしたと云えるのではないか?(ルターまでがこれに靡いている)
<このことは、もはやエクレシアの主体となるべき聖霊ある者たちが絶えていたことを物語っているであろう。>
聖霊ある「聖徒」が居ない集まりをエクレシアと呼ぶよりは、教会や会衆と呼ぶ方が実態に沿ったものであったに違いない。上記の見方からすれば、それは、集まりが聖性を失ったことを自虐的に認めるかのような呼び方でさえある。

ということは「エクレシア」と名付けることは、聖徒の存在と不可分の関係があり、儀式を神秘化するまでもなく、聖徒そのものの業が神秘とも秘跡とも言い得るもので、これは相当に意味深く、類稀な聖性をその「エクレシア」という言葉そのものが持っていることを明かすものと云うこともできる。

いずれにせよ、リッデルとスコットが警告するように、キリスト教徒の集まりに「教会」の呼称を用いるのは、公認された状況で用いる根拠薄く、初期キリスト教の習慣とは異なっている。つまり、今日当たり前のように、キリスト教徒の集まりを教会!、教会!と呼んでいるのだが、これは迫害の時代を忍んだ歴史を刻んでもいる名称とも言える。


◆漢語では
さて、漢語の「教会」は、中国語で[jiao hui]「ジャオホエ」何とはなしに「チャーチ」に似ていなくもないが(イエズス会?)、日本語も幾分かは「チャーチ」に似る、しかし、そこは音写というよりは、意味から「教会」が起こされたのであろう。確立時期は不明らしい。
<しかし、「キュリアコス」の意からすれば「教会」ではなく「主のもの」つまり「属主会」と漢字化すべきところでは。「キアマーレ」からすると単に「集会」や「会衆」といったところか>
おそらくはイエズス会清朝の北京で儒学者として振る舞っていた辺りで造語されたのではないか?

もし、エクレシアを漢字に直すとなれば意味からすれば「招会」が適当と思われる。「会衆」も本来の「エクレシア」の意味からすれば「教会」と変わらなくなってしまい、片手落ちと言うところか。
但し、聖霊によって正しく「召された者」が居ない状況で、どこまで「エクレシア」に拘るべきかは考慮の要あり。だが、それこそがキュリアコン拡散の裏の動機であったのかも知れない。エクレシアをラテン語に音訳するよりは「(誰もが)参加すべき会合」と呼ばれる方が信者を集められる、そこで教会堂の鐘も意味を増す。つまりキリスト教のコニュニティ化の中で権威者の集まりを意味する「エクレシア」では言葉が弱かった。しかし、キリスト教は個人の信仰を尊重するもので、本来コミュニティの宗教ではない。その点、日本のような環境下でのキリスト教個人集団の有り様こそが本来のキリスト教の姿に近いし、エクレシア風ではある。<どうして日本が「福音化されていない」などと嘆く必要があるだろう>


◆今後の名称変化の可能性
今日の大半のキリスト教において、「教会」の呼び名を変更することは不可能のように見受けられる。
もし、そうするなら抜本的な改革なしにできないだろうし、体質的に使徒時代に回帰することは到底無理だろう。しかし、聖徒が再び現れ、キリスト教の実態の方が変化してくるとなれば、どういうことになるだろうか?

やはり、変更されるべき理由は、キリスト教の根幹を成す「聖徒」の存在になる。遅くとも、彼ら「聖なる者」が現れたなら、そこは正しく*エクレシアと呼ばれるべきで、信徒だけのキュリアコスでは十分にその価値が伝わらないし、聖霊や聖徒召集の重要性からしても相応しくない。*(これがどこまで正しいかは分からない、イザヤ書からは終末で、まったく新しい名称下賜される可能性が示唆されている)



補足:「教会」に「エクレシア」を用いるキリスト教グループも幾つかあるらしい。しかし、せっかく「エクレシア」を名乗っても、その後に良いつもりで「教会」と付けてしまっては、トートロジーというべきか(「馬から落ちて落馬して」)。いや、名称に「自発」と「強制」の打ち消し合う矛盾がある撞着ということになる。「招会教会」・・「〇×エクレシア教会」









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