Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

十四日派人士

十四日教徒   - LF -
第二世紀初頭、小アジアキリスト教は異常なほど活況を呈していた。(J.Danielou:P107)

フェニキア、ポントス、アカイア、ローマ:ペテロ
メソポタミアヤコブ、トマス
スキュティア:アンデレ


小アジアでは黙示録の七エクレシアのほか、その近隣にも幾つかのエクレシアを確認できるが、特にイグナティオスの書簡からは、ミレトス方面からマイナンドロス河畔を遡って、マグネシア、トラレイスの方向にも広がっていたことが分かる。
この川を遡上するとラオディケイア、ヒエラポリス、コロッサイなどフリュギアの入り口に当たるリュコス渓谷方面に達する。
(あるいはエパフラスのような人物の活躍があったのだろう

小アジアキリスト教はヤコヴのパレスチナ型、ペテロのシリア・ポントス型のユダヤキリスト教とも異なるもの(J.D109)


◆パピアス(ヒエラポリスのエピスコポス)(60-130)2c前半 (メリトンより50年ほど古い)
エウセビオス使徒ヨハネの弟子であったと書いている。(HEⅢ39.4)
エクレシアを箱舟に例える予型論の先鞭をつけた
エイレナイオスによれば、彼はポリュカルポスと身近に協力し合ったという。
千年王国説者⇒エイレナイオスが受け継いだ(J.D109.203)
カエサレイアのアンドレアスによって、彼による黙示録支持の最も古い証言が残されている。
使徒たちの弟子であった小アジアの長老たちの教え」(HEⅢ39)
エルサレム陥落後も地上へのメシア待望が残り、グノーシス主義の防波堤になったとも
(イグナティオスが「古めかしい作り話」という時には「千年期説」を指していた典型的表現p112[黙示録を古いとは言わないだろう])

使徒ヨハネと結びつく一派はユダヤ教との深い関係を持ち続けていた(J.D203)
マグネシア・トラレイスは特にユダヤ教に近いとシリア派に見做された。
同時代マグネシアにはダマスス、トラレイスにはポリュビオスという監督がいた。

使徒ヨハネの筆記を担当したというのは後代の誤りらしい。
「主の言葉の註解(釈義)」(全五巻)Explanatio sermonum Domini 推定130-140頃 使徒たちの言葉を聴いた人々に取材しまとめた書
ハドリアヌス帝即位の年117年の夏にはキリストによって生き返った人々の何人かが生き残っていたという。ヨハネ黙示録について重要な証言あり、また、ヨハネユダヤ人によって殺されたとも
エウセビオスによるこの情報は一般にパピアス断片と呼ばれる

他に福音書成立の情報を得ていた。情報源はアリスティオンと長老ヨハネであったとヒエロニュモスは言う。
また、彼は数々の記されていない主の伝承を知っていたとエウセビオスは言う。しかし、またその文章からパピアスは知性の乏しい人であるとも言っている。
それでも同じ見解を持つ者としてエイレナイオスを代表とする人々を挙げ、初期の人物として重んじられていたとも言う。Ⅲ39:11

九世紀の終わりまで彼の五巻本は存在していたらしい。
その五巻本についてはエイレナイオスの言及が異端反駁の第五巻にある(33:4)彼はパピアスがヨハネの言葉を聴き、ポリュカルポスの仲間であったとするが、パピアス自身はその著(喪失)の序文で自分は聖なる使徒たちの言葉を直接には聴いたことがなく、使徒らを見たこともないと言っている。⇒これはエウセビオスの教会史
また、パピアスはフィリッポスの娘たちからバルサバ(ユスト)についての驚くべき奇跡の話を聞いたとエウセビオスは言っている。つまり、致死量の毒を飲んでもなんともなかったという。
HEに在るパピアス断片Ⅲ39によれば、彼は「マタイが福音書を最初にはヘブライ語で著した」またマルコについて「彼は主の言葉を聞いたことがなく、従ったこともない」「ペテロの通訳となった」「ペテロは必要に応じて教えたが、主の託宣をまとめることはしなかった」「マルコは記憶を辿って逐一書き出し、一つも誤るところがなかった」「順番通りにではないが正確に書き記した」と伝えている。



◆ペルガモンのアンティパス
テルトゥリアヌスは「さそりの毒の解毒剤」12:7でドミティアヌス帝の迫害時であるとしているが、時期は黙示録と合致する。
『アンティパスの日にも・・』
シリアの「イザヤの昇天」もこの時期と見做される。



◆ポリュカルポス(スミュルナ)(c.69-c.155)
遅くとも110年にはスミュルナのエピスコポス就任(41歳)

使徒ヨハネトラヤヌス帝期(98-117)までエフェソスで生存していたことを伝えている。(ire異端反駁Ⅱ22.59)彼自身は30歳頃まで使徒ヨハネと接する機会があったはず

「フィリピ人への手紙」

・イグナティオスがマケドニアに護送された際に、先方へ連絡

彼自身は86歳のとき155年スミュルナで殉教、その殉教伝はピシディアのアンティオケイアに近いフリギアのフィロメリウム宛ての手紙とほぼ同じ内容で、史実に近いと看做されている。

エイレナイオスはごく若い時代にスミュルナで共に過ごしたポリュカルポスについて、友人フロリノス宛てのの手紙に多くのことを書いている。

パスカを巡っては155年頃?アニケトゥス(シリア出)と話し、平行線では終わるが、尊重しあう形で収まった。



◆サガリス(ラオディケイア)

この人物については、エフェソスのポリュクラテスがウィクトルへの書簡で言及している人物と同じらしい。
ラオディケイアの監督で、当地で殉教している。その頃ラオディケイアでは(パスカについて?)熱心な討論が行われたという。(162年?/H.E:Ⅳ)




○quartodecimaniの由来は古く、135年ハドリアヌスがアエリア・カピトリーナ建設に際してユダヤ人を追放し、余波としてユダヤキリスト教徒が礎を失ったことによるともされる。結果として根教会は非ユダヤ人のものとなり、彼らはユダヤキリスト教からの決別を選んだ。他方で大祭司の傍系に当たるであろう使徒ヨハネ小アジアユダヤ伝来の教えをも伝えていると言われる。(上記)
モンタモス派はパスカを太陽暦第七の月の14日とした。これについて162年にラオディケイアで議論されている(HEⅣ26)(この年代ではモンタノス派には早すぎるように見える)


△「ペテロ黙示録」

125-150年頃、ギリシア語圏の信徒がペテロに名を語って黙示を書き、初めて異教的な天国と地獄の概念をキリスト教に持ち込んだ。オルフェウス教やピタゴラス教の影響が指摘される。

ムラトーリもヨハネ黙示録の後に記載してはいるが、これを読むことを禁じる人々も居るとしている。ニケーフォロスは疑問のある書に分類。ガラテア人への手紙の4/5の長さ。

クレメンスAlxはペテロの作としている。<神秘主義者のクレメンスらしい>




◆メリトン(サルディス)d.ca,180

十四日派の熱心な擁護者(J.D255)
霊感詩人のような講話者、去勢したとポリュクラテスは言う
Apologia ad Marcum Aurelium 「護教論」(キリスト教が帝国の偉大さに貢献したと力説)⇒176年頃マルクス=アウレリウスが小アジア訪問時に献呈か
テルトゥリアヌスも彼の預言の才を称賛する。
累進的教育論(パイデイア?)、旧約対型論者
ペリ・パスカも残されてはいるが秦氏は「復活祭について」と表題を与えている。
彼は、旧約文書を学ぶために東方に旅行していた。それらを彼は六巻の書に要約している。(H.E:Ⅳ)
「ペリ・パスカ」のほかに、「パスカの教説」も書いていて、十四日派の慣行に一致している。(JD.248)




◆アポリナリオス(ヒエラポリス)2後半
Klaudios Apollinaris

171〜エピスコポス
モンタノス派抵抗の要(HE.V16.1)

パピアスと面識があったかは難しい。
護教論(マルクス=アウレリウス帝に献呈/反モンタノス)
Ad Graecos「ギリシア人に与う」全五巻

フィラデルフィアは170年頃に、フリュギアからのモンタニズムの前線基地と化してしまう。エピファニオスはテュアティラ市が172年にモンタノス派に改宗したと伝える。これらの情報からすると、彼はモンタニズムに対抗するするべく起こされた人のようでさえあると言える。

後継者はおそらくマルケルスという人物でその墓碑銘あり。


◆ポリュクラテス(エフェソス)
Polycrates c.130 - c196

パスカ論争で小アジアを代表してウィクトルと対立

(手紙を書いた時65歳以上、おそらく75〜)

同年輩のエイレナイオスの仲介で小アジア分離破門は回避(これは国教化で無効、その前に消滅か?)
ロバーツとドナルドソン(Roberts and Donaldson)は第八世代の司教に属していたと指摘し、そして聖ヨハネの伝統が彼の生涯中ではまだその心の中で新鮮だったエフェソスの教会を主宰。彼は確かにポリュカルポスを知っていた。
エイレナイオスによれば、また彼が復活祭のこの問題を検討するために一緒に来たアジアの司教会議(西暦196)を主宰しているようだ。

彼のウィクトル宛の手紙の中で、ヒエラポリスに居たのが福音宣明者ではなく、十二使徒のフィリッポスであったことが再確認できる。



◆プラクセアス (第二世紀後期から第三世紀初頭)

モンタノス派に警戒するようローマでの会合に派遣されたらしい(JD320)おそらくエイレナイオスがディアコノスとして最初にローマに派遣された時期かその前後であったことは十分推察できる。(177年頃)したがって、ローマで彼がエイレナイオスに会った可能性は非常に高い。
彼の一神論は「モナルキア」とされカルタゴのテルトゥリアヌスからの攻撃を受けているが、今日その反駁する著作によってのみ彼の主張の一端を知ることができる。
当時ローマのエピスポコスはギリシア人エレウテルス(任174-189、ヘゲシッポスによればアニケトゥスのディアコノスであった)
エレウテルスは当初はモンタニズムに好意的であったが、後にこれを糾弾。理由は彼らの独立性であったようだ。
当時ローマでディアコノスであったカイウスはそこにモンタニズムの淵源を警戒し黙示録否定まで走った。


◆エイレナイオス(130ca-202ダニエルーは115出生と云う)

130年頃、地震から復興したスミュルナで生まれる。
少年時代に使徒ヨハネの弟子であったポリュカルポスに接する。
その後、地震でアシアやフリュギアを離れガリア方面に移住した人々の群れを訪ねてルグドゥヌムに赴く、そこでプレスビュテロス(?)であったときに、フリュギアで興ったモンタノス論争のためローマに赴いたが、当地の仲間は彼をローマのエピスコポスに協議者として推薦していた。当時のローマのエピスコポスはエレウテレス(12代)であった。
その間に、マルクス=アウレリアスの大迫害(177)がガリアで起こり、彼の上長であったポティヌスも90歳で殉教を遂げた。
そのためルグドゥヌムに戻った彼は、その地のエピスコポスの職を継承するとことなった。
その後、ローマで教理の問題から分離主義が勃興したときに、彼は多くの書簡を認め、これを譴責している。
彼の主著は、主にグノーシス主義を論駁するために記した「異端反駁」である。
彼の死はセプティミウス=セウェルスによるルグドゥヌム破壊と時をほぼ同じくする。
その墓は宗教改革期に暴かれている。
エイレナイオスについては、アダムも救済の対象と考えていた。これに反していたのはタティアノスの教説であった。一方で彼やヒッポリュトスはタティアノス同様に哲学に好意を見せず、グノーシス諸派を低く見做している。リヨンの聖証者らと呼ばれた彼に影響された人々は小アジア同様に黙示録から着想を得ていた(JD241)


セプティミウス・セウェルスによるルグドゥヌム破壊は、元の同盟者で今や対立皇帝となっていたブリタンニア総督クローディウス・アルビヌスが南下してルグドゥヌムに本営を置き、その決戦が近郊で行われたため、セウェルス軍の破壊と略奪を受けまったく廃墟と化した。197
その以前に195、ビザンテュオンもニゲル側についたという理由で、徹底的な破壊が行われ、後のコンスタンティヌスが再建する以前まで寒村となっていた。




○Quartodecimaniへの拒絶

ポリュカルポスとアニケトゥス

ポリュクラテスとウィクトル(エイレナイオスの仲介)

この二回の合意は、ニカイアの皇帝の裁定で無に帰した。

これは三位一体論のように、しばらく不安定であったわけでもない。終始一貫、ユダヤを「主殺し」の張本人と断定し、「清い」祝いはユダヤから決別しなければならないという誤解の上に成り立った。だが、「主の晩餐」には祝いの側面は薄く、むしろ「死を宣明する」ものである。まして「復活祭」も女神アシュタルテに由来する「イースター」も的外れであるとしか言いようもない。「復活祭」として祝うことは主日と結びついているが、「死を宣明」するのであればニサン14日を守ることになる。したがって、エイレナイオスの調停の言葉を無にするようだが、パスカ論争の本質はけっして日付の問題ではなく、祝いか弔事かというほどに違う。せっかく主の晩餐として挙行しているグループですら、祝い事のように盛装し撮影までするを愉しんでいるのはどうしたことか!いっそのことニサン14日も止めてハッピー・イースターとでも挨拶している方がよほど相応しいのでは?教導者の理解や指導が曖昧であることの証左であろう。型を守って精神を知らず。

ディダケーに記載される「キュリアケー」(ⅩⅣ1)は、最も古い出典という。これは当初、日曜を意味せず、復活日(祭)を指したという。(J.D177)
やがて、小アジア以外では日曜日を意味するものとなってしまった。(これにエウカリステアが混濁してしまったのを後からκλασμα「クラスマ」「パンを裂くこと(秘蹟)」を造語などして取り繕い理由付したように見える)
コリントスディオニュシオス(190以前没)の書簡は、コリントスとポントスの結びつきが分かり、ともにペテロの流れを汲んでいたという。
パスカ問題で、ポントスはローマ側に立って小アジアに反対した。ポントスはマルキオンの出身地でもある



△「ペテロ福音書

120-140頃おそらく小アジアで仮現論者の手によって書かれたとされる。ほとんど独自のことは語っていないが、キリストの頭が天を通過し杭が彼らの後に従ってきて「眠っている者らに宣べ伝えた」と宣言したとされる。ユスティノスがこの書の用語を使用しているので、本書を知っていたかもしれないといわれる。

エスをヨセフの先妻の子としている記述があることをオリゲネスが指摘している。第四世紀以前に本書は廃れ始めた様子があるとのこと。
アンティオケアのユダヤキリスト教はペテロの傾向を代表するようで、フェニキアとも多くの関係を示す。(J.D123)



◆シリア人ながら

クワドラトゥス Quadratus; Κοδράτος (d,129)


護教論の提出は125年であったとエウセビオスは言う。

ハドリアヌス帝のアテナイ行幸は確かに125年と129年にされている。
キリストの奇跡に預かった人の生存を証言(HE.V5.2)
彼自身はプブリウスを継いでアテナイのエピスコポスとなっていた。(125-129)


◆ヒュッポリュトス
c170-235 ローマで活躍 多くの著作を残す
著名な同名者4人あり注意
「全異端反駁」
「キリストと反キリスト」

教理教育はペテロ起源のシリア的
しかし、小アジアとも接触あり、後世のフォティオスは彼がエイレナイオスの弟子と自称したと伝えている。旧約対型論が見られる。
彼は黙示録に敬意を払い、使徒ヨハネの真作であることを認め千年期と終末を信じていた。
(フォティオスと「図書総覧」 - Quartodecimaniのノート)

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以上の人物録にモンタニズムの時代を絡ませると、以後の小アジアキリスト教の衰退のようなものが見えてくる。
小アジアキリスト教の隆盛は五賢帝時代の帝政ローマの最盛期と合致する。キリスト教徒は未だ少数者で時折で局地的な迫害はあったが、ローマの安定の上に庇護されたかの観さえある。
それが、モンタニズムの到来によって衰退の機を迎え、やがて、周辺諸国キリスト教からの干渉と同化にさらされてゆく。

加えて、今二つのソースが思い浮かぶ。ひとつはイグナティオスの手紙から捜すこと、もうひとつは、使徒たちの手紙文。

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インドに到達した
バルトロマイ アラビアから
パンタイノス ヘブライ語のマタイEVを発見(HE.V10.3)

KF→アカイア、フェニキア、ポントス、ローマ
小ヤコブ(?)とトマスはメソポタミア




quartadecima lunae, on the fourteenth day of the moon. They are sometimes called Paschites. The Audaeans, Montanists, Novatians, and other sects were Quartodecimani. See Schaff, Ch. Hist. vol. ii; Riddle, Christian Antiquities; Waterland, Works, vol. vi.

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παιδεια とは、元々はポリスの構成員として平民評議会(エクレシア)に参与させるための教養を身に着けさせる教育を指したが
クレメンス(Rm)は、この語をキリスト教上の教育行為として語る。
これは後に、哲人皇帝が続く時代に護教論を説く筆者らにとって必須の教養となっていった。
この語に相当するヘブライ語では「罪を犯した者に心を入れ替えさせる」の意あり。(W.W.Jöger ^p29)




小アジアに関する雑録

第二世紀小アジア資料

小アジアのメモ


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