Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

第二世紀アシア資料

イグナティオス(アンティオケイア・シリア)
トラヤヌス帝末期にローマへの護送途中にアジア・フリュギアを通過し、当地のユダヤキリスト教を批判

エフェソス人」マグネシア人」トラレイス人」ローマ人」
(以上スミュルナで)
フィラデルフィア人」スミュルナ人」ポリュカルポス」
(以上トロアスで)
同行者のエフェソスの派遣したディアコノス、ブーロスの筆記と書写

この当時
マグネシアのエピスコポスはダマスス(若年)
プレスビュテロイ:バッソス、アポロニウス
ディアコノス:ゾーンティオン

トラレイスはポリュビオス
エフェソスはオネシモス




◆ポリュカルポス(スミュルナ)
遅くとも110年にはスミュルナのエピスコポス就任(41歳)
使徒ヨハネトラヤヌス帝期(98-117)までエフェソスで生存していたことを伝えている。(ire異端反駁Ⅱ22.59)彼自身は30歳頃まで使徒ヨハネと接する機会があったはず
「フィリピ人への手紙」
・イグナティオスがマケドニアに護送された際に、先方へ連絡
彼自身は86歳のとき155年スミュルナで殉教、その殉教伝はピシディアのアンティオケイアに近いフリギアのフィロメリウム宛ての手紙とほぼ同じ内容で、史実に近いと看做されている。
エイレナイオスはごく若い時代にスミュルナで共に過ごしたポリュカルポスについて、友人フロリノス宛てのの手紙に多くのことを書いている。
パスカを巡っては155年頃?アニケトゥスと話し、平行線では終わるが、尊重しあう形で収まった。

○quartodecimaniの由来は古く、135年ハドリアヌスがアエリア・カピトリーナ建設に際してユダヤ人を追放し、余波としてユダヤキリスト教徒が礎を失ったことによるともされる。結果として根教会は非ユダヤ人のものとなり、彼らはユダヤキリスト教からの決別を選んだ。


△「ペテロ黙示録」
125-150年頃、ギリシア語圏の信徒がペテロに名を語って黙示を書き、初めて異教的な天国と地獄の概念をキリスト教に持ち込んだ。オルフェウス教やピタゴラス教の影響が指摘される。
ムラトーリもヨハネ黙示録の後に記載してはいるが、これを読むことを禁じる人々も居るとしている。ニケーフォロスは疑問のある書に分類。ガラテア人への手紙の4/5の長さ。
クレメンスalxはペテロの作としている。


◆パピアス(ヒエラポリス)2c前半
千年王国説者
「主の言葉の註解」(全五巻)Explanatio sermonum Domini 推定130-140頃 使徒たちの言葉を聴いた人々に取材しまとめた書
他に福音書成立の情報を得ていた。情報源はアリスティオンと長老ヨハネであったとヒエロニュモスは言う。
九世紀の終わりまで彼の五巻本は存在していたらしい。
使徒ヨハネの筆記を担当したというのは後代の誤りらしい。
ハドリアヌス帝即位の年117年の夏にはキリストによって生き返った人々の何人かが生き残っていたという。ヨハネ黙示録について重要な証言あり、また、ヨハネユダヤ人によって殺されたとも
エウセビオスによるこの情報は一般にパピアス断片と呼ばれる
カエサレアのアンドレアスによって、彼による黙示録支持の最も古い証言が残されている。
エクレシアを箱舟に例える予型論の先鞭をつけた

◆メリトン(サルディス)d.ca,180
霊感詩人のような講話者、去勢したとポリュクラテスは言う


◆アポリナリオス(ヒエラポリス)2後半

モンタノス派抵抗の要
パピアスと面識があったかは難しい。



◆ポリュクラテス

パスカ論争で小アジアを代表してウィクトルと対立
手紙を書いた時65歳以上、おそらく75〜)
エイレナイオスの仲介で小アジア分離は回避(これは国教化で無効、その前に消滅か?)
その手紙の中で、ヒエラポリスに居たのが福音宣明者ではなく、十二使徒のフィリッポスであったことが再確認できる。


○Quartodecimaniへの拒絶
ポリュカルポスとアニケトゥス
ポリュクラテスとウィクトル(エイレナイオスの仲介)
この二回の合意は、ニカイアの皇帝の裁定で無に帰した。
これは三位一体論のように、しばらく不安定であったわけでもない。終始一貫、ユダヤを「主殺し」の張本人と断定し、「清い」祝いはユダヤから決別しなければならないという誤解の上に成り立った。だが、「主の晩餐」には祝いの側面は薄く、むしろ「死を宣明する」ものである。まして「復活祭」も女神アシュタルテに由来する「イースター」も的外れであるとしか言いようもない。「復活祭」として祝うことは主日と結びついているが、「死を宣明」するのであればニサン14日を守ることになる。したがって、エイレナイオスの調停の言葉を無にするようだが、パスカ論争の本質はけっして日付の問題ではなく、祝いか弔事かというほどに違う。せっかく主の晩餐として挙行しているグループですら、祝い事のように盛装し撮影までするを愉しんでいるのはどうしたことか!いっそのことニサン14日も止めてハッピー・イースターとでも挨拶している方がよほど相応しいのでは?教導者の理解や指導が曖昧であることの証左であろう。型を守って精神を知らず。


△「ペテロ福音書
120-140頃おそらく小アジアで仮現論者の手によって書かれたとされる。ほとんど独自のことは語っていないが、キリストの頭が天を通過し杭が彼らの後に従ってきて「眠っている者らに宣べ伝えた」と宣言したとされる。ユスティノスがこの書の用語を使用しているので、本書を知っていたかもしれないといわれる。
エスをヨセフの先妻の子としている記述があることをオリゲネスが指摘している。第四世紀以前に本書は廃れ始めた様子があるとのこと。


◆シリア人ながら
クワドラトゥス
護教論の提出は125年であったとエウセビオスは言う。
ハドリアヌス帝のアテナイ行幸は125年と129年とされている。



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