Notae ad Quartodecimani

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エイレナイオスの見解 memo

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キリストと使徒たちは聴衆に迎合せず、真理に即して宣教したキリストは、聴衆の以前の考えのままに(その人の見解に合わせて?)話さず、尋ねる人の理解力の程度に合わせて話すのでもなく、公平に話した。Ⅲ-4
例えれば、パウロが自分は一人でも勝ち得るためにあらゆる人にあらゆる人となったと述べたことを、その人の理解力に合わせたとみるべきかといえば、みるべきだろうと思える。しかし、キリストに関してはそうではないことはニコデモへの訓話からしてもそうであろう。それはキリストの例えに多くに見られ、聴衆を置き去りにして話している場面が少なくない。それほどに「キリスト教」と後に成るものが革新的であり、同時にその不明性がユダヤ人を裁き分ける結果ともなっている。また、使徒ヨハネもまたそうである。そこで使徒パウロの方が人に理解させようとする姿勢が強い。(ヨハネ福音書の格別なところは、単にキリストの語った福音を伝えるに留まらないところであろう)その意味ではエイレナイオスの見解もまた一面の真実を映している。



「神は神々の集いの中に立ちこれを裁く」Ⅲ6-1 p18
この「神々」についてエイレナイオスは異教の神々のことを意味しないという。むしろ、聖徒について指摘する。「ここでは、父と子、また子とされた人々について述べている」と言う。「この子とされた人々とはエクレシアであり、これが『神々の集い』と呼ばれるものであって、それは神すなわち子が自ら集めたものである」Ps82 cf.⇒Ps98:7
「神々」とはどんな神々か。『わたしは言った「あなたがたは神々である。皆が至高者の子らである」と』即ち子とする恵みを受けた人々に向かって語っている。この恵みによって『わたしたちはアッバ父よ、と叫ぶ』のである。Ⅲ-5

(これは相当に高度な教えであり畏敬の念をさえ感じさせる。第二世紀にはこれほど高度な理解が依然彼らにあったことは驚異的であり、後のオリゲネスなどは到底及ばない。ポリュクラテスの云う「純粋な時代」の聖霊の教えの光芒を残すものと言えよう。jh10:34)


彼はパウロがその文章の中でしばしば倒置法を用いることに注意を促している。それをパウロの幾分性急な気質によるものとも言っている。Ⅲ-6
この考えの出所については明らかでないが、使徒ヨハネの言ったところではないとみてよさそうである。パウロの文章がしばらく前後を読んでいないと誤解されるように書かれている箇所は幾つもある。実際ペテロに『彼の文章は分かり辛い』と言われてさえいる。また、この観点に立って聖句を解釈すると、今日の大半を占める翻訳と大きく異なる例としてはコリント第二4:4が挙げられるだろう。そこは通常以下のようである。
『この世の神が不信者の思いをくらまし・・』[ἐν οἷς ὁ θεὸς τοῦ αἰῶνος τούτου ἐτύφλωσεν τὰ νοήματα τῶν ἀπίστων ]NA28
ここをエイレナイオスは次のように訳すべきとする。『神が、この世の不信者の思いをくらまし』(本文を変えることは提唱していない)
この違いは、見ての通り不信者の思いをくらませているのが、この世の神であるサタンか、それとも真正な神なのかという百八十度異なる見解となることにある。これはエイレナイオスが直面していたグノーシス主義の観点に反対したいという誘因が働いている場合、特に重要な論点となるだろう。但し、今日のようにグノーシスの影響の無い環境でこの聖句を見直すと、エイレナイオスの主張もひとつの見解の範疇に収まるだろう。実際、グノーシス派のエクレシアへの混入は十年以上後のヨハネ書簡の頃のことで、パウロはその影響の下でこの句を書いたわけではない。
他の事例としてエイレナイオスはテサロニケ第二の不法の人がキリストの顕現の息によって滅ぶというところで、その現れ(顕現)はサタンの働きによると、休止を入れないで読む当時の誤りも指摘している。
[τῇ ἐπιφανείᾳ τῆς παρουσίας αὐτοῦ , οὗ ἐστιν ἡ παρουσία κατ’ ἐνέργειαν τοῦ σατανᾶ ἐν πάσῃ δυνάμει καὶ σημείοις καὶ τέρασιν ψεύδους]2Th4:8-9
これはエティエンヌのときに節で分けられているうえ、現在は句読点が打たれており、問題にはなっていないが、かつてはアンシャル体で文字の間にスペースがなかったので、上記の読み間違いがあった。

問題の所在はコイネ古写本の本文に句読点もスペースも無いことで、どこで言葉のつながりを切るかによって意味が異なることであり、エイレナイオスはこの観点から、パウロ書簡中の他の箇所でもパウロ特有の倒置法からくる問題が起こっていることを指摘している。これは平素我々が見ている本文がこの時代のものとは異なる書体であることに注意を促すものである。(底本だけで翻訳する危険はこんなところにも見える。読む側の資質が求められている例とも言える)



ペテロとヤコブヨハネは至るところで主と共にいたが、モーセのときの律法にの定めに従って敬虔に振舞った。それを通して、ひとりの同じ神を示しているのである。もし、律法を定めた方以外の他の父を主から学んでいたのならそのようなこと+はしなかったはずである。Ⅲ12

  1. (ペテロのアンティオケイアでの行動の弁解と、バルナバと共に異邦人を避けてパウロに譴責されたこと)

 当然ながら、使徒らの神とはモーセに律法を与えた神であり、キリストの父であり、聖霊を受けて後の彼らの父でもある。ここで、エイレナイオスはデーミウルゴスなどの実質的異神を排除する目的で語っているが、同時にキリスト自身をも含めて使徒らが神概念においてユダヤ教の延長線に居たことを証ししている。


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▼666
[反キリスト]はあの洪水以降のすべての偶像崇拝を総括するだろう。その偶像崇拝の最後にネブカドネッツアルが建てたあの偶像は高さが60ペーキス幅が6ペーキスであって、来るべき反キリストの予型であった。背信のゆえに洪水が起こったのはノアが600歳のときで、これに像のペーキスを合計すると666となり、・・即ち6000年にわたるすべての背信と不義と悪とがその中に総括される。
[文字を数値に置き換えると]その名は「ティタン」であるのかも知れない。V:28-29


■アンチ・クリストとダニエルの小さい角を同一のものと見做す。但し三時半については不明瞭。V:25.28 また、黙示7のリストにダンが欠けていることからアンチクリストの由来をユダヤのその部族に観る#。

■彼はひと時とふた時と半時を三時半と数えた。神殿にアンチクリストが座するその時は千年期の直前に位置する。V:25.30



#<ダンの部族については出生順に関わらず、荒野の移動では隊伍の後部を占めるほど勇猛な戦士が多かったが、入植後は不遇な上、ヘルモン山麓への移動以降に早くも偶像崇拝に堕している。祭司を担当したのはモーセのケニ系子孫であった。加えてヤロベアムの罪では北の要衝となり、それ以前からアロン系でない祭司を置いていた。これは相当に意味深ではある。但し、エゼキエルの割り当て地では優遇されている。エイレナイオスの見解そのままではないとしても、やはりダン族には何か深い意味がありそうである。おそらくはダンを外に出すためにレヴィを含め、同時にレヴィと他の部族の差異を解消している。この黙示録の意図は全体が祭司の民であるところにあると思われる。加えてエゼキエルでは黙示録のようにマナセとエフライムがヨセフに統合されているのだが黙示録ではエフライムだけが忌避されている>

・666については、年代とアルファベットの数字からの名に拘りを見せるが、これは別の意味ではないか。
おそらくは「名」ではなく「性質」を指すのであろう。


エイレナイオスと千年期




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