Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Memo聖なる者

身分の証

2cor1:21-22
わたしたちがキリストに属することを保証してくださり、油を注いで(任命して)くださった方は神


2Cor5:5
わたしたちを生み出してくださった方は神であり、来たるべきものの印(手形)である霊をわたしたちに与えてくださった。


eph1:13-14
あなた方も信じた後、やはりこの方により約束の聖霊をもって証印を押された。それはわたしたちの相続財産に関する事前の印であり、また神の所有物(たる民)を贖いによって釈放し、その栄光ある賛美とする。


rom8:9
神の霊があなた方のうちに真に宿っているなら、あなた方は霊と和している。けれども、キリストの霊を持たない人がいれば、その人は彼に属する者ではない。



義認

rom8:1-2
キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はない。
キリスト・イエスと結びついた命を与える霊の律法が、あなたを罪と死の律法から自由にした。(Rm8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(共))

rom8:10-11
キリストがあなた方と結びついているなら、体は罪のゆえに確かに死んでいるとしても、霊は義のゆえに命となっている.
そして、イエスを死人の中からよみがえらせた方の霊があなた方のうちに宿っているのなら、あなた方のうちに住むご自分の霊によって,あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。



Rm8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。(口)

1Cor15:16 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。(口)

Heb10:18 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。(口)[エレミヤの新しい契約を引用し、更に祭司としての職務を果たすことを含意して続ける]




神の子

rom8:16
霊そのものが、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供であることを証ししている。


joh11:51-52
だが、彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので、イエスが国民のために死ぬように定められていること、しかもそれがただ国民のためだけではなく、各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。


rom9:26
そして彼らは、『あなた方はわたしの民ではない』と言われたその場所で、『生ける神の子ら』と呼ばれるであろう」。


ga3:26-27
現にあなた方は皆、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。


相続権

rom8:17
さて、子供であるならば相続人でもあります。実に神の相続人であり、キリストと共同の相続人なのです。ただし、共に栄光を受けるため、共に苦しむならばです。


rom3:29
さらに、キリストに属しているのであれば、あなた方はまさにアブラハムの胤であり、約束に関連した相続人です。


eph1:11
この方との結びつきにおいてわたしたちはまた相続人として選定されたのです。


eph3:6
諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて、共同の相続人、同じ体の成員、わたしたちと共に約束にあずかる者となる。


ga4:30
下女の子が自由の女の子と一緒に相続人となることは決してないからです。


tit3:6-7
神はこの霊を、わたしたちの救い主なるイエス・キリストを通して豊かに注ぎ出してくださいました。それは、わたしたちがその方の過分のご親切によって義と宣せられた後、永遠の命の希望にしたがって相続人となるためでした。



「主の晩餐」

joh6:54
神の子羊の肉を食し、血を飲む
(血は門口に振り掛けるものだが、これを彼らは飲む。なぜなら、「滅ぼすもの」が過ぎ越すのは家ではなく個人だからである)⇒「神の証印のない人だけを損なう」彼ら以外のすべて

mrk14:17
エスは12人と共に来られた

luk22:19
これはあなたがたの為に与えられるわたしの体を表している。


luk22:20
この杯は新しい契約を表している。それはあなたがたの為に注ぎだされる。

mt26:28
これはわたしの契約の血を表しており、罪の許しのため多くの人の為に注ぎだされる。



「肉体の変化」
1Joh3:2

Rom8:28

Rom6:5

1Cor15:52

2cor5:6

2pet4:2

Zek12:8


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Ga5:20の「磔殺」の意
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

使徒パウロが聖徒であるので、彼の肉における日々はそう遠くなく終わる。彼の死は復活の際に霊の体への再創造となるものの、新しい契約によって象徴的に新たな命に既に移されていた。そこで、彼の使命は本来将来の命の中に全うされるのであるから、現世における彼の残りのアダムの命は、後のものに比べればきわめて軽いものであり、恰も肉によらず、既にキリストの犠牲によって生きているかのようであったといえよう。それを「神の御子を信じる信仰によって生きている」と表現し、そのときの肉の命についてはキリストと共にすでに磔刑に処せられたかのようになっているという直喩をしているのであろう。したがって、これを自らに適用できるのはパウロに続くような「聖徒」のみである。


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Computus

2013.3.26=5773nisan15-16

5773nisan14=2013.3.24-25













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