Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

昼と夜

   

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Luk22:53 今はあなたがたの時、闇の権威。

Joh9:4 誰も働くことのできない夜

Joh11:9 昼間に歩くならぶつかりません

Rom13:12 夜は更け昼は近づいた

1th5:5 あなたがたはみな光の子で昼の子

1th5:8 昼に属する我々は

2pet1:19 夜があけて明けの明星が上るまで

Rev21:25 そこに夜は無い

Rev22:5 もう夜は無く、灯火を必要とせず、太陽も持たない


Zek14:7 それは昼でもなく夜でもない、夕刻に明るくなる

Mic3:6 夜が来て幻は無くなる

Ams5:8 昼を夜に変えるもの

PS139:12 あなたにとっては夜も昼のように輝く




Mic3:1--
わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たちイスラエルの家の
指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。
善を憎み、悪を愛する者人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。
彼らはわが民の肉を食らい皮をはぎ取り、骨を解体して鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。
今や、彼らがYHWHに助けを叫び求めても主は答えられない。そのとき、主は御顔を隠される。彼らの行いが悪いからである。
わが民を迷わす預言者たちに対してわたしは言った。聞け、ヤコブの頭たちイスラエルの家のはこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は平和を告げるがその口に何も与えない人には戦争を宣言する。
それゆえ、お前たちには夜が臨んでも幻はなく暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。
先見者はうろたえ託宣を告げる者は恥をかき皆、口ひげを覆う。神が答えられないからだ
しかし、わたしは力と主の霊正義と勇気に満ちヤコブに咎をイスラエルに罪を告げる。

聞け、このことを。ヤコブの家の頭たちイスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ
流血をもってシオンを不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。
頭たちは賄賂を取って裁判をし祭司たちは代価を取って教え預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかもYHWHを頼りにして言う。「YHWHが我らの中におられるではないか災いが我々に及ぶことはない」と。
それゆえ、お前たちのゆえにシオンは耕されて畑となりエルサレムは石塚に変わり神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。

脱落聖徒への導きが絶える様を言うのであろう。
続く第四章ではイザヤ第二章同様にシオンに諸国民が参集する様が描かれる。

Joh9:4-5 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
わたしは、世にいる間、世の光である。 

キリストが「わたしたち」と言ったときに共に居たのは「弟子たち」とされている。その『業』とは、キリストの帰天後も続行されたと見るべき理由がある。そうすると、キリストが『世に居る間』とは、聖霊による監臨の時期を含むと見てまず間違いない。

Joh8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。
             


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◆聖書を科学と照らし合わせる必要はない
聖書そのものが焦点を倫理問題に絞っており、科学に関わる陳述が現在の科学と一致したからといって喜ぶ理由は無い。
科学は人間の業であり、移ろうものである。今日の科学的常識は将来どうなるか予測はつかない、これはことに未証明の学説について反論することを含んで危険を冒すことになる。
科学との合致を鼓吹するなら、それは聖書の本論から外れており、主張する者自身が聖書本来の根本的理解に達していないことを仄めかすものだろう。しかも、その人自身の中では宗教信仰に比べ科学信仰が大きいことも露見している。深入りすれば、次第に科学の領域に入り込み、確固たる「倫理」という聖書の本論から遠ざかってしまう。


◆所謂「天国」は聖書の概念ではなく、異教から混入したものである
天国は信仰ある善人が死後に行く神の傍らでは無い。
聖徒たちは、死後に天のキリストの許に招集されるが、これは『神の王国』であり、このことと異教の極楽のような「天国」が混同されている。
天国を希求することは、聖書そのものが展開する人類全体を包含する神の救いを利己的に願望するものであり、典型的なご利益信仰に成り果てる。自己保存願望は神とキリストの偉大な公共善とは正反対に位置するものであり、天国への願望はこれを本質的に理解させないよう機能する器となってしまっており、人々を利己心に捕らえ、死への恐れや喪失感を利用して、聖書中最大の救いの手段「神の王国」を拒ませるよう、頑なにならせるものである。


◆キリストの犠牲が自分に適用されたと看做すのは早計
確かにキリストの犠牲はすべての人のためのものであるが、それを拒むか否かは「裁き」の過程を経なければ分からない。これはキリスト教徒であっても一向変わらない。キリストの犠牲はキリスト自身が大祭司として携える「血」を用意するものともなったが、大祭司はまず従う祭司たちを贖罪することが求められて、これは既に始まった。この『初穂』と呼ばれる人々にキリストの犠牲が既に適用されたことと、裁きの後に、その他大勢に属する自分が贖罪されることとが混同されている。大半の教会員はこのように教えられ、信仰にある自分は既に救われたと信じ込んでいるが、これは致命的な誤解というよりほか無い。いざ「裁き」の時には、却って神の贖罪の手段を自信たっぷりに退ける危険度は低くないだろう。
この祭司制が機能するのは千年王国であり、ここで生きる人々の贖罪がなされるのである。


◆信仰のうちにイエスをキリストと認めることが救うとは誰でもイエスがキリストであると認めれば救われるという訳ではない
エスをキリストとして認める必要があったのは律法下のユダヤ人であり、彼らはキリストを認めて信仰を働かせることで、業による不可能な義認を放棄し、律法不履行の罪の呪いから解かれ「救われる」ことになった。諸国民の場合は根源的罪(原罪)から解かれることになったが、それはイスラエルに接木される限られた人々だけのものである。その人々にも死に至るまでの忠節が求められている。一般人の救いは彼らキリストの兄弟たちをキリストからの者と信仰のうちに認めることに掛かっている。


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律法とキリスト教徒の関係


『神は言葉をヤコブに与え、司法上の定めと規定をイスラエルに告げている。外のどんな民にも神はこのようには為さらなかった』Ps147:19-20


パウロは最大の論客
『律法は読まれるときにはベールが掛けられている』『終わるものに栄光が与えられたのなら、終わらないものの栄光はそれに優る』『勝った栄光によって律法の栄光は奪い去られた』2cor3







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