Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑録関於聖餐的差異

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・愛餐会が兄弟愛を実践する場でなく、お互いのご馳走を自慢しあったり、単に胃袋を満たすためだけになっているのなら
A:飽食の地域で愛餐の必要があるだろうか


・聖餐のパンとぶどうジュース
A:誰でも与るものにしてしまったので、ぶどう酒のエレメントが何とジュースに変えられている。カトリックは更に「進んで」一種陪餐であった。


イエス・キリストが私の罪のために十字架に死んでくださったことを信じる
A:「人類の罪のために」とすれば正解であったが、「裁き」が有ることを通し越して、既にキリストの犠牲が自分に必ず適用されると信じるのは、聖徒の扱いに限られることを誤解して自分に当てはめることである。お目出度い。


聖餐式をただ無感動に繰り返すだけで、そこに何の喜びも、感謝もないなら、それは大きな損失です。
A:過ぎ越しとの関連なく平素常習的に聖餐を行うから、人間の習性としてそれを卑近なものにしてしまう。年に一度であれば初期のパスカに倣うことになり、『主の死』に意識を集中できるはず。(根底には「パン裂き」を特別視した報いがある)


・パンとぶどう酒が何を表すものなのか、そこにどんな意味があるのか、何もわからずにそれを取り、口に入れるだけであってはならないのです。
A:それは「神の王国」への無理解の露呈であり、本来聖餐に与るべき「聖徒」という聖霊の関わる神の取り決めへの無知と、無頓着さによる冒涜でもある。


・不信仰なままで、パンを取り、杯を取るなら、それは益にならないどころか、裁きを招くとさえ、聖書は言っています。私たちは聖餐に臨むたびに、イエス・キリストへの信仰を、確認しましょう。
A:信仰が有るか無いかという低い程度のことではない、聖霊が有るか無いかが問われる事であるのに・・次元がまるで異なっている。この人々は聖霊による「聖徒」の出現とは無縁であろう


・その本来の意義と目的をしっかりと学び、パンを取る時に、それが表しているキリストのからだがなぜ裂かれなければならなかったのか、ぶどうジュースを取る時に、それが表しているキリストの血がなぜ流されなければならなかったのか、それを深く覚ようではありませんか。
A:本来の意義と目的なら、キリストと体を共にし霊者としての永生に入ること、『新しい契約』に与り、「義認」と「王なる祭司職」への内定を覚悟することにある。それを深く覚えるなら意義もあるが・・「羊」の肉と「マナ」を食したこと、また「新しい契約」の意味は、まず理解出来てはいないようだ。


・(1Cor11:25を引いた後)キリストの使徒たちは、「新しい契約」を象徴する聖餐に、すべての信者を参加させました。「あなたがた」は、すべての信者をさしているのです。
 これは「新しい契約」が、すべての信者のためだったからです。信者内の限られたグループのためではありません。

A:聖句の同じ文脈は『自分の体を吟味しないなら、裁きを飲みまた食らうことになる』とも警告を発している。
この場面はあの五旬節のずっと後のことであり、コリントのエクレシアにも多くの聖徒で満ちていた。しかし、僅かながら聖霊の賜物に与らない人々、また初心者もおり、これらの人々が不正に聖餐に預からないよう警告している。
これが第二世紀に入ってゆくと、初代弟子たちの減少と共に聖霊を受けた人々は減ってゆき、やがて絶えた。知識を与える聖霊が引き上げられて、おそらくは聖霊理解の不足が生じ、その状態で聖餐が続行されたため、万人が聖餐に預かること、そしてそれが救いと結び付けられてしまい、「神の王国」という人類救済の手段は曖昧にされ、信仰そのものが救いをもたらすものと勘違いされ今日に至っている。


・信仰によるすべての人は、「新しい契約」に入っているのです。

A:では、「新しい契約」が成し遂げる事柄は何か?目的の明解であった律法契約またアブラハムへの約束とどのような関わりがあるか?その契約への神からの印は何であったか?
誰かについて、神との契約という無上の関係が有ると主張するなら、それは神と人々に重大な責任負う発言となるが、その契約の目的をさえ確信を込めて語れるのだろうか?



・『使徒の働き』を見ると、初代教会の人々の礼拝は、最初は毎日のように集まって礼拝していた(2:46)。やがて特定の日に集まるようになった。そのとき彼らは、安息日とは別に日曜日という日を、彼らの礼拝のために選んだのです(20:7)。

使徒2章については五旬節での神殿崇拝のための逗留が無視されている。使徒20の「食事をするために集まった」を根拠にこれをエウカリステアと判断するのは文脈を無視した苦しい説明で、昼夜に何度も愛餐をとっていたことになる。これは単なる会食とみるべきで、日曜安息は度重なる迫害で密告をおこなったユダヤ人への嫌悪感情がなせるものであり、法的確定によるキリスト教徒全体への強制を見るのは太陽神崇拝者コンスタンティヌスまで待たねばならない。キリスト教徒にとっての「安息日」の意味するところは、自分の様々な固執や仕事中心主義を去ることにあり、毎日適用できるものである。


・確かに神は、「日曜日に礼拝せよ」とは命じませんでした。しかし私たちは、キリストの復活の日に、その勝利を深くかみしめながら神を礼拝する。「主の日」と呼ばれるのに、この日以上にふさわしい日はないでしょう。

公生涯のキリストの最大の勝利はその「死」であって、復活ではない。その「死」はサタンへの反駁の余地の無い裁きの根拠を据え、父の神性を立証したのであり、同時に人類の「罪」への贖い代を供えた。これに対して復活は、必要ではあったものの、意義や崇高さにおいて「死」には到底勝らない。それでも復活の方が勝利というなら、そこには価値の倒錯があるだろう。典礼を意味する「礼拝」はともかく、集まるのに日曜は世俗が仕事を休むので集まり易いという以上のものとはならない。




総じて
この認識レベルの低さでは「主の晩餐」を行えたものではない。むしろ、自分たちのしたいように行うことで、神にもキリストにも関心がないことを厚顔にも示し続けるだけではないか。この人々が晩餐でもキリストの死の宣明でもなく、うさぎや卵を伴った女神アシュタロテの豊穣を祝う目出度いイースターに留まっているのは果たして神慮なのだろうか。いったい、日本のキリスト教徒はいつまで白人の言いなりになるつもりなのだろう。
この無知は、聖書全巻を流れる最重要な主題すら解さず、「敲き続けて」知ろうともしない姿勢を毎回あからさまにするだけである。もちろん、そのような態度に聖霊が与えられることもないことだろう。(ルカ11:9-13)
最終的に、このような人々が嫉みに駆られ、聖徒に逆らい、その殉教を招くなら、これほどの悪行を外に挙げるのも難しい。キリスト教界のすべてがこの幼稚な体たらくではないことを願いたい。



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ロバーツとドナルドソン(Roberts and Donaldson)はPolycratesc.130 - 196は第八世代の司教に属していたと指摘し、そして彼は聖ヨハネの伝統は彼の生涯中ではまだその心の中で新鮮だったエフェソスの教会を主宰。彼は確かにポリュカルポスを知っていた。
エイレナイオスによれば、また彼が復活祭のこの問題を検討するために一緒に来たアジアの司教会議(西暦196)を主宰しているようだ。




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・神からの赦しの受け取り方を見つけよう
・神と永遠に過ごす方法を見つけよう

いずれも方法論であり、「裁き」が欠落している。しかも、神の前の誇大妄想と自己過大評価の甘えが見え、それは神を卑しめるものである。これらの方法は死すべき罪ある人間には到底不可能であり、共に見つけようもないことである。方法を見つけて済むものなら、なぜはじめからそれが教えられないのか。
「裁き」において、人の内奥は聖霊に対する態度によって分かたれるが、それは人のどうこうできるものではない。ただ信仰を働かせるのみである。信仰は方法ではない。



・もし天国へ行くこと、神の近くで永遠に暮らすことが最終目的であり信仰の理由の全てなら「愛」を謳うキリスト教の教義とは逆にすごく自己中心的な気がしてしまいます。
敬虔なクリスチャンが周囲に無償の愛の振舞いをするのは、あくまで天国へいくための手段であり、教義がそうなっているから、という理由だけなのでしょうか?

信仰ある善人の死者が行く至福の「天国」という発想そのものが、聖書理解の歪曲から発生したものであり、本来は全人類の贖罪という祝福に関わるのが「天の王国」あるいは「神の王国」と新約聖書で語られるものである。旧約聖書の創世記からも一貫して語られており、アブラハムの子孫によってすべての家族が祝福を得るという神の約束が成し遂げられるのが、新約の「王国」であり、そこに入る者は少数者で「聖なる者たち」と呼ばれる。
従って、その「王国」に入る者の利益を図るためではなく、むしろキリストのような殉教の死を共にするほどの自己犠牲がそこに求められるので、その人々には神と人への無私の愛が必要とされ、それは「天国」で至福に入るというご利益信仰の対極を成す精神である。キリスト教徒が周囲に対して愛を示すというよりは、「欲」が動かすこの世界とは逆の世界が神に意図された人間の姿であるので、今の世を去って「王国」によってもたらされる新たな世の到来を願っていることがその行動で表される。それはその人の中の変化であって、酬いを求めて行うのではなく、神とキリストの教えに感化されたところから湧き上がるようなものである。











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