Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

誰が世のものでないか

『世のものでなく』『世から離れる』者についてはヨハネの著述に特徴的に存在している。ヨハネは黙示録の中でも七つのエクレシアに居る聖徒らについて、世と対峙する姿を求める内容を記している。

キリストの弟ヤコブは『世との交友は神との敵対』としており、これも『姦婦らよ』と呼びかけられている以上は、本来操をたてるべき相手である神に属する立場にある者について述べている。

聖霊を注がれた聖徒らは、もはやアダムの命に生きず、復活のキリストの命に在って生きている。ゆえに、彼らは『有罪宣告のない』誰も『罪にさだめない』倫理状態に『新しい契約』を介して入った。

したがって、『王として支配する』立場にある以上、『この世』とは対峙する『神の王国』の者であり、『契約』を守ってその立場を堅持しなければならない。

だが、聖霊が注がれず、『新しい契約』にないあらゆる人は、どれほど道徳的に振る舞い、聖徒の基準に従っても、依然として『世のもの』から出ることはない。

なぜなら、その人の内でアダムからの罪は何ら贖われてはおらず、そこは聖徒のような『契約』による義の仮承認もないからであり、信者になったから聖徒のようなキリストの完全な義の分け前に与ることも、その兄弟としてアブラハムへの約束に与ることもない。

むしろ、聖徒らの千年王国の贖罪を待つ身であることは、ほかのすべての人々となんら変わりはない。

 

エホバの証人を例にしてみると

以下のように、信者は『世のものでない』というキリストの言葉の適用内にあると見做していることが分かる。

 

神の諭しを守り行なうことは,この邪悪な世からわたしたちを取り分ける助けとなります。塔00 12/1 18p v15

 

わたしたちは神の諭しに留意することにより,神への奉仕のために神聖にされた状態,つまり取り分けられた状態にとどまります。この世から分けられているのは何と大切なのでしょう。v16


わたしたちはエホバの僕として,エホバへの奉仕のために受け入れられる状態を保ちたいと願っています。しかし,神の諭しを無視しようとすれば,この世の霊に打ち負かされてしまうでしょう。v17

 原因は『わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません』とのキリストの言葉が誰について語られているのかに誤解があるためと思われる。

このキリストの祈りはヨハネ17:16に記録されている。

だが、その後の20節で、『わたしは,これらの者だけでなく,彼らの言葉によってわたしに信仰を持つ者たちについてもお願いいたします』とあり、これが使徒や直弟子をはじめとする聖霊を注がれる者らへの祈りの言葉であることが分かる。

たとえ、その後の22節で『彼らも一つになるためです』と述べられていても、聖徒と信徒の間が一つになることの意味も時期も将来のものとして語られている。

そこでヨハネ17章のキリストの言葉を以って、聖徒以外の誰もが『世のものでない』と言うには無理がある。

 

ヨハネ第一の手紙での『世から出た者』というのは、エクレシア内に浸透するグノーシス分子について警告する文脈で記されており、『世のものでない』はずの聖徒を偽りながら、実は『世から出たもの』であることを露呈するので、そこを見分けるようにと述べている。(4:4-6)

 

加えて、ものみの塔の言う「神への奉仕のために神聖にされた状態」とは、聖霊の印のない者には到底有り得ないことで、聖霊の降下無くして「神への奉仕」の実現はけっしてない。奉仕(ラトレイア)は聖徒が神殿として存在している間であれば有り得るとしても、ただの人間がどんなに祈り、どんなに品行方正に行動し、新約聖書の道徳規準を守ったからといって、そこに「神への奉仕」が存在するわけもなく、それは人間を超えたことであり、神の霊なくして不可能なことである。

つまり、紀元二世紀頃に聖霊の降下が途絶えて以来、今日に至るまで「神への奉仕」というものは存在したことがなく、次の聖霊の注ぎがあるまでは有り得ない。

そこで、エホバの証人の『世のものでない』という認識は、虚構のものであり、妄想という以外ない。いったい何時彼らが「YHWHの僕」なり得たか。あのペンテコステのような神からの印があったのか。

ここが「ものみの塔」の最大の間違いであろう。聖霊無い者を「有る」としてしまったことであり、最初は年代信仰であった一派が長じて、キリスト教界の御多分に漏れず、傲岸不遜な欧米人らしい宗教感情のままに、是認された自分たちが聖霊を注がれたと妄想していたのであり、それは他の大半のキリスト教会と変わらない。特に戒律的なところではメソジストにも似ている。いったい何時神が彼らを是認したろうか。

極東人的感覚からすると、どうしてあのように神の御前に頭を高くしていられるのか不思議であり、それに釣られる日本人もどうかと思えてならない。

自分たちが「取分けられた」と思うのであれば、それこそはパリサイ(取分けられた)という、最もキリストに逆らった分子の延長線上にある。

その精神は利己主義であり、自分の救いを確保して後に、他者に憐れみを垂れているのだが、これは傲慢な態度であり、他のあらゆる人々への蔑視を必ずや含むものである。

しかし、実際にあらゆる人が、エホバの証人であろうとなかろうと、キリストの犠牲を必要とする『罪人』であるところは少しも変わらない。

そこをものみの塔の「楽園での永遠の命」の宣伝に絆されて、勝手な清さの基準を持ち出し、自分を高一等の救われる立場に高めるために、他の周囲の人々を踏み台にしているのであり、それこそは新約聖書中で、パリサイ派が存分に行い、キリストに糾弾された通りのことである。

自分こそが神の是認の下にあると思うとすれば、それは『契約』にある聖徒以外に有り得ない。

そうでなければ、その人の贖罪されていない状態は、他の誰とも同じく『この世』を構成する『罪』の内に在るのであり、それゆえにこそ、謙虚にキリストとその王国を形成する聖徒らの現れを、世のほかの人々と共に待っているはずではないか。

つまるところ、エホバの証人キリスト教界の一部に過ぎないところは、その独善性と傲慢さに表れている。結局は「まず自分が救われたい」というのが、全ての「清さ」を誇示する行動の動機ではないのか。

だが聖書の神は、終末の全世界に証しを立てる点ではけっして偏狭ではないし、その経綸は人の清さに依拠してはいない。パリサイ派が「呪われた地の民」と呼んだ下層民により沿うキリストの姿にそれは見えている。