Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

二徒理解の欠如からくる誤謬

二徒理解の欠如からくる誤謬
 (「新しい契約」理解の欠如を含む)

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・聖書は自分に向けて書かれている
バプテスマを受けると罪は許される
バプテスマを受ければ聖霊も受ける
・「クリスチャン」に聖霊が注がれる
・万人祭司説
・携挙が「クリスチャン」に起こる
(パルーシアや携挙の艱難前後を論議するのも聖徒理解の欠如で起る)
・信者は神やキリストと(宗派組織を通して)繋がっている
・肉は王国を受け継がないの意
・霊の体となり天でキリストと共になる
・復活は肉体に起こらない
・復活と千年王国の時期の前後関係
・地上のエルサレムに神殿を建てる意味がある
・血統上のイスラエル人が終末に集められる
・律法契約は成就して血統上のユダヤは聖なる国民となった
ユダヤ人は今でも神の恩寵を持つ
・自分たちは「世の光」
・信者はすべての罪を許されている
・自分は自分のものではなく神のものとなっている
・誰が救われるか、既に神は知っていると聖書は明らかにしている
・聖徒の行動規範や務めを信徒に当てはめる
・聖徒に向けて語られた審理方法を信徒に当てはめる
・大いなるバビロンの滅びですべての偽宗教は終わる


誤解され易い句
1Cor15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(新共同訳)
誤解され易い翻訳;
『44 物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊的な[体]もあります。45 まさにそう書かれています。「最初の人アダムは生きた魂になった」。最後のアダムは命を与える霊になったのです。46 とはいえ,最初のものは霊的なものではなく,物質のものであり,後に霊的なものとなります。』新世界訳(Own goal!これは誰について述べているのか?そこを把握していない場合での日本語に重訳する際の困難)
"However, what is spiritual is not first. What is physical is first, and afterward what is spiritual. "NWT
"However, the spiritual is not first, but the natural, and afterward the spiritual."NKJV
[ἀλλ’ οὐ πρῶτον τὸ πνευματικὸν ἀλλὰ τὸ ψυχικόν, ἔπειτα τὸ πνευματικόν.]NA28
『しかし、最初ではない、その霊(形単)は、むしろ、その肉(形単)(生まれながらの)、それから、その霊(形単)に。』直訳
〈動詞は直接には前の節の[ἐγένετο]生じる・現れる・成る動)直アオ能欠3単 〉のように見えるが、これは引用であって、パウロが問題にしているのは、アダムはもちろんイエスでもなく、聖徒であった「死人」(42節)の復活であり、そこで関わりのある動詞は[ἐγείρεται]「生き返る」動)直現受3単
『最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。』口語
『最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。』新共同訳
『最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。』新改訳

・ここでは、キリストと聖徒の違いを書いている。つまり、最初の「アダムは生ける魂(肉を含意)と成った」が、キリストは復活に際し「命を与える霊に成った」。こうして両者が異なるように、聖徒も復活に際して「肉であったものが霊へと変えられる」とパウロは両方のアダムの対比を用いて、霊への復活も起こり得ることを説得していたと読むのが自然ではないか。「但し」キリストとは異なり、聖徒は肉が先に存在することになる。それはこれに続く文脈も証明しているであろう。その結論は49節に在る。(これをグノーシス派教理への論駁と見做すのは全く的外れであるし、年代も整合しないのでは)
しかし、この節までだけを読む場合、パウロはアダムとイエスを例に挙げながらも、幾らか舌足らずであったように見受けられ、それがペテロの云うような『彼の書簡には幾らか分かり辛いところが』あると言われたところの一つであった蓋然性が現れてくる。

そこで自訳すれば
『但し、初めから霊なのではなく、むしろ、初めは肉であり、それから霊へと成されるのだ。』
このように、「聖徒」の復活での変化についてをパウロが伝えようとしていたと読む方がシンプルで原語にもずっと近く、また結論の49節に良く合致する。ここに「〜のもの」や「的」という日本語を補うと誰のことを言っているのかを見失い、余計な誤解を招くので、初めは面食らうかも知れないが、そこはパウロの「舌足らず」のままの方が却って良いと思える。続く節を読むことで、この部分の真意が分かるのであり、余分なあるいはリアルに形容詞語を入れる「親切」は無用なばかりか害がある。続く節を読んでもこの節だけが謎となってしまい兼ねない。その原因はギリシア語と日本語との単語の意味の広さの相違も関係している。つまり日本語がギリシア語に沿い切れないのである。

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「夜」理解の欠如からくる誤謬
・今日でも預言者が居る
・今日でも聖霊によって油そそがれた者が居る
・神は是認する者を歴史上継続的に置いてきた
・マラキ以降にも旧約聖書は書かれていた
・今日でも聖霊に導かれる者がいる


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これは・・・
まさしく二徒理解の混乱の極みというべきか・・

「今日「エホバを求め(る)」ことには,神の地上の組織と交わりつつ,神との温かい個人的な関係を育み,維持してゆくことが関係しています。これは要するに,神の見方を知るようになり,神の気持ちに注意深くあるということです。わたしたちは,み言葉を注意深く研究し,黙想し,その助言を生活に当てはめる時,エホバを求めていることになります。さらに,熱烈に祈ってエホバの指導を求め,神の聖霊の導きに従うなら,エホバとの関係が深まり,「心をつくし,魂をつくし,活力をつくして」神に仕えたいという気持ちに駆られます。―申命記 6:5。ガラテア 5:22‐25。フィリピ 4:6,7。啓示 4:11。」
また

塔01 2/15 19ページ 神の怒りの日が来る前にエホバを求めなさい ***

「なぜ,「恐らく」隠されるであろう,なのか
8 ゼパニヤ 2章3節に,「恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう」とあることに注目してください。「地の柔和な者たち」に語りかけている文脈で,どうして「恐らく」という言葉が用いられているのでしょうか。それら柔和な者たちは積極的に歩んできましたが,だからといって自信過剰になってよいわけではありませんでした。忠実のうちに生涯を終えたわけでもありません。罪に陥る人が出る可能性もありました。わたしたちの場合も同じです。イエスは,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」と言われました。(マタイ 24:13)そうです,エホバの怒りの日に救われるかどうかは,神の目に正しいことを行ないつづけるかどうかにかかっています。あなたは,そのようにすることを固く決意しておられますか。」
以上引用--
契約にある者とそうでない者の区別、両者の救いの違いが捉えられておらず、混濁してしまっている。「終わりまで耐え忍ぶ」のは聖徒ではないか。あからさまな脅迫口調であるが、聖徒の命令を他者に課すとはいったい何者なのだろう。
そこで、道徳的不自然さと、とって付けたような「模範者」の仮面が作られずに済むものだろうか。聖徒ではないのに聖徒を装うからである。
しかも、ご利益信仰に堕している。

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こちらはプロテスタント
「私が認識しているのは、罪からの清めと、キリストと一致する新しい生活に入るしるしとなり、教会の重要な聖礼典もしくは秘跡です。(使徒8:36、9:18、ローマ6:3‐4、ガラテヤ3:27)」
以上引用--
やはり、聖徒のように「罪からの清め」と「キリストと一致する新しい生活に入る」というのが、本当の聖霊無くして実現するというように妄想されている。
やはり、神の目的から外れて、ご利益信仰であるところは変わらない。
キリスト教」とはこうも空しいものであったのか。。



























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