Notae ad Quartodecimani

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キリストの体と魂

キリストの体と魂について
岩波委員会は、キリストの死が神の召し挙げであったという
しかし、そう思えない。もちろん40日のタイムラグもあるのだが、肉眼では携挙に見えても、肉体は失われたのでは? 神はその魂をハデスに捨て置かれなかったが、身体はそうではない。それはマナとして食される必要があった。即ち人の命の喪失であり、魂は喪失していない。それゆえ、霊への復活が行われたのであり、この点てエレミアスのユダヤ人らしい解説には傾聴に値するところがある。なぜなら、祭壇上で身体は焼かれても、血は祭壇下に注がれたからである。即ち、身体は焼却され滅しても、は保存された。キリストのものと雖も、いや初子であるからにも肉は滅んでもその魂は不滅でなくてはならない。
これについては、一般的「霊魂不滅説」も、「魂は死ぬ」という説も、共に誤解していることになる。魂が不滅なのは神が保存するからであり、保存されない魂、即ち『罪を犯せる魂は死ぬ』その存続の可否は神に掛かっている。(SDA→JWが言うような)「魂は人そのもので、体の死と共に死ぬ」のではけっしてない。なぜなら神は創造者であるゆえに、創造されたものの存否を判断する極めて正当な権限を持つからである。これについて、エゼキエル18:4の翻訳はKJV同様に「魂」とした日本聖書協会口語訳とものみの塔新世界訳は「もの」と意訳しなかったことにおいて良い。
この理解でゆくと、聖体変化もまったく無意味になる。誰かこの理解を持つ人や宗派が存在するだろうか?再臨のキリストが肉の様をとらないことも確定的となる。つまり、キリストの体に相当するセデルの羊の焼却によって、地上再臨を限定化するものともなるからである。それは初臨とは決定的に異なる。なぜなら、御体は祭壇上に捧げられ焼却されたからであり、残ったのは血、即ち魂であった。魂は抽象であり、神だけが扱う。神は御子の魂を霊へと復活させたのであり、肉は無くなった。象徴的にはイスラエル全家によって食され残りは焼却され『残してはいけない』と命じられている。
ヘブライ書はレヴィ16:27を引用して『大祭司によって聖所に持ち込まれる動物の血の犠牲の体は宿営の外で焼かれる』と述べ『ゆえにイエスも門の外で苦難を受けた』としている。13:11-12
この理解でゆくと、キリストの犠牲を抽象的に言わない場合、その犠牲物は肉体であったことになる。丁度出エジプトの子羊と同じことになる。この子羊の体を食する者は永遠の命を受けるが、それは荒野のイスラエル人の生命を支えた以上に、キリストの犠牲物は(人類に)命をもたらす犠牲物となっている。つまり、アダムの肉体に相当する犠牲の差出である。これは「供与の犠牲」に端的な予表を見ると言える。だが、現時点で『神の王国』は到来しておらず、祭司と共に一般人がキリストの肉に預かる時期はまだ到来していない。つまり、パンが表すキリストの肉の体は、消滅したアダムの体に相当する代替といえるのでは?キリストが霊体に復活した以上、肉体は在ってはならないことになる。『最後のアダムは命を与える霊になった』からである。(コリント第一15:45)

他方で、血は、消滅したアダムの魂の代替では?そこで犠牲に二つのエレメントが関わる理由がある。なぜなら、キリストの肉は失われ霊の体を得る(Jh3/1Cor15)が、魂は一度も失われていない(Act3)。そこでアダムという人物の肉体と魂とを別に扱う必要があったと言える。滅びたアダムの肉体は永続するイエスの霊体に代替され、滅びたアダムの魂はイエスの魂と置き換えられた。
この理解でゆくとパウロがキリストを「アダムに対応する贖い」と言ったときに、置換による贖罪を述べていたように見える。神殿祭祀では『血に魂があり、それが贖罪を行う』のであれば、祭壇の上より下に贖罪があったことになる。祭壇上の肉体はその贖いを導き出すために用いられたのであり、そこでは肉体の死が起こる必要があった。死すべき理由を持たなかったキリストの死は、アベルの血のように、その代価応報を求めることになる。その肉体は霊体となるが、魂はそのまま存続していたからこそ、その転換も可能となったと言える。
こうなると「贖い」とは置換であったことになる。もしそうなら、倫理的意味を別にして、キリストの肉体の死は、その置換をもたらすためでもあったことになる。

また、キリストの血は『契約を表す』と主が言われたように、初子らとの関連が強い、即ちアブラハムの裔であるイスラエルとの絆である。『ふりそそぎ』を受けたのはイスラエルであった。
その魂を表す血は、家の鴨井に塗られ、全家ではなく『初子の救い』をもたらすことになった。
ここでやはりIsa53:12が活きて来る。即ち『かれは自らの魂を死に至るまで注ぎ出した』という言葉から、主の死が注ぎ出したのが血に含まれる魂であることをしめしている。しかし、それは食されなかった。当時はいまだ実体は到来しておらず、それは予型であったからであろう。
しかし、聖徒の場合には『新しい契約』により祭司の実体が現れたゆえに血が飲まれたのであり、これは血の禁忌の律法を超える行為であったが、その異例さが聖徒の立場の高さを教えるものともなる。本来『血を飲んではならない』とは、神の魂の所有権を伝える媒介であった。聖徒らはパンを食するだけでは、キリストと共になるよう天界に召される理由がない。それを成し遂げるのは契約であって、それに与っていることを示すのは『聖霊』である。しかし、キリストの血を飲む象徴は、主の魂に預かる者となっている状態、即ち契約の成し遂げる事柄への予表と言える。
前頁でエレミアスが二つのエレメントに主の犠牲を分けて考えた理由には、傾聴すべきところがあるというのは以上のような理由による。
敷衍すると、キリストが地上で屠られるべき理由は、現状で死とは地上的なものであること。また、キリストがアダムの体の代替を与えるために体を消滅に渡した。なぜならキリストは犠牲を捧げることで神を高め被造物のヘセドを示した。またキリストは神の初子であって本来人間として生きないし、そのような存在ではないからである。ヘブライ書13:10以降の記述によれば、祭壇では焼き尽くされない犠牲をキリストに適用している。それゆえ門の外(宿営外)で体は焼かれて体は尽滅したといっている。
また、アダムの魂を代替するために血を与えたと言える。体が消滅したのに対して(モーセのように)、魂は保存され神に返された。それは祭壇の犠牲の扱いも教える。人類はアダムの存在に依拠しているので、キリストはアダムとしての体と魂に代替されることにより『とこしえの父』と成り得る。もし『第二のアダム』が来なかったなら、人類は存在する根拠が無いことになる。(アダムの罪が遺伝した、いずれ終息するアダムの生命の中に生きるから)
そこで体は滅し、魂は生かされた。パウロが繰り返す『キリストと共に生きた』、また『その死に預かる』はこの意味で明瞭になる。加えて『生きるにしても、死ぬにしても主のもの』の意味も見えて来る。
今生きるキリストは魂を通した霊への復活による。その魂を飲むことで、聖徒は『共に生きた』ものとなった。それは体に預かることではない。(ここで自分は間違えていたかも知れない#)では、なぜ信徒はパンにも与らないか?それは贖罪の契約に含まれていないので、依然としてキリストの体を食してその益に預かるに至っていない。だが聖徒は契約によって既にその範囲内に居る。

  • 十二使徒が主の晩餐で聖霊降下と聖徒の聖餐参与に先んじたことは、やはり『王権の契約』Lk22:29を結ぶ優越性を物語っている-

神の子羊』としてのキリストの犠牲を概観すると
出エジプトの時に『血』は初子を救出したが、『肉』の方はイスラエルや異邦人によって食されている。そして、その双方が民の奴隷状態からの脱出を可能としている。それは「千年王国」の贖罪を表してはいない。むしろ「終末」にはっきりと焦点を合わせるものとなっている。それは脱出に関わる儀式で、王国は未然の状態にあるときに意味を持ち得る。即ち、初子らの救出と民全体の解放である。その段階では初子らは聖別されておらず、民には崇拝方式が与えられていなかった。



#聖徒がパンに預かるのはキリストと霊の体を共にすることの象徴と捉えてきたが、上記の捉え方でゆくと、キリストの肉体の滅びによって益を得ることの象徴となり、やがては信徒の立場の者らも与ることになる。但し、これはもう一度聖書を読み込む必要がある。
『あなたがたに与えられるわたしの体である』の『体』が肉体と霊体のどちらを表すか、あるいは両方なのかが分からないところに問題がある。

・同様にして、Lk22:20が「あなたがた」か、Mtのように「多くの者ら」かの論議はあまり問題にならない。たとえ「大いなる者ら」としても内容は変わらない。聖徒であろうと信徒であろうとその益は及ぶ

事によると、千年期以降もセデルや主の晩餐のようなもの(そのものではなく)は続くのかも知れない。それは地上の民の預かるものになるのだろう。

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