Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

目録

目録




創造者
聖書の神、すべての根源者
人間存在の由来


神の象り
神との意志の疎通を図ることのできる理知ある存在の姿



神との関係において的を外した状態
創造の意図からの脱落
倫理の基礎の破壊
一般的罪とは異なる非倫理的性向


罪の酬い
存在も意識も消滅する


魂と霊
「霊」は体に働く神からの力、死後肉体から抜けるが非人格で無意識。死者の行く霊界などは聖書に無い。
「魂」は創造者における存在の確保を司るもの、象徴的に血と共にあるが、霊も命も抜けた死後には血に関わりなく神の下に保護される。神の創造物の生殺与奪の権限に関わるもの、やはり非人格で無意識の象徴的存在。(ヘブライ語用法に注意)


天国
信仰者などの善人が死後にゆく上なる世界ではない。おおよその天国信仰は利己的なご利益信仰でしかなく、キリストが示したような人類全体への救いの大志に欠ける。
「天の王国」i,e「神の王国」ならば、選ばれた者(聖なる者)だけが召集され、キリストと共に地上の人間を治め、贖罪するための人類救済の手立てである。



救い
贖罪を受け、悪魔の道を退け、神と和解しようとするときにはじめて得られる神との和解。
それによって永遠の生命の木から食し、人類が神の創造の意志の中に復帰すること。



地獄
不信仰者や悪人が死後にゆく責め苦の場所ではない。
この原語は、新改訳が記すように「ゲヘナ」また「ヒンノムの谷」であって、火の燃えるごみ処理場の意味。
復活しても再び悪魔の道を選び、神から離反して罪に入る者が受ける永遠の滅びの象徴。
また「墓」(ハデス)も地獄と訳されることが多い。
地獄信仰の背後には、権力による脅しと同じく外的圧力によって人を抑制しようという狙いがあり、それは「愛」による内面の変革を説く神からのものではない。また、責め苦の加虐性は悪魔のものであり、神を偽り伝えるものである。



エス
父なる創造の神によって最初に造られた唯一の存在なので、『初子』とも呼ばれる。『大能の神』とも呼ばれるが、厳密には第一の被造物である。人間社会に降り人間イエスとなり、聖霊の油注ぎによってキリスト(任命された者)となった。
父なる神YHWHの神性の立証のために生命を賭したが、その死に至るまでの欠けることの無い忠節は創造者の神性を証し、悪魔を論駁して裁き、創造界に一致をもたらしその要とされる。また、その血の犠牲はアダムの失った魂の代替となり、人類の罪の贖い代ともなった。
三位一体説は、イエスの示した父への極めて強い尊崇の念を無視する暴挙である。


キリスト=メシア
任命を受けるために「油注ぎ」の儀礼を受けた者の意で、様々な役職にも適用される言葉だが、「約束のメシア」については預言の積み重ねによって稀なる大権を受ける特別な人物を指していた。



聖霊
本来は神からの力であり電流のように様々な仕方で働く。無人格だが、神の意向に沿って自在に働くところに人格を覚えるとしても、それは聖霊そのものの人格ではなく神のものである。
聖霊さま」という三位一体式の呼び方は、誤りである以上に、神でないものに神格を与える偶像礼拝的冒涜である。



『約束の聖霊
イエス・キリストが直接にはユダヤ人の弟子たち示した『約束の聖霊』は、奇跡の「聖霊の賜物」を伴い、キリストの犠牲によって初めてまずユダヤ人に、次いで信仰を抱いた一定数の諸国民に対してのみ授けられた格別な聖霊
この霊を受けるには罪の許しが行われていなくてはならないので、イエス以前には下賜されなかった。
しかし、その「聖徒」である人々もアダムからの罪から現実には逃れてはいないので、『新しい契約』によって「義」が信用貸されている。



『新しい契約』
イエス・キリストに信仰を抱いた限られた人々が、罪を持ってはいても、その信仰によって義が特別に認可される契約。
これによって、人類に先立って罪を贖われた人々はキリストと天で共になるという稀なる権利を得る。
その人々が天に召集され『神の王国』が完成するとき、この契約は終了する。



『神の王国』
悪魔とアダムと通して人類社会に蔓延した罪を除き、創造のままの優れた人類を回復するために生ける人類を贖罪し、一定期間支配する神のきわめて優れた制度。
その由来はエデンの園で語られた『女の裔』からはじまり、アブラハムモーセと受け継がれてキリスト・イエスに至り具体化した。
これを構成するために召された人々は、将来にキリストと共に到来し千年存続して、役割も権威を終わりを迎えるが、その勲は永続することになる。
「女の裔」は常に裁きの根拠となった?



                            • -

・私たちには、救い主が必要です。イエス・キリストを心にお迎えすることによって、あなたは永遠の地獄から救われるのです。
A:将来に人類の裁きが控えているために、今現在に救いを確定することは無理であり、人の利己心に訴えて救いを求めさせるなら、それは神の意志を無視しており、キリストの自己犠牲の精神にも逆行するものである。そこに大志も隣人愛も無い。少女趣味的なご利益の夢想ではないか。


・あなたが心のとびらを開くことによって、イエス様をお招きすることができました。聖なるイエス様は、私たちのいのちの中におられ、天国の岸辺に導かれるまで共にいてくださるのです。
A:キリストが聖霊によって人に住むとは、『約束の聖霊』を受けた人類救済に命を賭す『聖徒』と呼ばれる人々だけが、その義の信用借りによって経験し得ることであって、それは彼らに王国という神の偉大な手段を与えるためのものであって、個人の救済を約束するような軟弱なものではない。イエスが個人のために何を為すかではなく、問われるのは、聖霊を受けた個人がイエスと協働して人類共済に何を為すかである。(コリント第二5:14-15)


聖霊とは、三位一体の第三の位格であり、良心のささやきです。あなたが罪を犯したり、悪いことをする時にはあなたの罪を知らせ、また悲しみます。でも正しい時には平安をもたらすと、聖書には書いてあります。聖霊はあなたの教師であり、正しいことへ導き、聖書を理解する手助けもしてくれます。
A:これはスピリチャルとどう異なるのか?何も実態と異なるキリスト教でなくてはならないものか?神やキリストの観点からすれば、随分と迷惑なことにならないか?



・毎日、聖書を読みましょう。神様があなたに語りかけていることが分かります。
A:毎日読むのはよいことだが、聖書が語りかけるのはまず「女の裔」また「聖徒」に対してであり、その記述の大半はそのようである。我々はこの『諸国民の光』となる人々についての情報から間接的な益に預かるのである。聖書が「あなた」と呼びかけるとき、それがいつも自分だと思う傲慢さを培って何の益があろうか。聖書全巻の知識の不足がこれをもたらしている。したがって、聖書を読む際には、まず全体の状況を私情を挟まず冷静に把握しなければならない。キリストは常々『耳有る者は聴け』と述べ、情報を得る者が誰でも益を得るわけではないことを証している。





所見:同じキリスト教の名を冠しながら、関心が人と神のどちらに向くかから見ると、正反対であり、人間に都合よくカスタマイズされたものが、今日のキリスト教の大多数と云えるようだ。聖書に合致しているようでいて、崇拝の受益者また主体者は神でなく人間であり、まるで宗教世界が異なる。その主目的は裁きの有罪の回避と自己保存の確定である。自分を見るばかりで神とその意志を探らない。(「名を造る」?)
これでは真面目な日本人には受け入れられないだろう。他力本願を通り越して軟弱で、スジが通っていないからである。日本人には命を賭しても誠を尽くし義を貫く気概がまだ残っているだろう。それこそがキリストの精神ではないか?



                          • -

歴史の連続性で南北を読まない方が理解が進む

どれも詰まるところは覇権の追求であった
それを拓くのはまさに軍力だった

南北の件は、その終末での煮詰まった象徴の姿では
それが二者のせめぎ合いとなるが
勢いのある方は新参のせいもあってか、欲望むき出しである

南は羊に似て寛容だが、敵はまったくの強権である
しかし、共に民衆の声を無視することはできない
そのツールがネットであり、世の様相はそれぞれに二重構造を余儀なくされる

YHは完全な人類支配を許してこなかった
それはメシア王権への挑戦の意味もあった

では、北が砕かれたあと、人類軍を統括するのはだれか?
それがおらず、同士討ちの危険を孕むのか

並行して・・
不法の人の実体は
それが北王なのか?あるいはより広範囲な覇権の持ち主が現れるのか

Danを手がかりにすると、自らを神の座に就けるのは北王のように見えるが


















.