Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

傾聴別者

・ダニエル11章41節では、北の王は「飾りの地」に入ることが予告されていますが、北の王の南の王に対する総攻撃の後に、ダニエル11章45節では、「飾りの山」という呼称が登場します。神の民に関する呼称が変わっています。このことは、神の民は、北の王の攻撃がある前に、イエスの助言に従って山に逃げたことが示唆されていると言えるでしょう。(マタイ24:15,16)神の民の拠点が山に移ったので、「飾りの山」という呼称に変わったのではないでしょうか。

A:これは北王の侵入地がシェフェラの「地」、その目標がエルサレムのあるシオンの「山」と見ることでこの呼称の差異の意味は見出だせる。ダニエル書でも北王は「地」には入っても、「山」の領域には踏み込まないのはこのため。⇒「二度救われるシオン」


・ハガイ2章の天と地を激動させる時には、エホバは「もろもろの王国の王座を覆し、諸国民の王国の力を滅ぼし尽くす」と述べられています。(ハガイ2:21,22)そして、イエスは大患難の時に、政治と軍事を支持する者たちの影響を被ると言われています。その時、ハガイの予告によると、「あらゆる国民の望ましいものが(エホバの家に)必ず入って来(ます)。」(ハガイ2:7)・・・・ そうした望ましい特質を持つ人々は、大患難の前の地上の事態の進展を見て、政治や軍事に頼ることが空しいことを悟ることになるのでしょう。そうして、エホバの崇拝に目を向けることになるでしょう。

A:このHag2:7についてはHeb12:26でシナイ山麓での畏怖すべき神の声の「激動」に言及があり。この「もう一度」というのは、シナイ契約に相対する新しい契約に関わる言葉、即ち聖霊の賜物による発言が提醒されているので、新しい契約の中断からキリストの臨御によって再開されるときについて示唆が向けられていると云ってよいようだ。目を向けるとすれば、それはパウロの指摘通り『激動』による『天地』の消滅であり、人々の注意を向け、その行動を促すものは一介の宗教組織の様子でも、世情の利に聡い見通しでもなく、聖徒たちによる聖霊の発言であり、能動的な雲の中のキリストと為政者との対峙の中に世界の注目を得るのだろう。(Mt10:18-20)この点はJoe2:10にも現れている。なお、Hag2:21と22の内容は同じ文脈ながら成就の時期については上の理由から幅を持たせるのが良いようだ。


・ふたつの句に於けるπροσκυνέω

Mt4:10『その時、イエスは彼に言われた、「サタンよ、離れ去れ! 『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず(プロスキュネオー)、この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。』(新世界訳)
「この「崇拝する」という言葉はギリシア語でプロスキュネオー(προσκυνέω)といいます」次にこの箇所を開いてみてください。
Mt8:2『すると、見よ、らい病の人が寄って来て、彼(イエス)に敬意をささげながら(プロスキュネオー)こう言った。「主よ、あなたは、ただそうお望みになるだけで、私を清くすることがおできになります」』(新世界訳)
「ここでもプロスキュネオーという言葉が使われているんですが、なぜひとつの箇所では「崇拝する」とあり、イエスに関する箇所では「敬意をささげる」とあるんでしょうか?」・・(この疑問にまともに答える証人はいない云々)


A:矛盾を突いたかのように悦に入る前に、口語訳も語義を合わせていないし、本質的問題に至っていないのでは。他の訳(新改訳、新共同訳も同様)と比較しても上記を用いて新世界訳を攻撃するのは的外れであり、それで新世界訳の使い手に嫌がらせをするのは公平性を欠いた卑劣な揶揄の域を出るものではない。
当時のユダヤ人の崇拝は神殿祭祀であって、人を礼拝することは石打に遭うほどの罪であった。
この一語を三一の証拠にしたい思惑は病的であり、イエスの公生涯とその後に当てはめても不自然で全体の理解から外れている。
詩篇はこの概念をメシアである『子』に当てはめており、それはメシアへ畏敬を示すべきことを教えているが、これはユダヤ教に在ってペルシア風にアラム語彙を用いて異例⇒子に口づけせよ
したがって、このギリシア語を以って神を三一に見做すには無理がある。
しかも、これはいささかもキリスト教徒らしい話合いにもならない。むしろ愚昧で卑怯な話法であり非倫理的で、平静を装いつつ相手を悪と決め付けた自らを汚す行いであろう。誰であれ異なる宗派の信徒に人として当然の敬意や公平性が持てないのなら、まず、自分のキリスト教が自分に邪さをもたらしていないかを問うべきではないか。
エスに対して「ひれ伏す」はプロスキュネオーの語だけが用いられてはいない。
[πιπτοω]原)Mk5:22 Lk8:41「ひれ伏す」
⇒「タあヴドゥーン」と関連がある。



Mt4:10『するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。』(口語訳)Mt8:2『すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。』(口語訳)
[προσκυνέω]=1) to be able, have power whether by virtue of one's own ability and resources, or of a state of mind, or through favourable circumstances, or by permission of law or custom 2) to be able to do something 3) to be capable, strong and powerful



・その人の生涯について支配されておられるのが天地創造の神であられるのですから、その人一人ひとりの生涯についてどのようになさるかは、神のご自由なのです。

A:神が人の生涯を支配しているなら、人の生涯はどうしてこれほどに虚しいか。それが一種の訓練であろうと、その原因を神に帰することになってしまう。しかし、神は諸悪、諸苦の源ではない。『誰が足萎え、盲目を造ったか』と神は自分を指して言う場面があるが、それとても文脈上の誇張表現であり、むしろ『その業は完全』な方と見るべきだろう。(申命記32:4)もし、神が世のすべてをその意志の通りに動かしている、と主張するなら、神は加虐性の持ち主であるということにならないだろうか。つまり、今日まで神が全知全能でありながら忍耐を働かせていることにおいて、それを神の意志だと言うことになる。そこではサタンも、人間の悪い特性も神からのものとされてしまう。むしろ、神が何故悪を忍耐しているかという重要な問いに蓋をしてしまうことになるだろう。現在の世を支配するのは神ではない。もしそうでないなら、キリストは弟子たちに『世を征服せよ』とは言わなかった。教会員の神とは、そこまで個人の中にしか存在しないものなのか。もし、そうならキリスト教会での教えとは、サタンを神と偽る、きわめて無力なご利益信仰と言わざるを得ないことになる。


・"永遠の命を受けるのは、未来のことでもあるが、現在のことでもある。あなたが今キリストを信じているなら、あなたはすでに救われているのであり、「救われた」と言ってよい"

A:聖書中で、既に救われた扱いを受けているのは聖霊を注がれた弟子「聖なる者」だけである。それもあの五旬節を経て後のことであり、彼らは『初穂』として人類に先立って贖罪される必要があった。『新しい契約』は彼らが肉の状態で居る間から信仰のゆえに義を仮承認して「アブラハムの裔」として人類救済の手立てとなる相続権を得させた。それは人類全体の救いを達成させるためで」あった。gen12:3
キリスト教界一般が、信仰する者は皆、既に救済されているとしてしまったところは、聖書全体への理解の無さのゆえである。
つまり、キリスト教は第二世紀に聖霊の賜物を失って以来、聖徒と信徒の区別がつかない状態に入っている。これはキリストが再臨を果たし、再び聖霊は降下することにより解消するであろう。


・善悪の知識の木」は,何が是認されて何が非とされるかに関し,人間のために規準を定める神の権利を表わしていました。
二人の幸福が続くかどうかは,神の支配権と,善悪を決定する神の権利とを認めることにかかっていました。
アダムとエバは,その木から食べてはならないという神の命令に従うなら,神に対する服従を実証できました。

A:「善悪の知識の木」は「永遠の命の木」との対照であり、「命と死、祝福と呪い」の選択であった。それをわざわざ選択させた以上、それは当人たちの自由意志の尊重が主目的であった。つまり「服従させる」ことが目的でないゆえに選択を任せている。したがって、園の中央には二本の木が存在したのであり、「服従」の要求であったなら、その木は一本であったろう。この選択を通して両人の支配権への「服従」が実証されるとしてしまうと、選択が与えられたことそのものの意義を無効にしてしまう。これは論理の矛盾であり、創造者が護持し続けた自らの『象り』への尊重を卑しめ、且つ創造者を圧制者と偽り伝えるものとなってしまう。
エヴァは「死ぬことはない」と聞いたときに「その実が食すに好ましい」ものとなった。また、アダムはエヴァが入り込んだ道に同伴するつもりであったろう。そこで神への愛着や支持という発想があったとは書かれていない。そのときに欠如したものが「服従」なのかとなれば、「服従」は自発心か否かを問わないのに対して、「忠節」は自由な決定者が持ち得るものである。「自発的服従」というなら、それはこの問題を複雑化させ、本質をぼかすものになるだろう。アダムたちに多くの自由を与えて厚遇した神が、突然に圧制の主に変ずるような不自然さもそこにある。もし、神が「服従」を求めたのなら、強制したであろうし、そもそもこの問題は生じなかった。
自由意志と選択ではなく、この提題のように支配権と服従と強調する捉え方の背後には、人間製の強権意識が感じ取れる。おそらくはこの発想の持ち主である何者かの圧政的性向が上記の文章に反映されているのであろう。




・イエス様が世の罪を負って死なれたので、私たちが罪を犯しても、その裁きはすでにイエス様がお受けになっています。

A:キリストの荷った「罪」とはアダムからの罪であって、それは人類全般に見られる倫理上の欠陥といえる。我々の犯す個々の罪ではない。(Rom5:12-14/15:22/15:45)
上記の捉え方では終末の裁きが回避されている。信徒には都合は良いのだろうが。


・旧約の贖いの日、大祭司アロンがいけにえに、イスラエル人全員のすべての罪を置いたように、バプテスマのヨハネはイエス様にバプテスマを施した時、世の人全員のすべての罪をイエス様に置きました。


A:バプテストは預言者であり、大祭司の役割を得たのはキリストの方である。そのキリストですら地上に在る間は大祭司とは成り得なかったとパウロは云う。上記の教理から「受洗者は既に罪を贖われている」と言うなら、それは信者を終末の裁きに備えさせず、危険に曝していることになる。(大方の教会では、教会員の「裁き」を唱えるのは異端とされているそうだが・・却ってこれは神の前に罪無しとは言えないだろう)
(Heb2:14-3:1/5:8-10/8:1-6/9:11-12)







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