Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「闇の支配」 ルカ22:53

・『闇の権威』

Lk22:53『今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である』

καθ’ ἡμέραν ὄντος μου μεθ’ ὑμῶν ἐν τῷ ἱερῷ οὐκ ἐξετείνατε τὰς χεῖρας ἐπ’ ἐμέ,

ἀλλ’ αὕτη ἐστὶν ὑμῶν ἡ ὥρα καὶ ἡ ἐξουσία τοῦ σκότους.

[ἐξουσία] エクソーシア fs 権威・主権 

なぜ主要な日本語訳は「支配」や「力を振るう」などと意訳するのか?

口語訳、新改訳、新共同訳、岩波委員・・

 

 

・Mr13:33-37 『 13:33 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
 13:35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
 13:36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
 13:37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。』

 

門番であれば、主の臨在に先立つ存在であるので、これは聖徒ばかりを指すわけではない。これは信仰者全体に対する下命であり、聖徒は聖霊降下後に、彼らには別の意味で警護しているべき契約がある。

エスは信仰者に向けて聖霊の奇跡でも起こったら腰を上げろとはけっして言い得ない。闇の権威の中から灯火を見ているべき理由がある。『暗闇の中で灯火は消えていない』とはそのような支えのためであると思われる。

 

終末に入る前に、必須とされる行動があるに違いなく、それはシオンに連なるものであるに違いない。

だが、そのように目覚めているような行動を起こすためには、それなりの信仰を要し、世の暗闇の中でも何事かに注目している状態にあるに違いない。殊にパスカはなおざりにすべきでないのは、婚礼からの主人を待つ他の例えと併せて考えるなら、その蓋然性は否定できるものではない。

行おうを思っても行えない者があり、行おうと思っても注意が不足する者あり、行っても要旨を誤解している者あり、「見張っている」というのは、パスカ一つ捉えるにもけっして易しくはない。ただパンさえ焼ければ良いと思っているなら、「儀式の罠」に陥るし、重大性を弁えていなければ何事も無益なままである。但し、弁えていても出来なかった者が居ることは理解されるべきではある。そこに不注意や慢心や安易な諦めが無いならばではあるが。このことを考えると集団で行うパスカも有意義ではあるし、パウロは集団で行うパスカに言及している。

 

・この世での平和は権力なくして有り得ない。

この世の実相は闇であり、平和は銃口から生じる。

本来、その平和とは真に平和ではない。

なぜ、戦争が無くならないかを問うのは実は愚かしい。