Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

聖霊のバプテスマの実相

バプテスマの意義は「悔い」にあり、次いでメシア信仰への表明にある。

キリストのバプテスマは「救い」を確約しない。

それは聖霊バプテスマであっても同じである以上、水のバプテスマに救いの確約なない。また、それは「献身」も意味しない。それは聖霊注がれた者がキリストと同じ道を全うするために『新しい契約』に入ることで献身とは言えるが、霊による崇拝奉仕は聖なる者だけが為し得るものである。

それでも彼らは地上の生涯で最終的に契約の仲介者キリストに裁かれる立場にある。したがって、契約にない者の場合は信仰の表明により、世の裁きにおいて神の側を支持したことの意志表明となる。それは終末の裁きまで依然として救いの確約を意味しない。

それでも水のバプテスマは、神と子と聖霊に対する信仰を表明し、それは世の反対に面しても揺るがず聖徒を支持することの決意表明となる。

 

 

ヨハネの浸礼の要旨は『悔い』にあった。

その悔いとは律法不履行についてのものであり、『罪』の自覚にあった。

それは律法時代の結論を意味した。

そのためヨハネが神殿から離れた荒野に現れた理由がある。

永く続いた律法体制の結果、イスラエルは誰も完徳に到達せず、メシアを求めるべき時期に来ていた。

したがって、ヨハネは律法契約の終点に位置し、『新しい契約』への導き手であった。

それを彼は端的に『聖霊と火とのバプテスマ』を施す人としてのメシアを予告した。

本来のイスラエルは、『肉のイスラエル』から『神のイスラエル』へと昇華されるべき民族であったが、その大前提として『律法による義』を断念するべき理由があった。

当時の宗教家らが『ヨハネバプテスマを受けていなかった』のは、彼らに対するヨハネの糾弾の言葉からすると、浸礼を拒否されていたと見るのが自然である。

それは彼らが『律法による義を追い求めた』その姿勢からしても、『悔い』に到達していたとは言い難い。

結果として、律法への姿勢によって彼らはメシアを屠る役割を果たす側となり、却って律法に無数のミシュナーを付け加え、また神殿祭司職に安住し、その意義を見過ごした。

『こうして古びてゆくものは、やがて消え去る』のであり、メシアの教えは『新しい皮袋』に収められるものとなってゆく。

四百年の沈黙を破って現れた律法体制最後の預言者であるヨハネは、律法の終焉を迎えるユダヤに対する警鐘を鳴らす役割があった。

 

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諸教会の誤解

 

1コリント15章36節で、蒔くこととは死ぬことである、ということが書かれていますが、44節では「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」と続きます。御霊に属するとは、言い換えるなら御霊に支配されている状態です。

シャローム教会

 

聖霊によるバプテスマをよく理解するためには、三つの事実を検討してみる必要があります。まず第一に、コリント人への手紙第一 12:13には、救われたもの全ては、聖霊によるバプテスマを受け、また同時に一つの聖霊を飲んだ(聖霊が信徒のなかに入って来る事)と書かれています。

第二に、聖書のどこを探しても、『信徒たちは、聖霊によるバプテスマを受けなさい』と勧めている箇所はありません。それなのに、「救われたものは全ては、聖霊によるバプテスマを受け」と書かれているという事は、聖霊によるバプテスマは、キリストを受け入れると同時に、神から与えられるものだと言う事ができます。

最後に、エペソ人への手紙4:5の「一つの霊」とは、聖霊によるバプテスマのことを話しているように解釈できます。もしそうであるのなら、「主は一つ、信仰は一つ」であると同様に、聖霊によるバプテスマは全ての信徒にとって事実だということです。

God Questions

 

リバイバル集会の説教者から「お若いの、あなたは聖霊によるバプテスマを受けましたかな?」と聞かれた。私は「はい」と答えた。「いつ聖霊バプテスマを受けたのですか」と続いて尋ねられたので、「キリストを救い主として受け入れた時です」と私は答えた。説教者は当惑したような表情で私を見ながら「そんなことはあるはずがない」と言った。

しかし、ずっと聖書を学んで来て、すべての信者の生涯には一回しか聖霊によるバプテスマはないこと、それは回心した瞬間に起ることを確信するようになった。

この聖霊によるバプテスマは、ペンテコステの日に初めて起こり、イエス・キリストを救い主として知るようになった人はみなその体験にあずかって、新生の瞬間に御霊によるバプテスマを受ける。

亀有教会(ビリー・グラハム

 

エスは、疑わずに、熱心に求め続けるなら、必ず与えられると教えられました。しかし、疑いがあると、求めることが出来ません。聖霊バプテスマ聖霊の満たしについて、疑いを抱いてはいないでしょうか。聖書は、聖霊に満たされるようにと命じています。ですから、疑わずに、熱心に聖霊バプテスマ聖霊の満たしを求めましょう。

湘南セントラルチャーチ

 

 

新約聖書中、使徒言行録以降に書かれる「救い」は、一つにはユダヤ人が負う律法不履行の罪からの救いである。

異邦諸国民にこの罪は無いが、律法がイスラエルを最たる例として、アダムからの罪を明かした以上、現在の虚無の生涯からの救いを必要としている。

この『二つの民』の双方から『新しい契約』に選ばれ召された者には奇跡の聖霊の注ぎが契約参入の証しとなり、彼らはもはやアダムの後裔としてではなく、『キリストの命を生きる』ので神の前に『義』と仮承認され、キリストの兄弟『共同相続人』となり『神の子』とされたことにより、「救われた」といえる。

しかし、契約は不定の物事について交わされるものであり、キリストが再三『離れ墜ちることのないよう』『狭い門を通って入るよう努めよ、入ろうとしながら入れない者は多い』と言われたように、最終的に『一人は連れてゆかれ、一人は残される』という厳粛な契約の履行の有無が問われることは無視できない。

そのうえ、諸教会は信者の皆が契約参与者であるかのように「救われている」とするばかりか「一度の救いは終生の救い」とするところに於いて二重の過ちを犯している。

それは信徒を「救いから」引き離すばかりであり、利己的性質を助長するものともなっている。これは軽い問題ではない。