Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

子羊と感謝 エウカリスティア

キリストの血が「罪」の贖いとなったという概念
これに反対する派は、(旧約的な意味での)「罪」の赦しは血ではなく、信仰や回心であるという。

この論議が起こるのはなぜか
どちらも部分ではないのか?


「諸王の王、主の主」という言葉の意味はどちらか?

キリストは「受肉者」とは言えない。マリアの胎内で育っているので一時的「受肉」ではなく、人そのものとして生まれている。そこで「受肉」とは別の、より高い意義ある言葉で表されるべきように思える。


H.Schürmann "Joh6,51,c Einschlüsel yurgrissen johanneishen Brotrede"binl Ytschr 2-1958 「Joh6:51はキリストの受難を指す」
J.Jeremias/Die Abendmahlsworte Jesu 1935 この部分は過越しに近い時期であったという(どちらに?)

血については「あなた方のために」か「多くの人々のために」かについてH.クルーゼはエレミアスに反論を加え、セム語法的にIsa53:12を援用するか否かでこれは解決しないという。



☆聖餐がエウカリスティア(感謝)と呼ばれる件

H.クルーゼの見解
「感謝」については、まずエウカリステインが本来のLXXには一度も現れないことを指摘する。
そのうえで、「祝福」アラム語「バーレーク」=eulogeinであってエウカリステインにはならないという。
セデル第三杯はバーレークとは呼ばれない。
そこで新約中でこれらの語はむしろ普通の食事の祈りについて度々述べられるものであるという。
ユダヤ人一般の祈りが「我らの神なるアードナーイ、この世の王が祝福されますように(Ossia[褒め称えられます]ように)」においてバーレークで始まる。
H.W.バイエルは「食事が祝されるのではなく、神を讃える辞である」としている。つまり、バーレークの対象は神であるという。
ミシュナー・トゼファタ・タルムードのベラホートには「食前の祈りなしには何も食してはならない」これはユダヤ教徒には厳重な戒め(戒律)とされている。
そこで、イエスの祈りが感謝の色彩の勝った神の救いを想起させるものであるという見解には何の根拠も残されない。

聖餐が感謝の祭りと見做された別の理由は、アナフォラ(奉献文)にあり、これはユスティヌスの2c中葉から存在していたという。
だが、H.クルーゼは「食事が祈りのためにあるのか、祈りが食事のためにあるのか」と問う。
救いのための感謝であれば、なぜにパンと葡萄酒なのか?
(エレミアスは、「キリストは身体と血とを分けて捧げた」という)
聖体を制定したときのキリストの意図を理解するためには、古代の典礼に見られる感謝の祈りからは何の結論も引き出されない。同様に、後世の教会に於いて一般的となったアナムネシス(想起)に関するギリシア風の理解からも何の結論も引き出されない。
古来の典礼に見られる聖体に関する理解には、人間の行為[Opus operantis]を前面に押し出す危険があった。それが危険というのは、イエスが制定した聖体の祭儀は第一に、また究極的に、神の賜物、神の業、[Opus operatum]であるからである。

エレミアスは、キリストの断食、断飲を(死の予告ではなく)自らを迫害する者らや不信仰なユダヤ人らのためにイエスが自ら引き受けた苦行であるとするが、クルーゼはこれを受け入れ難いとしている。
また、エレミアスは「多くの人々のため」を全人類に広げたが、それはキッテルの「新約聖書神学大辞典」への寄稿の中でも述べている。


注目点:キリストの血の範囲について異論が出ているが、そもそもその効力が何かがはっきりしていないように見える。
キリストのネティニムのような断食の表明にユダヤ人でもあるエレミアスの下した結論はやはり「承服し難い」ものであろう。だが、エレミアスはネティニムとの関連をどう見做したのか?
聖餐がなぜエウカリスティアと呼ばれてきたかについては、これは依然として見えない。それはディダケーもそうしているからであり、おそらくはユスティヌスよりもディダケーの方が古いのであろうから、余計に謎である。だが、それが感謝を意味するとしても、食事を聖別したのではなく、ベラホートが示すように食前に食事を感謝して神を讃えたというのが自然に思える。
そして、大半のキリスト教徒が食前に祈りをするのも、実はユダヤ教のタナイームに源を発していることが露見しているのが興味深い。この習慣をキリストも用いているが、それは食事の聖別ではなく、神への感謝か賞賛であったことになる。そういえば、食後に祈るのはあまり見かけないが修道院くらいか。だが、規則化すれば当然にキリストの警告した形骸化の影響を受けずには済まない。それは一種の禁欲になり兼ねず、犬の「お預け」のようなリーダー認識に似てしまう。これでは意味が無い。必ず行って自分の義を立てるより、本心から感謝したいと思う食事に祈るべきではないのか?また、セデルについては格別な感謝の理由をユダヤ人は持っている。
おそらくは、食前の祈りはユダヤ教の習慣として主のままキリスト教に移植され、問われることもなく、やがてふたつの宗教に分かれて敬虔さを競うようになって以降、キリスト教にも固定化されたのであろう。本来的には食前の祈りはキリスト教の縛りとはならない。
そうなると、ますます聖餐を感謝と呼ぶ理由が遠くなってゆく。逆に見ると、イエスは食前の祈りについてユダヤ人の習慣に従っていたことになる。それを律法は求めてはいない。
そうなると、聖餐を感謝と呼ぶのは、聖徒特有の何かを表しているのではないか?つまりユダヤ人がセデルに格別の感謝の理由があったように。というのも、信徒に感謝は相応しくなくとも、聖徒には仮のものとはいえ贖罪が行われていたからである。彼らの内定は贖罪の内定であり、聖餐が天界で成就するときに、彼らの贖罪も全きものに確定される。繰り返される聖餐がその予型であり、全き成就への期待の儀式とも言える。この観点からすると聖徒には感謝の理由があることになる。但し、聖餐が地上で行われている間は『新しい契約』は未完了で、その契約に預かる聖徒らにとっての聖餐の「感謝」は、契約履行への「戒め」を含むことになる。それが主の「記念」であってもやはりそうなる。
もうひとつ考えられるのは、キリストの犠牲というよりは、聖霊に対する感謝であったのかも知れない。






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