Notae ad Quartodecimani

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使徒2章42節とクラスマ

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 Act2:42.ησαν δε προσκαρτερουντες τη διδαχη των αποστολων και τη κοινωνια, τη κλασει του αρτου και ταις προσευχαις.

46.καθ ημεραν τε προσκαρτερουντες ομοθυμαδον εν τω ιερω, κλωντες τε κατ οικον αρτον, μετελαμβανον τροφης εν αγαλλιασει και αφελοτητι καρδιας,

ThayerLexiconによると動詞"κλάω"には「分け合う」また「交わり」の概念を含むらしい

Act2:46
そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、(口語訳)

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、(新改訳)

そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、(新共同訳)

また、日ごとに一致して神殿参りに熱心であり、家々ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、(岩波委員会)

『そして、心を合わせて神を(神殿で)崇拝する毎日を過ごし、家ごとにパンを分け合い、喜びと純粋な心のうちに食事に招き、』(試訳)

そして,思いを一つにして日々絶えず神殿におり,また個人の家々で食事をし,大いなる歓びと誠実な心とをもって食物を共にし,(新世界訳)

平素は、そう違和感のない新世界訳であるが、ここではどうもいただけない。
カトオイコンを例の分配とするなら此処でも用いるべきでは?(「家から家へと食事をし」!?)自派教理を擁護するための翻訳の手加減には本当に倦まされる。また「パンを裂いた」からとて、習慣的聖餐を証拠立てるまでに至っていない。新世界では日常陪餐を恐れてか「アルトン」(パン)まで入れ替えらている。こうした入れ替えこそ却って意図的との疑念の種を植えるようなものではないか?ここに大多数を占める主日陪餐とニサン14日晩餐の負けまいとする抗争が見えるかのようだ。他方、主要邦訳では恰も神道のように「宮参り」や「宮もうで」という言葉が非常に奇異に見える。何故に「神殿」の語を避けるか、もちろん、この句の本文は「神殿」[ναός]でなく「聖所」[ίερο]であるけれども、こんなところで日本語の「宮」と用いて当時の弟子らの崇拝がユダヤの神YHWHに向けられていたことを薄めようとの意図はないものだろうか?つまり三一説援護の目論見である。

更に「日常陪餐」の観点から見ても、この句の捉え方は随分と異なってくる。
まず第一に、キリスト教会側はこれらの「パン裂き」を聖餐に結びつけたいようだが、ギリシア語の上でこれらが無酵母(アゾーモス)のパンであるかどうかが確認できない。新約では「アゾーモス」は多くの場合、無酵母パンそのものでなしに、「無酵母パンの祭り」を指して用いられている。他に「酵母」そのもの(ゾーメー)が、清いものへの異物を表してはいるが、ギリシア語ではパンが無酵母であるか否かは問題にされていないために、聖餐に相応しいパンが、キリスト教会側の主張するような「パン裂き」に用いられたかは確認ができない。
もし日常的に聖餐を行っていたとして捉えると、神殿で崇拝した上に、家々では聖餐を行うという二重崇拝となる。それならエルサレムに逗留している人々が市内の人と食事を共にして生活していたことと、イエス派の崇拝が兼ねられるという複雑さをこの句に読むことになるだろう。果たしてそこまでの意味があるだろうか。しかも無酵母パンの祭りでもなく律法に熱心なユダヤ人たちが。聖餐はマッツォであり、この時期のユダヤ人はホメッツを食していたであろう。
酵母パンの祭りの期間でなくともマッツォを食することはできるが、空腹感の解消ではホメッツには随分劣る。逗留者をもてなそうとするときに態々マッツォを出してそのうえ儀式までをしただろうか。もし、これらユダヤ人の儀式として確立されたとなれば相当なことであり、ルカの几帳面な記述によりはっきりと残らなかったものだろうか。しかも、ここに主日陪餐は影も形もない。安息日であってさえ、その日だけはマッツォを食したと仮定するのも律法に違背しており、ユダヤ人の習慣からして不自然で殆ど有り得ない。やはり、この場面で日常陪餐を読み込むのはキリスト教徒の強引な妄想の押し付けというべきだろう。
キリスト教界は聖霊を失ったところから新たな儀式と教理をセットで必要としており、今日まで儀式に拘るのは、それ以外に今だ実質的なものが無いからなのだろう。この使徒言行録第二章に描かれる人々が、ナザレのイエスをメシア信仰の対象とはしたものの、依然としてユダヤ教徒であるという認識を持たない教会員が多過ぎる。ユダヤ教徒であれば、聖餐は過越しの延長であり、次の機会は翌年のニサンまでなかったに違いなく、それを後の異邦人がユダヤ教から決別すべく、またはユダヤ教を知らずに「主日礼拝」などと言い出したのが使徒時代の後であることを無視して、自分たちの伝統を強引に一世紀に持ち込んでいる。それでは聖書全体の理解など無理ではないか。


一方でκλασις;「クラシス」からκλασμα「クラスマ」「パンを裂くこと(秘蹟)」を造語したからといって初代から儀式化されたかは確定できないように思える。聖書中では誰もクラスマを行ったなどとは書いていないのだから。例えその言葉を根拠にできても、ヘブライ概念を捨てなければならなくなり、そうなると古代のキリスト教ユダヤ教の不仲のままに今日も論争するようなことになるだろう。それはパンを裂いて分け合う初代の愛ある姿とは程遠い。信徒にしてみれば、儀式化された「パン裂き」と友誼満ちる「愛餐」ではどちらに価値を見出しただろうか。
シリアのイグナティオスの書簡からみると、主日集会の勧告など、使徒パウロが聞けばどちらでもよいように思うであろうその発言にはすでに異邦人化が窺え、初代とは異なる概念を含む。例え、彼が「クラスマ」の語を用いたとしても、歴史の前後関係からすれば、日常的陪餐にも、小アジアの風習にも敷衍できないように思う。

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もうひとつの句
Act20:7
Εν δε τη μια των σαββατων συνηγμενων ημων κλασαι αρτον ο Παυλος διελεγετο αυτοις, μελλων εξιεναι τη επαυριον, παρετεινεν τε τον λογον μεχρι μεσονυκτιου.

週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。(口語訳)
この日曜日の「パンをさく」が主日の聖餐であったとする説もある。
では、その晩に再び「パンさいて食べ」るのは不自然ではないだろうか。(20:11)聖餐が続いていてエウテュコが落下したのではなく、一度食事は終わっていなければパウロが雄弁に話すことはないに違いない。9節では「話」が長くなっていることが述べられており、聖餐が深夜に及んではいない。蘇生が行われると再び彼らは「パンをさいて食べ」ている。この一連の流れでは「パン裂き」とは単に「食事を共にする」の意とされないと、彼らは一日に何度も偏執的に聖餐にこだわっているかのようになってしまう。しかも、初めの食事が日中で、夜の訪れによって日付が替っていたと設定するなら、主日ばかりか、その翌日もパンを割いていることになる。また、もうひとつの重要な要素である葡萄酒はどうなったのか?
仮に7節の食事がかなり遅い夜餐を指していたとしても、聖餐のような感謝(エウカリスティア)はそこに記載なく、それが重要な聖餐であったなら、それが描かれて然るべきではないか。そこには儀式然とした雰囲気は無く、ただ時間になって出かけているのである。
もし、「パンさき」が聖餐も愛餐も共に表すと云うのであれば、すべてをどちらとも看做せることになり、ますます日常聖餐の確たる証拠とはできなくなるだろう。
エスが晩餐を制定する以前、例えれば四千人に食事を与えた場面(マルコ8:4)では七つのパンを裂いて(動詞の原型は"κλάω")分けている。それは主の晩餐の場面(14:22)も同様となっている。ユダヤの聴衆にパンを配ったことと使徒らに自分の体としてパンを与えたときも同じく「パンを裂いて」おり、それは食事の分け与えであって、その行為そのものが聖餐独自の特殊な意味を持ったようには思えない。奇跡の給食の後で、イエスは『わたしの肉を食し、血を飲まないなら・・』と発言しており、給食を聖餐と関係付けるには明らかに無理がある。また、エマオに向かった二人もイエスがパンを裂いたことそのものにではなく「感謝した」言葉や裂き方で見分けたのであろう。文脈からして彼らは使徒ではなく主の晩餐を未だ経験していなかったようにもとれる。この点で言えば、そもそも最初の聖餐がイエスの公生涯にただ一度だけ、それも与ったのが使徒だけであったのは何故なのだろう。もちろんこれには大きな意義がある。日常的「パン裂き」がありがたい儀式だったのではない。聖餐の「パン裂き」にばかり拘る背景は、信徒の全員にそれを給するものとしたため、葡萄酒が憚られ、日曜礼拝の箔付けのために利用されたのであり、この儀式の捏造は、本来の聖餐が「主の晩餐」(キュリアコン・デイプノン)であったことの意義を知らず、それらが何を意味するかも知らずに行っていることを露呈しているのではないか。


使徒ヨハネに連なる多くの人々はその語「クラスマ」を用いなかっただろう。加えて小アジア側からみると、初期シリアの指導者には黙示録批難などの後の明らかなシリア性に連なる萌芽も見受けられただろう。この辺りは互いに忍耐していたようだ。
思うに今日主流を占めるグレコ=ローマン型キリスト教は何も無理をして初代に自らの根を求める必要も無いのではないか?そちらはヘレニズムからのものであり、今や堂々たる世界一の宗教であるし、ニカイアやカルケドンが基礎であることを公言している。対して小アジアキリスト教ヘブライ由来で、かつて消滅してしまったものである。

わざわざ、苦労して原初の過去に根拠を求めようとしなくても、第五世紀までに、ヘレニズム思想から新たな「キリスト教」労作していたわけであるし、その後、欧州各地の信仰対象も取り込んで普遍化という横への進展には大成功したわけであるから、そのうえ何を求め、また中世期よろしく少数派を迫害する必要があるのだろうか。いまさら原始キリスト教とは異なると聞いても、信徒は特に離れもしないだろう。

結論として日常的か年一度かという問題も、蓋然性を選んだ上で、どちらを信じたいのかという問題に落ち着かざるを得ないだろう。その点、問題は第二世紀からいくらも変わっていない。だが第二世紀の時点では双方とも自分だけが正しいとは押し通さなかった。ローマのウィクトルが言い掛けたがエイレナイオスの仲介で止めている。初代に近い人々は神の前に賢いものである。
秘蹟化への推進の背景には、キリスト自身がキリスト教をほとんど儀式宗教のようには制度化しなかったことがあるだろう。儀式を望むとなれば聖餐はまずその対象から逃れられない。それがバプテスマと共に数少ない儀礼であるから。あるいは、キリストがユダヤ教のような儀式と祭服の崇拝を残していてくれたらと儀式宗教を望む人々は思っただろうが、しばらくすればキリスト教ユダヤの神殿崇拝の次元の宗教となっていた。それは聖書に緻密に整合するような教訓的意義が薄れてゆくところではどうしても要請されることなのだろう。教訓的意義の最たるものは聖霊の教えであったろう。
聖霊が去り、教えが混濁するにつれ、教訓以外の何かが必要とされれば、そこで見た目のよい儀式は格好の民心掌握の材料であったに違いあるまい。人々が集まっても、聖霊によるプログラムが絶えてしまい、することが無いのでは司式する側がたいへんに困るのである。だからと言って晩餐を昼にしたり、儀式を大仰にイリュージョン化したり、一方で仔細な指示で縛って平信徒にまでプログラムを負わせるのも如何なものかとも思うが、そこが正解のない宗教の相貌なのだろう。各々そう願う人たちはそうすればよい。原点回帰を望む人たちもそうすればよい。しかし、パルーシアが起こって聖霊が帰ってくるなら皆が従わねばならぬ。それぞれに申し開きの必要はあることだろう。


結論として、聖餐のパンをマッツォとするならば、そのときに様々な異論は終息することになる。
第一に、それは年に一回の行事であるべきこと
第二に、使徒たちが「パンを裂いた」のは聖餐ではなく、愛餐を含む一般的食事であったこと

こうして、教会のミサの根幹を成す恒常的な聖体拝領は存立の余地を失うことになる。
その根拠にはこじつけが避けられず、真相はローマ国教化で大衆信者を抱えるようになった「カトリック」教会側の権威の箔付けとして聖餐が濫用されるようになった後に、「クラスマ」を造語して辻褄を合わせたということのように見える。主にカトリックが用いるホスチアはマッツォとは言い難い。まして酵母を入れたパンを用いる「礼拝」に何の価値が残っているのだろう。

⇒ ディダケーの記載
quartodecimani.hatenablog.com


カトリックは聖書に儀式を探し求め、プロテスタントは規則を捜し回る。どちらも自分のために





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