Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

福祉国家

"福祉国家はしばしば現代の国家のとるべき理想的な姿として語られる。しかし、理想としての福祉国家と現実の福祉国家とは明確に区別されねばならない。社会権あるいは生存権の完全な保障をめざす国家という意味では、福祉国家は一個の理想であり、それはあらゆる国家がめざすべき普遍的な目標だといえよう。しかし、現実に存在する福祉国家は、こうした意味で福祉国家であるのではない。それは、社会の統合を図る必要上、個々人の個別的福祉を考慮せざるを得なくなったという意味で福祉国家なのである。"(阿部齋)


福祉国家はつねに「隷従への道」+を歩む危険が伴っている。それは自由主義原理崩壊の危機である。(+F.Hayek)

"人々はなぜか経済的に完全な平等を望んでいないことを示す"(ダスグプタ)⇒ここにメソポタミアの都市革命のメリットを望んだ古代の人々の欲求を見るような気がする。世界中の人に経済的平等を実施すれば、軍備などを放棄しないかぎり(しても)全体がかなり貧しい生活に投げ込まれることになるようだ。そこでは殆どが小規模農民化し、商業産業はもちろん科学も技術も進歩を止めてしまうのではないか。アダム=スミス的欲望の誘因が無いと現状の人間倫理ではその平等によってあらゆる進歩が止まってしまうのだろう。しかし、現今の気候変動を考えると自存農業は危うい。加えて、アダム=スミスの言う、生産人口の増加が全体の財を増やし、それが社会を安定させる、という見方は今日から見るとやや的外れである。なぜならイノヴェーション※による飛躍的生産拡大や、その基盤となる教育の重要性は言うに及ばない。但し、養老院や長期入院施設などが社会比重を増すときには財の享受者は増えても、生産者が減る危険はあり、今日の先進国が直面している問題である。(※イノヴェーションは常に社会や経済に資するものとは限らないが)


自由と平等は真っ向から対立する二項である。

労働、失業、住宅、厚生、貧困などの問題が国家の手に委ねられると考えられるようになったのは19世紀末からだが、これらの問題は産業革命初期の方が遥かに窅害であったが、それらは私的領域で自主的に処理され、労働問題は労使間で、貧困などは慈善事業の守備範囲であった。これらの問題が政治的意味を持ち始めたのは、これらの問題を巡る対立が社会の秩序や安定に重大な影響を与え始めたからである。つまり大規模な抗議行動の顕在化である。
20世紀に入ると社会の大規模化と複雑化が進み、市民社会の前提であった個人の予測性と自律性を著しく後退させた。特に普通選挙の実施により、市民に代わり大衆が登場することで、自己責任の原則も後退した。個人はもはや失敗の責任を全面的に負うことに耐えられず、そこに世界大戦や大恐慌が到来し、各自は個別的な福祉の実現の多くを政治に期待せざるを得なくなっていった。国家はこれらの個人的期待に応えるよう努めるほかなくなった。そうしなければ政権を維持できなくなるので、あらゆる現代国家は政治体制の相違に関わらず福祉国家へと移行する必然を孕むようになった。


所見:こうしてみると19世紀末から20世紀にかけて世界的激変があったように思う。政治の世界に大衆が積極的要素となって登場してきた。しかし、フランスで始まったような共和政のもつ特徴がそのまま各国に伝播したとは言えない。それは米国のような国家でもそのようである。もちろん日本は言うに及ばず。しかし、世界は大衆を無視できなくなってきたので緩やかにでも福祉国家の方向にむかっている。しかし、大衆は常に受け身であり、主役になることはないように思う。つまり、苦情を述べる側の安直さがそこにあるのだろう。大衆が為政者と変じることはなく、精々幾らかの人々が政治に参加するようになるだけである。そして政治家になった途端に大衆の攻撃目標となる。そこではもはや大衆の代表を名乗ることもできない。大衆と行政は常に分かたれた状態にあらねば、双方とも存在しないのだろう。大衆も行政も対立しながら平衡を保ってゆかねばならず、大衆が強くなり過ぎれば国家は崩壊してしまう。大衆が福祉に安堵するときは国家の破産するときなのだろう。これは「この世」の抱えた解決不能パラドックスなのだろう。

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「ドイチュ・イデオロギー」について
「人が争うのは、共に欲する財が希少であるから」と規定する根底には「他者への無関心」また「利己心」を前提にしている。それであるから、「文化・人種・宗教にもとづいた争いはあり得るが, もし争いの経済的理由が消滅していれば, これらを理由とする争いも収束する。 ゆえに, 階級なき社会主義社会の建設のカギは財の増加」と言い切るとすれば、人間を闘争本能の獣と常に同列に見做すことにならないだろうか?なぜなら、ミクロ視すると、必ずしもそうならない。その公式が殆ど常に当てはまるのは個人の力を越えた企業や国家のように思う。しかも、人間はタチの悪いことに、他者よりも多く所有したがるという傾向もあるではないか。それでも、こうした前提から理論を出発させているのなら、共産主義社会主義も結果的にマルクスの言うような「人間性の解放」とは程遠いのではないだろうか? その主張は財の希少さに人間の欲求と闘争心を単純化するところで人を野獣化しつつ、他方で、より多くを欲する性質を考慮していない点では人間性を甘く見ており、このように中途半端な人間観を基盤にしているのであるから、その上にどんな統計を駆使しようとどれほど意味があるのだろう。
思うに、経済とは科学を応用する以前に倫理問題ではないのだろうか?

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福祉国家に関連して
千年王国」とは福祉国家だろうか?
もちろん社会用語としてのそれでは無い。だが、「千年王国」をどう見做すかで、福祉を目的とするのか、それとも神の経綸を目的とするのかで、その主役は明らかに異なってくる。
もし、「千年王国」を福祉目的で見做すとすれば、それは神の意図からは大きく外れる、いや正反対となるのだろう。そこに欠如しているものは神中心のヴィジョンであり、神たるもの、また万物万象の創造者への謙る想いであろう。
万一、「人間の国家は真の福祉を行い得ない」とし「そこで千年王国は」とでも発言した途端に、その発言者は人間中心の思考に陥らないよう充分に気を付けなければならなくなる。しかも「真の福祉」という言葉は相当な語弊を孕んでおり、「最低限の福祉」また生活の安定性と言い換えるべきのように思える。なぜなら、人が真に充足するか否かは、決定的な身体の状態を除けば必ずしも生活条件を意味しない主観的なものであり、外的なものとは限らない。それを取り違えるなら、「いい生活がしたい」と言っているだけのことになってしまうだろう。そこに精神性が置き忘れられ、結局は「千年王国」を希求する人々さえもが福祉国家を望む大衆の思考と何ら変わらないことになってしまう。

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Doing思考とbeing価値も二項対立


産業精神は人間の行為による生産性を評価する
一方で社会に有用であるなしに関わらず、存在していることに価値を見出す必要も人間にはある。
ホイジンンガーによれば、産業社会は勤勉さを評価するあまり、「遊び」の機能を忘れてしまったという。p87
彼は18世紀末について『労働と生産が時代の理想となり、やがて偶像となっていった』ともいう。
シューマッハは『働くことが働く者にどんな影響を与えるかは殆ど問題にされていない』働く者の尊厳と創造性と自己完成が必要であり、人間は生産のための単なるシステムの奉仕する道具ではない。

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「従順」と「信仰」は正反対なほどに異なる

「従順」は律法の墨守に至らせ、その関心は神に向いているようでいて、自分の救いに向けられる。
「信仰」は自分を差し置いたもので、その関心は神に向かっている。
人を救うのは従順ではなく、明らかに信仰である。
従順は「恐れ」に発し隷属的だが、信仰は「驚き」に発し自由な自発によって起こされる。
宗教者の「従順」は自己保全を目的とするが、「信仰」は目的を持たずに不作為の純然たる賛美に至る。
「従順」は利己心を動機とするかも知れないが、純粋な「信仰」には動機らしいものが無く、ただ価値観が懐かせるものである。
故に、「信仰」は「価値観」と関係があり、信仰を懐かせる価値観に本来、不純な利己心の入る隙はない。

「従順」の業と「信仰」の業が例え同じように外面は見えても、内面の動機ではまったく異なったものである。神はそこを判別されるのであろう。

また、盗むな、殺すな、親を敬えと言われて「従順」のゆえに行うのと、「愛」のゆえに行うとでは、外見や結果はあまり変わらないとしても、動機が異なるので意味がまるで異なってしまう。

「従順」とは宗教家たちが強調し、信仰者に大いに求め勧めるものでありながら、実は利己心という、神の意図するところから反対に向かわせ、ユダヤ教に退行させるものとなり兼ねない。
また、そこでは宗教家という使役者の貪欲が透けて見える。

圧制的宗教の下では「信仰」は溶け去り「従順」だけが残っている。もちろん、その崇拝は無益というほかない。そこでは神に関わる驚くべきことが枯渇している。
何事にせよ、愛や信仰から行われるのでなければ、その人の言動はキリスト教としては意味を持たない。




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