Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ディダケーに表れる聖餐の意義

◆ディダケー[Διδαχή]では聖餐と愛餐が区別されている

ディダケー9:1- 聖餐
同    14:1- 愛餐


殊に9:4
「このパンが山々の上に撒き散らされていたのが集められてひとつになるように、あなたのエクレシアが地の果てからあなたの王国へと集められますように、栄光と威力とはイエスース・クリストスによって永遠にあなたのものだからです」。
これはこの時期のキリスト教徒に「聖徒理解」が残っていたことを証ししていると言える。

聖餐の無酵母「パン」が集め出されるべき「アブラハムの裔」であることが了解されている。これはヨハネ福音書11:52にも、キリストの死と関連付けられている。彼らがパンを通してクリストの体に連なるので、「撒き散らされた」とは各地から聖霊が注がれる信徒が現れているが、それがクリストの体を構成し、最終的に「神の王国」で一体となることを「パンがひとつになる」と表現している。(1Cor10:17)散らされた「山々」とは諸国家を表すのだろうか。
そして、クリストは「神の栄光また力」とは創造者の神性が証しされ、「奥義」が推進されたことを云うのであろう。ならば、当然ながら、この時点での三位一体の存在を主張することは増々無理となる。


次いで文章がかなり離れた14章からは「愛餐」について
「キュリアケー・ヘメーラの度に集まって、あなたがたの捧げものが清くあるように、まず、あなたがたの罪を告白した上で、パンを裂き、感謝(エウカリスティア)を捧げなさい。その友人と争っている者は和解するまでは、あなたがたと一緒に集まってはならない・・」
ユダヤ安息日の翌日に集まりを持つ習慣が確認される。しかし、ここでは「パンを裂く」ことが所謂「クラスマ」なのではなく、持てる者が持てない者に食事を提供する「アガペー」(愛餐)であったのであり、そうでなければ、聖餐について述べた第九章のところで続けて語られるはずであったろう。また、「愛餐」であるがゆえに争いある者の排除が示されており、これは上記「捧げものが清くあるように」とMt5:23-の諭告の適応を見る。つまり、神殿への供物が愛餐の提供物に敷衍されているのである。確かに闘争心ある者と会食などしたくはないものだ。

これは以前に書いたAct2:46についての観点を補強するものとなる。参照⇒http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20140704/1404477288

また、聖餐に先立って愛餐が採られた可能性も指摘されている。それは聖餐の時期に浸礼を施していたことと無関係ではないようだ。つまり、1Cor11:33の勧告に従いつつ、それに浸礼前後いずれかの記念のような愛餐が加わったようにも想像される。(浸礼の前には罪の告白と断食が行われていたであろう)
これが、後の聖餐と愛餐の混乱につながったと観ることは的外れではないように思える。
そこでかなり強力な推進力となったのが、聖餐の日付をユダヤと同じくしないための「主日聖餐」であり、これが更に進んで、日曜日毎の「聖餐式」と堕し、すべての信徒が与るものとされたためにブドウ酒が水(アクアリィ)やジュースに替えられたり、一種陪餐に変じたりした状況がそこに見えている。


◆ディダケーにはユダヤ教の祈りの要素が残っている。
しかしディダケーとミシュナーとを比較すると
ミシュナーの食事の祈りが出エジプトを述べ、それを中心的主題にしているのは当然ながら、ディダケーでの聖餐の祈りについては、そこに経綸に関わる「聖徒」の認識を残していることが大きく重要な違いとなっている。以下ディダケー10:3〜
『3 「全能の神よ。あなたはあなたの名のゆえに万物をお造りになられました。また人々があなたに感謝を捧げるように、彼らの飲食のために食物と飲み物とをお与えになられました。
他方、わたしたちには、霊的な食物と飲み物と永遠の命とを、あなたの僕イエスを通して賜りました。
4 あらゆること先立って、わたしたちはあなたが力強い方であられることを感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。
5 主よ、あなたのエクレシアを覚え、それをすべての悪から解放し、あなたの愛によって完全なものとしてください。また聖なるものとして、四方からあなたが準備されたあなたの王国へと導き集めてください。威力と栄光とは永遠にあなたに属するからです。
6 恵みが到来しますように。この世が過ぎ去りますように。ダヴィデの神にホザンナ。
聖なる者は来るように、そうでない者は悔い改めなさい。マラナスァ。アーメン。」
7 預言者の欲するだけ感謝を捧げるように』

この祈りの定型には、原始キリスト教の認識に相応しく、聖餐のエレメントに預る者らが、各地から集め出され最終的に神の王国へと導かれること。また一般の人々と異なるのが単なる信徒ではなく「聖徒」であることも含まれている。ここでの「エウカリスティア」は明らかに愛餐を意味しておらず、創造の業によって一般の人々に食物が神かた供されたことを述べている。一方、聖餐に預る者らの立場は契約による仮承認であることが「聖なるものと」されること、また「完全なもの」とされる願いの言葉に表れている。更に世の終末を願っており、これらが聖餐に関わることを伝えている。これはミシュナーが出エジプトに焦点を合わせることの対型であり、画期的な次元の高まりといえよう。
それは初代キリスト教徒の教えの中心がどこにあったかを証ししている。つまり、「神の王国」が聖餐に預る聖なる者らによって構成されること、また彼らが各地に散っているが、「四方の風」によって〈Mt24:31〉(アブラハムの裔として)集められること、また、終末待望は「千年期説」との関連を要請している。ここでは「預言者」が依然として存在しており、聖霊降下が継続していたと見ることができ、それは識者らがこの書の由来を第一世紀後半から第二世紀頃と認識していることにも符合する。それであるから、預言者の枯渇を嘆く「イザヤの昇天」などよりも内容からしても古い。

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ニコメディアの府主教フィロスェオス・ブリェンニオス(Philotheos Bryennios 1833 - 1914 or 1918)はディダケー(1873)だけでなくクレメンスのコリント人への第一と第二の書簡、バルナバの手紙も発見している。
ディダケーについては1900年にヨーゼフ・シューリヒトによってラテン語版の最初の五章が追発見されたことにより西欧にも伝播していたことが知られ、ディダケーの存在意義は補強された。
しかし、これほど古いものがどうして残れたものか。また、エウセビオスが言及していながら(HEⅢ25.4)近世に発見されるまでの諸世紀が沈黙していたのはなぜか。(おそらくは、このように原始的キリスト教を受け入れる余地が中世に無かったのでは。もし見つかっても、オリゲネスの著作のように処分され、闇から闇へと葬られていたのかも知れないし、抄本も許されなかったと思われる。ではブリュンニオスの発見した写本の凡その年代は?またシューリヒトの見つけたラテン語版の年代は?)ディダケーそのものは使徒生存時期のものとされ、初期福音書並みに古いとされている。その理由の一つには、新約聖書成立以前の必要をまかなったと見做されるところがある。実際、第二世紀には『預言者ら』がシリアから激減し消滅したことが外典の「イザヤの昇天」に書かれており、預言者がエクレシアに顕著な存在であることを記すディダケーはそれ以前の著作であることを示している。

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Mk14:1[πάσχα καὶ τὰ ἄζυμα ]「無酵母のパスカ」
「罪」の無いキリストの身体を食し、それを共にすること。
食する者の清さは、生活の清さであるよりは、もとより「酵母」が存在しない状態にある。⇒Rm8:1
それは神のイスラエルに永遠の命を授けるもので、荒野に在る間にマナを食したことが予表された。それは聖徒を天上で生かし続ける所以であり、これを可能にしたのが「新しい契約」による先立った義認であろう。
葡萄の産物(天界の食事?)

W.Marxsenは聖餐と顕現会食の違いを「客体」から「主体」に変化しているという。聖餐は「食事の後」であったことが明記されて、イエスは与える側でいるが、顕現会食は共に食事することであった。
それに加え、キリストの禁飲は客体としてのそれが、天に王国が揃う日、あるいは十二人の揃う日まで続くという意味ではないか。なぜなら、キリストは聖餐に与ってはいなかったのだから。確かに葡萄酒は飲まないとしたが、魚は食し、おそらくパンも裂いて会食した。Lk24:42(これは増々聖餐と愛餐を分けるべき理由になる)Lk24:30/Jh21:13は、キリストの帰天前であるため聖霊が未降下である上、十二人でない者に何の説明もなくパンを裂いたのであるから、けっして聖餐とは言えない。それぞれの場面で葡萄酒の存在は確認できないが、まず有ったにせよ飲まなかったに違いない。もちろん弟子らに葡萄酒が進められた場面は無い。Mt27:34/27:48-
また、使徒言行録の『週のはじめの日』にパンを分配した場面の時期を精密に追うと、無酵母パンの時期を過ぎているので、そこで食されたのはホメッツ(酵母パン)と言えるし、やはり葡萄酒が出て来ない。これはパウロの一行のトロアスからの出立に備える食事という以上にはならない。彼らはパウロに二度と会えなくなることを予期してもいた(釈放後に会えたかも知れないが)。そこで愛餐としての『パン裂き』に意味が出て来る。それは無酵母パンの時期が終わってもエルサレムに留まったディアスポラの同朋との会食と同じような意味になる。
何が何でも「パン裂き」はクラスマで聖餐だということになると非常に滑稽に思える。少なくとも葡萄酒はどこへ行ったのか? それでカトリックのホスチアのみの一種陪餐は都合がよかったか?
「わたしの記念として行い続けよ」の「記念」(アナムネーシス)はヘレニズム社会の用語では、死者を記念する会食儀礼に用いられていたという。これはエレミアスのユダヤ的視点も同様で旧約外典の遺言文章に見られる死者記念の定型に関連付け、それはイエスの時代まで遡り得るという。p387

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他方、実体変化については、これはアニミズムに近いように思える。
第一に実体変化がヘブライのものでないことは「血の禁令」と衝突することからも明らかで、AD49の使徒会議の議決にも抵触しているではないか?使徒が実際のイエスの血を飲んだということはまったく考えられないことで、この教理の意図はユダヤ教との分断にあったのでは?

また「これは私の○○である」と語った第一回の聖餐のときに、そこにイエスが居た以上、そのときに実体変化の奇跡の必要は無かったに違いない。また、「血が注ぎだされる」とは明らかにイエスの来るべき死を示していることは疑いようがなく、パウロも主が「主の死をふれ告げる」のが聖餐の目的であることを述べている。「死」ということは「生」の反対であり、聖餐で死んだキリストの体や血が再現するというのは大きな矛盾であり、聖餐意義の論理の欠落した迷信としか言いようが無い。これは聖霊がまったく去った第五世紀辺りまでに神秘主義に舵を切ったキリスト教界の在り様を今に伝えているのであろう。聖餐は儀礼ではあっても秘跡ではないし、アムブロシウスが秘跡とミュステーリオンを混同した時代に、この誤謬の発端は見えている。

マルコでは「皆、そこから飲んだ」マタイ「皆、そこから飲め」
マルコ「多くの人のため」マタイ「罪の赦しとなるように」
マタイが贖罪の血を教唆しユダヤ人を対象にしていると云うなら、聖体変化は「血を飲む」という古来のタブーを破るように勧めていたことになる。
「血の禁令を超える主の晩餐」
むしろ、「虹の契約」以来「血の禁令」の終点が聖徒たちを出現させる「新しい契約」にあったのではないか?それが実際の飲血の許可でなかったことはエルサレム会議の議決が示しているのであろう。ユダヤ人の習慣や良心からしてそれは許しがたい行為であったに違いなく、それがこの議決に表れている。従ってヤコヴの裁定は実体変化の教理をまったく封じてしまうものである。
血の魂は神に属するものであり、それを「飲め」と命じられたのは聖徒だけであった。神に属する魂を彼らは飲んで、キリストの肉を食した。これは、犠牲にされた羊の魂も肉も取り入れるという神に属する権限内の事柄に与ったということになる。これは人間に許されて来なかったもので、聖徒はその人間の境界を出て神の領域に入ったと見ることができる。

加えて、キリスト教界が大いに見落としている点が二つある。
第一には、十二使徒との天界での二度目の会食が約されていることであり、そこで特別な彼らとの『契約』が語られている。それによれば、十二使徒はキリストと共に『イスラエル12部族』の選定に関わる。その理由は十二使徒が一人を除いてキリストの試練を共に耐え、後に聖霊注がれる聖徒らに勝った立場に就いたところにある。そのため、『天の王国』の構成員である『神のイスラエル』を吟味する機会と天界の二度目の聖餐が関わっている。

第二は、地上での聖餐である『主の晩餐』はユダヤの過越しの時期との関連性を持ち、無酵母パンの時期に合わせて年一度行われるべきものであり、これはエフェソスのポリュクラテースの証言が伝えられている。そこでユダヤ教徒がニサン15日にセデルをとるように、キリスト教徒はニサン14日を守るべき理由がある。その一日の差によりメシアは出エジプトに相当する晩に屠られたことになり『神の子羊』としての祭司の創出の対型であることを表している。したがって、地上で聖餐が行われている間は『天の王国』は到来していない。それについてパウロは『彼が到来する時にまで及ぶ』と教える通りでもある。
したがって、定期儀礼としての聖餐は西暦34年ニサン14日から行われたことになり、その間に聖霊を注がれた者らが現れているが、キリストの最後の晩餐の席はそうではなかった。


・ユスティノスの第一護教論の主日の集まりに関する記述LXVⅡからすると、既に140年代に愛餐と聖餐の区別がつかなくなっているように見える。朗読→説教→必要事への祈り→平和の接吻→愛餐クラシス(聖餐)→寄付

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聖変化の諸説

エレメントが本当にキリストの体や血となるかどうかと議論しては来たが、それになぜ預かるか、それぞれの意義は何かとなると表層的な論議に終始する。つまり、キリストと一体化すること、信徒仲間の絆の確認、預かる者の罪の赦し、等々

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共在説は、聖餐におけるパンとぶどう酒の聖別で、カトリックの教理で定める聖変化(transsubstantiatio:実体の変化)を認める説に対して、パンとぶどう酒の実体は変わらず、パンとぶどう酒の実体と共にキリストの体と血の実体が共に現存するという説。マルティン・ルターによって提唱された。


象徴説はカトリック教理の聖変化の説およびルターの共在説に対して、改革派教会のツヴィングリが提唱した説。聖餐論において、陪餐のパンとぶどう酒はキリストの体および血ではなく、ただの象徴であるとする。ジャン・カルヴァンはこれと異なる臨在説である。


正教会では、聖体血の扱い方に関する取り決めはある。管見の範囲で言えば、聖体血のかけらが落ちた場合には、手で拾わずに口で直接に聖体血を拾う。
絨緞に聖体血をこぼした場合には、誤って踏んでしまわない為にこぼした箇所を切り抜いて焼いてしまう。

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所見:諸説芬々であるところからして、どれも「実体」は無いようだ。諸宗派の巨頭がまじめに取り組むようなことだろうか。既に四世紀からおかしくなってしまっているものがいよいよ本格的に滑稽さを増してゆく。
「無酵母パンから生じるエクレシア」

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・「イースター歓喜の告知」という概念
ここに「主の晩餐」への誤謬の極みをみる。
主の晩餐が受難に先立っていたにも関わらず、厳粛な死から復活の喜びに置き換えられてしまっている。
もし、「主の晩餐」が、このように目出度い祝いであれば、なぜにキリスト復活後の給食の場面で行われなかったか? パウロは明確に主の死の前の晩と聖餐を結び付けている(コリント第一11:23)
主の晩餐は主の犠牲の死を記念するものであることは、その死の前の晩に行われたところに表れており、その情景の特質は荘重さであって歓喜ではなかった。それが主の死を記念するものであることはパウロが明言しており、「イースター歓喜の告知」が「主の晩餐」の精神とは正反対のものであるばかりか、「イースター」という異教由来の語も、「死」と「復活」というまるで異なる記念の対象もまったく矛盾するものでしかない。「主の晩餐」を「イースター」とも「復活」とも「歓喜」とも結びつけるあらゆる教会の習慣はキリストの死の究極的価値も犠牲の死こそが成し遂げた崇高な目的も理解していないことを露呈するものであり、異教を取り入れてもいてまったく背教的であるとしか言いようが無い。
これがカルケドン派、またグレコ=ローマン型キリスト教、つまり大半のキリスト教の癒し難い病根である。


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「今年はここに居る。来るべき年にはイスラエルの地に居るように、今年は奴隷だが、来るべき年には自由であるように」(ユダヤのペサハでの慣用句)これは西暦七十年以降、秋のロシュ・ハシャナの制定以前の意味を伝えてはいないか?

ミヤーム・ノライーム[ימים נוראים‎]
モーセが二回目の石版を得た40日に相当(エルル1日からティシュレイ10日?)19世紀のドイツ系ラビIsmar Elbogenは、これが中世以降のものであると断言。(ヨムキプルへの演出)
ヨムキプルに先立つティシュレイ1日は「裁きの日」とされ、エルル2日から朝の勤めの後にショファールが毎日吹かれるようになる。それは安息日を除いて毎朝行われ、ティシュレイの二日前まで行われる。この間に民は「スリホット」[סליחות‎]と呼ばれる祈りを行い赦しを願う。この28日間は「畏れの日々」となる。その間十日の断食を行う者もいるが、ティシュレイの四日前からは断食は禁じられる。スリホットは通常真夜中と夜明けに詠唱が行われる。
アクロスティック典礼詩文「ピユット」[פּיּוּטִ](神殿時代まで遡るらしくヘブライ語アラム語が存在、カイロ・ゲニザからも発見)これは「シェマ」の後に(スリホットの期間?)毎晩歌われ、短長長長のリズムを持っている。(この件でエリエゼル・ベン・キッリル[6-7c詩人]が知られる)

「神の13の慈悲」[שָׁלוֹשׁ עֶשְׂרֵה מִידוֹת הרַחֲמִים](出埃34:6-7由来)タルムード及びラビ文学に由来、しかし、マイモニデスはこれを神の資質として同意せず。


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Auxentius of Durostorum
アレクサンドレイアのデイアコノス、メルクリウスの別名あり、また、ウルフィラスの養子とも
メディオラヌムのエピスコポスAuxentiusの擁護者


Durostorum:ドナウ河畔のモエシアの重要軍事拠点(現ブルガリアのSilistra)









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