Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アムブロジウス人物補足メモ

生年は340年頃とされる。<父アウレリウスの死とローマ留学の時期からするとその三年以上前と思われる>
没年は397年4月4日

彼の伝記作家にパウリヌスが居るが、その内容は疑わしいところが多いという。

父が亡くなると彼は母と兄(Satyrus)と共に、姉(Marcellina)の居るローマに向かう。それはリベリウスがエピスコポスであった353年以前のいつかの聖誕祭の時期であった。

ローマで法学の勉学にいそしみ、それは彼を大成させ、地方長官プロブスによってエミリアとリグリアの知事に任命を受ける。その際、プロブスは彼に「裁判官としてというよりは司教のようにして赴任せよ」との言葉を彼にかけた。それはその後の彼の助けともなり、彼は民から裁く者よりは父のように慕われた。(?)
その後、368年に東方シルミウム(現スレムスカ)の長官を拝命し、メディオラヌム着任は370年

メディオラヌム着任の五年目374年、メディオラヌムのエピスコポスであったAuxentiusが亡くなった。彼はカッパドキア出身でグレゴリウスから按手されていた。
355年にメディオラヌムのシノッドでディオニュシオスは追放となり、その後を託されていた。しかし、彼はラテン語ができなかったので、ポエティアのヒラリウスが彼をその職から追い落とそうと画策したが成功を見なかった。しかし、ローマは369に彼に破門を申し渡したが、その地位をなお保っていた。

双方の論議調停の最中に子供が「エピスコポスアムブロジウス」と叫んだという。そこで喝采をもって賛同された。
しかし、彼は皇帝ヴァレンティアヌス(364-西帝)の裁可を得てからでなければ受諾できないとしていたが、その八日後にはエピスコポスとなっていた。


⇒ アムブロジウスの暗躍

ドロストルムのアウクセンティウスは386年にアムブロジウスを西方法廷に訴え、メディオラヌムの主要なバジリカを一位論教徒が使うよう求めた。

"When in Rome, do as the Romans do."

⇒ ヒラリウス人物メモ

彼はヘブライ書をパウロのものとしている(第五講話:1)これは東方の観方の反映か?
聖餐の杯が水で薄められることを、キリストの脇腹から出た血と水になぞらえる。贖いと洗い清めであると(第五講話:1)
実際はEpf5:18の引用から知れるように酔酒の防止であろう(第五講話:3)(詩編番号がひとつ足りないLXX)


×「神はキリストだけを生んだのであって、我々は創造したのであるから、神はただキリストの特別の父であって、我々にとっては共同の父である。あなたも神の子であるために、恩恵によって、「我らの父よ」と言いなさい」
×「天とは罪がなくなったところである。天とは、罪悪がもはや働かないところである。天とは死の傷がまったくない処である。」
×「『御名が聖とされますように』とは、彼(神)の聖性が我々の下にくることができるために、かれが我々のうちに聖とされるようにと、願うことである。」「それなのにあなた方は『御国が来ますように』とあたかもまだ来ていないかのように言う。しかし神の国は、あなたがたが恩恵を受けたときにやってきた。それでキリストも『神の国はあなたがたの中にある』と言われた。」
×「『我らに日毎のパンをお与えください』はエピウーズィオスと呼ばれるがラテン語では「日毎のパン」と訳している。・・もし毎日のパンであるなら、東方のギリシア人がしているようにそれを受けるのに一年も待つのだろうか。毎日利益をもたらすものを毎日受けなさい。・・もしあなたがたが毎日受けるなら、毎日はあなたにとって今日である。もしキリストがあなたにとって今日であらせられるなら、キリストはあなたのために毎日復活される。なぜなら『あなたはわたしの子だ。きょうわたしはあなたを生んだ』と書いてあるからである。」(秘跡に関する講話第五:4)

エスが言われた「表している」'επιούσιον を当時の西方では「日毎の」と訳した、という。その理由は「今日」を'επιουσα ημεραというからであるというが、これは英語のPresenceではないのか? そうなるとこれは的外れで強引な訳ではないか。
そうしてイエスを「表した」パンは「日毎の」パンとなってしまった。そのあとに彼は「生きるための糧」などと理屈をつけているが、パウロも「わたされる前の晩」と言っており、公生涯中一度だけであった行事を毎日に置き換えることで、その観念は主の死から自分の益へと置き換えてしまった。(第五講話:3)



アムブロジウスは洗礼が再生であると言い、復活であると言う。
それをヨハネ3章のもの、根拠をAct13:33においている。もちろん、そこに聖徒理解は無い。
ミラノ典礼には受洗後の洗足式があったが、ローマはこの習慣を持たなかったので、彼はこの件でローマを批難している。(第三講話:1)



・5世紀以来の内容が編纂されてきた「アクタ・サンクトルム」[Acta Sanctorum 16c-]の中のセバスティアヌスの殉教を記載した部分はアムブロジウスの作品つまりは創作であると17世紀の聖人伝作者ヨハンネス・ボランドゥス[hagiographer Jean Bolland。17c]によっていまだいわれているという。アムブロジウス自身は、聖セバスティアヌスは当時その地で既に崇敬されていたと主張している。
聖セバスティアヌスはガリア・ナルボネンシスの出身で、メディオラヌムで教育を受けた後、ディオクレティアヌスとマクシミアヌス配下の親衛隊の長に任命されていたが、その間にキリスト教に帰依したらしい。従って第三世紀の後半に生きた人物となり、殉教は288年頃とされている。

所見:当時のローマの衰退と合わせて考えても、アムブロジウスはローマに対するメディオラヌムの優位を建てようとしていたかのようにあちこち見えてくる。
ギリシア神話に創世記の痕跡を見るように、聖人伝には奇跡を行う人々を見るが、脚色が進んでいたことと思う。それが中世期に不思議を行う人を列聖する習慣につながっているようだが、古代と中世では聖霊とベエルゼブブほども違うのであろう。

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西ゴート族はローマ軍との同盟を破棄して帝国領土を侵犯、トラキアを荒し回った。これに対してスティリコは東ローマと共同で防衛に向かい、メディオラヌムを包囲した西ゴートの軍を撃退する。
ミラノのサンタンブロージョ教会には4世紀に製作された「スティリコの石棺」と呼ばれる石棺がある

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Auxentius of Durostorum

アレクサンドレイアのデイアコノス、メルクリウスの別名あり、また、ウルフィラスの養子とも
メディオラヌムのエピスコポスAuxentiusの擁護者

これほど人物がアレクサンドレイアでディコノスであったというなら、それはアタナシオスが流刑にされていた当時のアレクサンドレイアのエクレシアの状況を垣間見せるようなところがある。即ち一神論が多数派か優勢であったということである。
当時は一神論派と三一派が激しく争っていたということになる。

Durostorum:ドナウ河畔のモエシアの重要軍事拠点(現ブルガリアのSilistra)

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アムブロジウスの発言によって当時のキリスト教主流派であった東方一神論の姿が見えて来る。
十字架崇拝も少数であったことが皇后ユスティナへの脅しの書簡に現れている。この時代カッパドキアの三教父が影響を強めたであろう。私見ながら、カッパドキアが十字架崇敬の淵源であったように思える。






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