聖書釈義上のアレクサンドレイア学派はフィロンを先駆とし、クレメンス、オリゲネスに継承されるが、四世紀にこの学派はカッパドキアの教父らに受け継がれている。
ニュッサのグレゴリウスの主要な著書の一冊である『モーセの生涯』に於いて、モーセが律法を石板に刻み込んだ行為を(彼が刻んだのではない)受肉やマリアに聖霊が宿り人間となったことの前表としている。(これはイエスの到来が神性の人間への内在であることを含意している)
『モーセの生涯』のモーセ像の背景にはグレゴリウスの兄バシレイオスの姿が指摘されている。バシレイオスは後世の修道制度師父的存在となる。
寓意的解釈を重んずるこの学派に対して、文献学的な方面からの批判が行われ、シリア的風土を背景にしたアンティオケイア学派が登場する。
聖書テキストの字義的文法的理解を旨としたこの新たな学派の創始者はタルソスのディオドロス(?〜394)である。
この学派には更に、モプスエスティアのテオドロス(350-428)や、より実践的倫理を強調したヨアンネス・クリュソストモス(347-407)も含まれる。
カッパドキア教父の流れを汲む聖証者マクシモス(580-662)はギリシア教父の最後を飾る人物とされる。
325ニケア会議
381第一コンスタンティノープル会議
431エフェソス会議
451カルケドン会議
553第二コンスタンティノープル会議
☆バシレイオスがアタナシオスと接触したという360年のコンスタンティノープル会議とは?
ヒラリウスの流刑はかなりの自由を得ていたようで、この360年の会議に流刑先から参加している。従って、その会議にはアタナシオス、大バシレイオスに加えヒラリウスまでもが出席し、顔を合わせていたことになる。これは皇帝にとっては心外なことであったろう。
それはコンスタンティウスⅡ世の治世中、翌年ヒラリウスがピクタヴィウムに帰還、更に翌年アタナシオスが帰還(コンスタンティウスⅡ世崩御の恩赦)
所見
アレクサンドレイア学派がどうカッパドキアに継承されたのかに今後の学習の要点がある。しかし、一言で学派といっても各地でそれぞれに異なる思想が存在し、その中で主流を成した潮流を派と呼んでいるところがある。例えれば、アレクサンドレイアではアレイオスの反論があったし、そもそもクレメンスもオリゲネスも三一の概念は持っていない。同様にアンティオケイアにも異論はあったろう。
第四世紀にアタナシオスはローマよりはカッパドキアに深い影響を残していた、あるいは、共感者を得たというべきか?その伝播は非常に短い時期に行われたように思う。
バシレイオスはアタナシオスになぜ共感したのか?隠修士の繋がりか?エジプト→カッパドキア
アンブロジウスはどんな反応をしたか?彼はメディオラヌムのエピスコポスと成った(374)後に急いでギリシア語文献を漁っているので、そこで何を読んだか?
結果的にふたつのスクールを政治にまとめ上げたのはアンブロジウスでは?いや、その前にエジプトはカッパドキア由来の教理を吸収合併しているように見える。
ダマシウス(位366-384)はアンブロジウスの作った環境(カトリック教令)に副次的に乗ったのであって、ローマも皇帝とアンブロジウスの関係に関連して「ついでに」地位を中央へと上げたように見える。
もちろん、ローマが都市の権威と共に、パウロとペテロの殉教地としてキリスト教徒に敬われていたに違いない。クレメンスがコリントスを譴責できたのもパウロとの深いつながりあってのことである。
⇒ 年表
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アウグスティヌスによれば、古ラテン語訳聖書テクストの稚拙な文体が躓きとなっていたのを、自然的、道徳的、秘儀的の三段階に分けて解釈するアンブロジウスの解釈が彼の目を開いたと言っている。(告白)
アンブロジウスを通して継承されたギリシア教父以来の解釈原理は、後の中世ラテン解釈法へと発展し、それは字義(littera)、寓意(analogia)、道徳(moralis)、高揚(anagogia)、の四重の意味へと広げられる。(オリゲネスのような「聖霊」は無くアムブロジウスに有った「秘儀」も無くなっている)
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アンシャル=聖書大文字体
丸文字で字体が完成されたのは四世紀であった(アンブロジウスの時代)
これが後にカーシブ草書に変化する。この小文字体の普及はビザンツ文化圏でのイコノクラスム(726-843)と深い関係があるという(どうあるのか?古写本も破棄された?)だが、このイコノクラスムとの関係には異説あり、第二次イコノクラスム(814-)以前のどこかからではないかとも言われるらしい。
⇒「フォティオスと図書総覧」
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641年にエジプトがイスラムの手に陥落すると欧州にはパピルスの供給が途絶え、急速にペラムへの移行が進んだ。
751年サマルカンドで中国人が捕えられ、そこから紙の製法が地中海世界に伝わる。
11世紀からはビザンツでも紙の使用が始まり(遅い!)、翌12-13世紀に紙写本が欧州でも急激に増加している。
最も古い現存写本はVat.gr.2200とされている。
以上の二点から写本の年代を想定する助けが得られる。
①どんな文字が使われているか?
②書かれたマテリアルは何か?
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ラビ文書正典はトーラーに導く
その正典はミシュナ(200年頃)
ミシュナの対型的な釈義であるイスラエル・タルムード(400年頃)
聖書釈義集であるミドラシーム(400-600年頃)
ミシュナの対型的な釈義であるバビロニアン・タルムード(500-600年頃)
以上は「口伝トーラ」と呼ばれる
西暦七十年をユダヤ教徒は「聖地から異邦人統治を根絶する正義の戦い」
と見るらしい。J.ニューズナー
その世代の罪とは「失敗しただけ」で神の名により、神のための無私の戦いであったと(イエス時代のユダヤ教)彼らが敗北したので、後の世代は彼らに罪を着せた・・
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