Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「今」

[Νυνὶ δὲ μένει πίστις, ἐλπίς, ἀγάπη, ]
「今、そこで残る、信仰、希望、愛」
この「ニュニ」の存在は口語訳、新改訳、新共同訳で無視されているが、NKJVでは"now"と訳出されている。

この「今」は何時か?


背景として、当時の神殿祭祀が終わろうとしていた。
「崇拝」(ラトレイア)が大きく変わる
いずれは聖霊も地上を去り、神殿は地上にも天界にも存在しなくなる
その状態で「崇拝」とは何を意味するか?


普遍教会はクラスマを以って崇拝(ミサ)とした
だが聖餐と愛餐は異なる

聖餐がパスカなら年に一度だけ

パウロ聖霊の賜物の消失を語った後でこれに言及しており、神殿となる人々が存在しなくなる時点から残るものについて述べていたか?

とすれば、「希望」が深い意味をもって見える
これは聖徒らが懐いた「希望」とは異なることになる。彼らの希望は天への召しにあり、現在の希望があるとすれば聖霊の再降下をまず求めなければならない。(Rm8:19)

そこで現状はバビロン捕囚期によく似ている
神殿祭祀なく、契約の行方は「新しい契約」を待望させた。
また「回復の預言」が有り、終了するべき「七十年」が知らされていた。流刑の民は崇拝を行えなかったが、それでもシュナゴーグの原型を作り、集まってはトーラーを読み、古い預言やエゼキエルの言葉を聴いた。キュロスのバビロン征服までダニエルが生存しており、彼に神の知恵を持った。
現在の情況も打開できるのは「大いなるキュロス」以外になく、それを待たねばならない。『誰が東より人を興し々哉』⇒キュロスの意義
そこから神殿を再興するための人々が募られ少数者が従う、ゼルバベルとエシュアがそれに添えられた。『二本のオリーヴの木、二基の燭台』『あなたがたは世の光』『ロール ラゴイーム』帰還した「アリヤー・ツィオンの残りの者ら」『海の砂粒のようであっても』・・⇒「アリヤー・ツィオンの残りの者

『その時と時節を変え王を廃し王を立て』Dan2:21
[τὴν ὥραν καὶ ἡμέραν καὶ μῆνα καὶ ἐνιαυτόν]Rev9:15
「その時、その日、その月、その年のために」

[καὶ ἐλύθησαν οἱ τέσσαρες ἄγγελοι οἱ ἡτοιμασμένοι εἰς τὴν ὥραν καὶ ἡμέραν καὶ μῆνα καὶ ἐνιαυτόν, ἵνα ἀποκτείνωσιν τὸ τρίτον τῶν ἀνθρώπων.]

やはりこのアンゲロイは天使ではないことになる。天使がバビロンに捕囚になる理由と必要が見当たらない。むしろ、これは四世紀以来キリスト教が異教に囚われている状況によく符合する。聖霊は二世紀中に失われたのであろう。その後は長い『夜』に在って『預言の言葉に注意を払う』ほかない。
満七十年のために四十七年でキュロスが征服を遂げ、二年後に残りの者の拘禁が解かれるというより、崇拝の再興が命じられる。祭壇はその年に築かれ、定礎は翌年でありそれは536年つまり神殿破壊から50年目であったろう。神殿の再奉献は神殿喪失から71年目であった。すると、キュロスの征服によってアンゲロイが崇拝再興のために拘禁から解かれるというシナリオが浮かぶ。アンゲロイはハギオイを表すのであろう。七十年の期間のために彼らは周到に用意された時を守る必要があったように、定めの時の前に行動を起こすのであろう。・・ということは、彼らは聖霊降下ではないか、あるいは七十年に相当するのが神殿祭祀の再興を表し、その以前に地上に現れることを表すのだろうか。それなら、聖霊降下を指すとしても内容は古代と整合する。
アリヤー・ツィオンの時にも神殿の再建にかなり先だってその基礎が据えられている。つまり祭祀は神殿の再建にかなり先んじていた。
そこで、ハギオイの現れは祭祀の再開を可能とするように観える。しかし、ゼルバベルとエシュアが試され、励ましを必要としたような状況が生じるのだろうか。聖徒の忠節にイエスが忠告していた多くの例え話はそれを立証するかのようである。<そこで問題は、終末期に神殿祭祀に相当することは何であるのか?>
バビロンからのアリヤーでは、祭司職たる対型的レヴィ族が天界に揃わずにも、地上での祭祀なり崇拝なりは在ったことになる。そこで神殿は建立されていなかった。ただ、下げ振りと葦によってキュビトが測られているところに、建造の過程が示唆されている。それはレヴィの浄めを表すのであろう。浄めの過程は意味するかも知れないが、贖罪には至らない。そこで捧げられたのは常供の犠牲や祭壇に捧げられる罪祭、供与の犠牲、焼燔の犠牲などであったろう。即ち『中庭』に属する祭儀であった。安息日毎のパンの交換、日毎の香の捧げ物、など聖所の事柄は行えず、神殿の油注ぎも祭司の贖罪も不可能であったろう。そこでエレミヤの70年とダニエルの70週が意味を持つ。本来の神殿祭祀の復興をそれぞれが指し示しているからである。当然イスラエルの浄めもその当時には無かった。
また、天界の神殿は未だ存在していない状態で、祭壇での祭祀が対型的にどう行われるかという点が謎になる。



黙示録では、大いなるキュロスの働きによりユーフラテスの水量が渡渉できるほどになるには聖霊の降下がどうしても必要になるように思える。膨大な水の流れを変えさせるほどの事とは、『三分の一』への死があるのだろう。これは大いなるバビロンの滅びとは同一視できない。それに先行している。
聖霊降下の結果として蝗と騎兵が生じるので、水路の変更はその後、またはその過程で起こるのだろう。
<そうなると膨大量の水の流れを変えるとは・・『三分の一』とは極めて難しい関係となるか?女の裔と蛇の裔か?>


今日に崇拝的なものがあるとすれば「信仰、希望、愛」か?
実態はシュナゴーグでの集まりのようなものになるのでは
そこでは神殿が喪失されているので「礼拝」ということはできない。聖霊降下後であれば祭祀と言える理由が残っている。

だが、神の言葉を反芻し、その時を待つことは同じようにできる。
そこで聖餐というものが礼拝でないことがますます明らかになる。なぜなら、聖餐は成就を天界に待つ予型であって、神殿の犠牲祭祀よりは祝祭に属してはいないか?犠牲祭祀はキリストによって成就したが、祝祭は未成就である。特に「贖罪の日」の対型は千年王国を待たねばならない。
贖罪は王国の行うところであるので、神殿を持たない段階で罪の許しを云々するのは的外れになる。だが、祭司についてはそうでもない。聖霊降下はその祭祀が行われたことを証拠立てるものとなる。但し、祭司の贖罪が行われるのは地上ではなくて天界であろう。それは大祭司の職責だからである。そして「新しい契約」無しにはそれは行われ得ない。

こうして観ると「ニュニ」とは、ほんとうに今ではないのか?

                                      • -

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」Jh6:29を根拠に信仰を人が懐くのも神による業だと言うだろうか?
もしそうなら、神とは不公平なだけでなく、イスラエルを神の民に出来ず、キリストを退けさせたのはほかならぬ神になってしまうがそれで良いか?
この句の前でユダヤ人らは、自分たちがどう『神の業』を行ったらよいかと尋ねているのであり、神がどんな業を行うかを尋ねてはいない。
この手の考えは教会側に根強いが、それは信仰ある者と無い者、特に日本のように不信者が大半を占める社会の言い訳に利用されてはいないか?それは優越感を生み出し教会員をパリサイ化するばかりではないか?
ましてパウロはここで『より優れた道』として信仰を挙げている以上、聖霊の賜物としての「信仰」とは別物を述べているに違いないではないか?何という愚昧!

                                      • -

その事柄が見えるとき,人はそれに対して希望を抱くでしょうか。 しかし,見ていないものに希望を抱くのであれば,わたしたちは忍耐してそれを待ちつづけるのです。ローマ8:24-25







.