Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

フォティオスと「図書総覧」

コンスタンティノープルのフォティオス(810-893)PhotiosⅠ
マケドニア・ルネソンスの代表者と目される。
俗人であったが、コンスタンティノープルの司教に二度抜擢されている。(858-67/877-86)
だが、この件は西方との関係を悪化させるものともなった。
「図書総覧」は彼の読書体験による批評と抜粋から構成されるもので、現在までに失われた多くの価値ある書物も含んでいるので、資料価値は高い。含まれる書籍は385冊、著者は190名に上り、現在失われたものは279冊も含まれている。その大半は第二世紀から第六世紀の第二次ソフィスト期のもので、キリスト教ユダヤ教関連は239冊、異教また世俗のもの147冊。その中では珍しいものを好んで取り上げて詳述しており、有名なものは簡潔に記している。
867-1081にかけて、マケドニア朝期に一種のルネソンスが起こっている。そこでは古典の再評価が行われた。この過程で写本が作られつつ、大量のアンシャル体写本が破棄されカーシヴに書き換えられた。カーシヴの最も古いものはPetersburg gr.219[ウィスペンスキー福音書835]とされている。これにやや遅れてカエサレイアのアレタス大司教(849/50-944)の「写本蔵書」が現存し、その写字生の名も記されている。<現在カエサレイアはどうなっているか?>


コンスタンティノポリス帝国大学
コンスタンティノスの治世に開校し、テオドシウス2世のときに改革された。425
529年にユスティアヌス帝によってアカデメイアが閉鎖された後、この大学だけが学府となった。(リュケイオン?)
フォティオスはここでテサロニケの数学者で司教のレオンの同僚として働いていた。

ローマが東に残ったこの時代に、小規模ながらルネソンスが生じており、その影響のひとつがカーシヴへの移行だった。それは後の西方ルネソンスでのギリシア語文献研究に影響を与えたに違いない。

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H.U.Von.バルタザール(1905-88)Hans Urs von Balthasar
マクシモス研究「宇宙的典礼」1941
グレゴリウス研究「現存と思索」1942
「過越しの神秘」1969
オリゲネス、ニュッサのグレゴリオス、マクシムス・コンフェッソルなどの研究から宇宙的神学の視座に立った。<そのメムバーがあまりよくない>
「聖土曜日の神秘」では、キリストが死者を含めあらゆる存在と一致を果たしたとの事柄を説いた。<カトリックのためキリストの冥府降り/全人救済説か?>
異邦人、キリスト者の区別なく神が人類を唯一なる自らの像として創造したことを強調するところに師リュバックの強い影響がある。

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なぜキリスト教世界で「聖徒」の理解が曖昧になるのか
それはSaintという語で混乱させられているからで、カトリックの概念を払拭しようとする余り、その語を再定義することが妨げられる。やはり、キリスト教世界の外からでないと「聖徒」がどんなものかをはじめから描き直すのは難しいようだ。

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[信仰による義の相続]Heb11:7
[相続できるのは土地だけ]と言う御仁がなぜにキリスト教を論じているのだろう。その熱狂的な追随者も少なくない。




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