Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヨハネ第一書簡5:7-8&第二書簡の「婦人」

Mt3:11
[αὐτὸς ὑμᾶς βαπτίσει ἐν πνεύματι ἁγίῳ καὶ πυρί·(名)与中単)]

Lk3:16
[αὐτὸς ὑμᾶς βαπτίσει ἐν πνεύματι ἁγίῳ καὶ πυρί·(名)与中単 )]

Act2:3
[καὶ ὤφθησαν αὐτοῖς διαμεριζόμεναι γλῶσσαι ὡσεὶ πυρὸς (名)属中単)]



2Jn1
[Ὁ πρεσβύτερος ἐκλεκτῇ κυρίᾳ καὶ τοῖς τέκνοις αὐτῆς, ]

κυρίᾳ <名)与女単>≒ κυριακον? ここに在ったか!
[καὶ νῦν ἐρωτῶ σε, κυρία, ]5
⇒[ἀλλ’ ἐλπίζω γενέσθαι πρὸς ὑμᾶς]


[Ὁ πρεσβύτερος ἐκλεκτῇ κυρίᾳ καὶ τοῖς τέκνοις αὐτῆς, οὓς ἐγὼ ἀγαπῶ ἐν ἀληθείᾳ, καὶ οὐκ ἐγὼ μόνος ἀλλὰ καὶ πάντες οἱ ἐγνωκότες τὴν ἀλήθειαν,]
[THE ELDER, To the elect lady and her children, whom I love in truth, and not only I, but also all those who have known the truth,]

[Ἀσπάζεταί σε τὰ τέκνα τῆς ἀδελφῆς σου τῆς ἐκλεκτῆς. ]13

3Jn9
[Ἔγραψά τι τῇ ἐκκλησίᾳ·(単) ἀλλ’]

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1Jn5:7-8 <カーシヴ写本の"Commona Johanneum"#を含めて翻訳>
「7 証しするのは三つある。天には、父と言葉と聖霊である。そして、これら三つは一致する。(一になる)
8 また、地に証しをするものが三つある。霊と水と血である。そして、これら三つは一致する。」
#3-4世紀にスペインか北アフリカで付加?B.Metzgerはこれを挿入と断定
所見:これは三一派に利用されたというべきか?それとも三一派の挿入だったのか?これは依然分からないのでは?

この前の6にも異本多し
「霊によって」「血と霊によって」「霊と血によって」
8の「霊と水と血」はSacramentumに合致させたかも知れないと言われる。

だが、これは違う。背景には明らかにグノーシスの教理への反駁がある。第二7 第一4:2
つまり、キリストはバプテスマの後にイエスに憑依したのではなく
水のバプテスマを受けたその人ナザレ人イエスに他ならず
処刑される前に肉体を捨て、受難を免れたのではなく
磔刑上で血を流され、その血によって人類の贖いが備えられた
つまり、メシアは終始霊者であったのではなく、『人間イエス』となったのであり
それを終始証し続けたのが神の霊であった。
6『このイエス・キリストは、その水とその血と(の中)から(εν)来られた(分)アオ能主男単)方である。水によるだけではなく、その水とその血と(の中)から(εν)来られたのである。その証しをするものがその霊である。その霊は真理だからである。』
つまり『水だけでなく、水と血を以って来られた。証しを立てるのは霊であり、霊は真理である。(キリストが人として来られた事を)証しをするものは三つある。霊と水と血であり、これらは一致して(証して)いる』。と第一書簡は述べている。5:5-8

この観点から見れば、
『7 証しするのは三つある。)天には、父と言葉と聖霊である。そして、これら三つは一致する。8 また,証しをするものが地に三つある。(霊と水と血でありこれらは一致している。)』との"Commona Johanneum"の挿入が如何に的外れな文言かが見えて来る。
筆者はグノーシスの誤謬を論駁し、肉体となった人間イエスを説いているのに、「キリストも聖霊も神だ」という三位一体説をここで説くわけがない。
この挿入句が"Commona Johanneum"と呼ばれたのも、シナイ、アレクサンドリアバチカンの三大写本に存在せず、後期のウルガタ・ラテン訳とカーシヴ体写本から見られるようになったからである。


5の論点を補強するための、これは仮現論への反論ではないか?

所見:これが福音書とこの第一書簡が同一人物によって書かれていることを示すのなら、その言わんとするところは謎などころか相当に明瞭になる。ヨハネとしては自身がその懐に在ったというよりは、水と血と言う方を選んだのであろう。確かにその方が説得力がある。その理解の鍵は当時横溢していたグノーシスの仮現説とのヨハネの戦いであり、小アジアがこの影響を退けたほとんど唯一の土地であったとされているところからすると、上記第一書簡のこの部分に見えるものがある。特に6ははっきりしており、7も"Commona Johanneum"を含めても然程の問題にならない。ただ、三一説が出てきてややこしくなったように見える。というのも、たとえ三一派の主張を退けることができても、この句は依然として謎になってしまい兼ねないからである。"Commona Johanneum"は元は註釈であったとのFrederick Henry Ambrose Scrivenerの説からすると、理解の参考にはなるのかも知れない。本文の確立は至上命題ながら、取り除いて安心しているだけでよいか?
但しJh19:34では血と水となっている。そこでケリントスの仮現説をエウセビオスから拾うと、バプテスマの際に鳩の形をとってキリストがナザレ人イエスに臨み、磔刑の前に去ったとしている。これに『その水とその血との中から来られた』のヨハネの句を対照するとエン(εν)が強調されている理由と合致する。キリストは肉体をもってそこに存在しており、バプテスマに在っては天から降ったのではなく、(聖霊降下の前に)水に浸かったのであり、磔刑に在っては(死亡の前に)天に去ったのではなく、血を流されたということを述べているのであろう。その証しを立てるものは聖霊であり、その知識は聖なる者らの教えとなっており、けっしてケリントスらグノーシスと称するものにはなかった。確かにグノーシスではペテロが指摘する『その魂を墓に捨て置かれず・・』の詩篇が無意味になってしまう。
やはり聖書だけで何でも分かるわけではない。しかし、異邦人を対象として丁寧なヨハネ文書には珍しいパウロ的省略になっている。そこが書簡であるためか、また、当時はドミティアヌスか、可能性はやや低いがトロヤノスの迫害下にあった蓋然性がある。そこで第二、第三書簡が短文で済ませ、なおグノーシスの反論だけは欠かさなかったところは、この二つの書簡の書かれた状況を物語っている。

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そうなると、あの女はシオンというだけではなくなるが、そうなのか?
シオンの形を見ておく必要がある
場合によってあれはエクレシアで良いことになる。
ヨハネが長老を自称した理由
エフェソスにふたつの墓があるとしても年代まで分かるのだろうか?
H.G.Liddellはκυριακονの由来を不明としているが、どういう履歴かはやはり分からないまでも、そのきっかけはここにあったのではないか?中世期にこの事情を辿った誰かが提唱し始めたのではないか?あるいは、その呼び習わしの伝統がヨハネ以来、伏流水のように強く継続していたのかも知れない。
ドイツ語&イタリア語で女性名詞・ギリシア語でそのまま「婦人」


ヨハネがエクレシアについて隠語を用いたかどうかは判断が難しいが、『選ばれたキュリアへ』というのは、ペテロに痕跡が見出され、以後ディオクレティアヌスの大迫害に至るまでに、キリスト教に大きな影響を与えている。
「なぜ教会と呼ばれるか」

そこでラテン語でも言葉がほぼ同じエクレシアを用いることが憚られたのかも知れない。その語であればポリスの民会の意味がかぶっており、政治的なテイストを不信者に感じさせ、いらぬ誤解と、社会からすれば解散させるべき危険性を醸したことは確かに有り得ることであろう。
集まりをはっきりとキュリアコンと書いたのはユリアヌスJMであったという情報がある。彼の場合にも迫害は無縁ではない。
そうなると、キリスト教徒の集まりをキュリアコンと呼ぶ習慣は、迫害が惹起したもので、第三世紀までには習慣づけられていたと推論することも的外れではなさそうだ。
但し、ラテン語典礼文にはエクレシアが復活している。(おそらくはキリスト教公認化とヒエロニュモスの影響では)

それから、迫害期にはキリスト教徒が十字架を表象としていたことはまず考えられない。
1.コンスタンティヌス大帝の表象はPXであった。
2.十字架刑が禁じられたのはコンスタンティヌス大帝以降である。
3.一神論派は十字架に膝を屈めなかった状況証拠がアンブロジウスの書簡にある。386年頃
4.第三世紀のものとされるローマの落書きには、侮蔑の言葉と共にキリスト教徒の崇める主人が十字架に磔にされている姿がある
5.十字架を表象とする場合、魚や鳥のサインと異なり迫害対象であることを曝すことになる。6
6.カッパドキアキリスト教徒の逃避住居群の壁に見られる挿絵は、元々偶像化を嫌ってイエスの姿を十字形で描いていた。
「十字架の由来」

なお、第一書簡の『霊と水と血』は黙示録の『火、煙、硫黄』と関連付けるには無理がある。
[血]と[火]と[煙の霧]と≒ 赤、黄、紫
「上では、天に奇跡 下では、地にしるし」Joe2:30 @了解Act2:19
罪、義、裁
火、煙、硫黄 (これは色の形容、順が入れ替わっている)胸当と口(攻撃と防御、乗手は武具を持っていない)

ヨハネは黙示録の中で『火、煙、硫黄』を『赤、紫、黄』の意味を並列しているので、これが『ゲヘナの裁き』であることを暗示している。
それが『三分の一を殺す』攻撃の方法であると同時に、騎兵の乗り手には保護の胸当てが与えられている。
この観点から『二億の騎兵隊』を見るべきであり、騎兵は聖徒では有り得ないことにもなる。
⇒「ヨエルの蝗害の意味を黙示録は語る






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