Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Rev9-11関連を追う


ヨエ2:30
ミカ5:8
イザ4:5
エゼ3:3




エゼ40:7・37:26・7:24・4:14
ゼカ1:16・2:2・14:21
アモ7:8
詩篇49:13・65:4・96:8
エレ50:28・20:8
イザ1:12・43:2
ヨエ3:10
ゼパ1:9
ダニ7:25
黙示13:5
ルカ21:24
ハガ2:23
ヨハ13:20




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これを言うのは専らプロテスタント諸派やその系統の信仰宗派

携挙は教会を地上から取り去るためのもので(1Th4:13-)
再臨はキリストと信徒が地上に帰ってきて、不信者を除き去るもの(Mt24:40-)
携挙は「クリスチャン」を患難から守るためである(1Th5:9-)
携挙は見えず、再臨は誰にも見える(1Co15:50-)

但し、携挙が何時起こるかについては「艱難時代」との関連で諸説紛々、それでも「携挙」という事態は突然に起こるというところは同じように言われる。


1Th5:9- これはキリスト教徒が患難を受けないことを保障する言葉ではなく、キリストの臨在の日に不意を打たれるような事が神の本意ではないと説明している。

1Th4:13- これはそれまでに死去している聖徒らが神に忘れられてはいないことを教える慰めを含んでいる。

1Co15:50- この部分を不可視性に当てはめるのはどういうことか?
(この参照元の信頼性は低いのか)


聖徒を携挙するキリストの空中再臨と、大患難期の後に反キリストを滅ぼすキリストの地上再臨があり、双方を混同すべきでない。

空中も地上も「再臨」を分けたところで、つくづくご利益信仰であると思える。
この見解の問題点は「患難」が反キリストの背教から来るものと、大患難が区別されていないところにあるらしい。ご利益信仰らしくも、ただ単に苦難を回避することに思考が傾いているからであろうが、聖典によれば、聖徒は迫害を避けられず、多くは殉教を遂げることは預言され、既に明示された神の御旨という他ない。
聖徒の理解が信徒と同じになっているために『新しい契約』が何であり、誰が対象となるのかが理解されていないのだろう。そこで携挙されるのは自分だと思うらしい。


Ez37:26-28を根拠に血統上のイスラエル千年王国の神殿が建つというのは、神のイスラエルもキリストの犠牲の贖いも無視しなければ成り立たない。やはり『新しい契約』を知らず、大局的観点を欠いている。即ちアブラハムへの約束の観点。ほとんどの教会の教えではこの観点が出て来ない。何故か?

ものみの塔は説明が回りくどく、関係の薄い事柄を列挙して徒に文を長くし、そのうえ要点をずらす傾向が強い。ああなっては理解して欲しくないというに等しい。何か分かり難くするメリットがあるのだろうか?おそらく、『新しい契約』に関して、はっきりさせたくない何かがあるようだ。どうやら気付いていながら公けにできないらしい。組織維持のための政治判断であろう。どこの宗派でもやっていることであろうが

『新しい契約』の特徴
・彼らの咎を許す
・彼らの中に掟を記す
・古いもののようではない
・古いものに問題がなければ新しいものは要請されなかった

ものみの塔は『聖なる者』を「油そそがれたクリスチャン」と称するが、それだけでも何かを隠蔽しようとしているかに見える。聖霊も無いのにそれを彼らの集団の中に実在している事にしてしまっているので『聖なる者』が聖書中でどれほど『信ずる者』を超越して描かれているかに信者らが気付くのを妨げようとしての事であろう。
加えて、「油そそがれたクリスチャン」は、地位が確定しており、必ず天に行くとして、組織内で指導的立場にある根拠としてしまっているが、聖書中での『聖なる者』には契約を全うするための試練があり、少なくない脱落者が出ることも何度も記されているのだが、これも隠蔽しようとしているようである。いずれも、この宗教組織の指導部がその権威を失わないための政治的策謀なのであろう。信者の方々にはお気の毒なばかりではないか。
ものみの塔は、携挙を教えないが、それは黙示録十一章の記述を指導的立場にある「油そそがれたクリスチャン」らが、神の是認に入った事の象徴としてしまったので、テサロニケの方もそれに合わせざるを得なくなったためであろう。
それから、『忠実で聡い奴隷』とは『聖なる者』つまり彼らが言うところの「油そそがれたクリスチャン」とは重複せず、本来、働きも時期も別物であるとの理解に彼らは到達していない事も少数者らの圧制を許す原因になっている。

カトリックはこの件にさしたる教理を主張しないようで、そうなると、この件において『聖なる者』の観点から語る見解は存在して来なかったらしい。

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新教側に有りがちな
×信仰告白すると救われる
  信仰は具体的行動が求められる(Mt25:40)
×裁きの日に自分が利他的に生きてきたかどうかが問われる
  人に問われるのは信仰で罪人も救われる(Rm3:22.23)
  行状が問われるのは聖徒のみ(1Pet1:2/2:21)
×信仰あるものは主の復活の証人
  この語はキリストの目撃者について使われている(Act1:22)
×聖典である聖書に従って敬虔な信仰を行う者全員を司祭とする
  初代の弟子はほとんどが聖徒であったが第二世紀に絶えた
  全員が祭儀を司るならその贖罪に与る民はどこに居るのか(Rev20:6)

ただ誤りというよりは、新旧の契約の流れから外れているので根幹が異なっている。このほかにも様々に誤謬が派生する余地がある。やはりキリスト教理解の根幹を成すものは「聖霊と聖徒」の理解である。これが無い限り原始キリスト教には到達できない。神と子は信仰できても聖霊が分からない以上、どうして求められる信仰に達するだろう。



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