Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

十字架の由来

◆結論
それから、迫害期にはキリスト教徒が十字架を表象としていたことはまず考えられない。
1.コンスタンティヌス大帝の表象はPXであった。
2.十字架刑が禁じられたのはコンスタンティヌス大帝以降である。
3.一神論派は十字架に膝を屈めなかった状況証拠がアンブロジウスの書簡にある。
4.第二世紀のものとされるローマの落書きには、侮蔑の言葉と共にキリスト教徒の崇める主人が十字架に磔にされている姿がある
5.十字架を表象とする場合、魚や鳥のサインと異なり迫害対象であることを曝すことになる。
6.カッパドキアキリスト教徒の逃避住居群の壁に見られる挿絵は、元々偶像化を嫌ってイエスの姿を十字形で描いていた。
7.初期十字は縦横が同じ長さのもので、磔刑柱ではなくイエス・キリストそのものを表した。

ギリシア語では磔刑の刑具の形が確認できない
ギリシア語聖書中の[σταυρος]は材木の意で、これが転じて磔刑用の材木を指したらしい。
1Cor1:18 [Ὁ λόγος γὰρ ὁ τοῦ σταυροῦ τοῖς μὲν ἀπολλυμένοις μωρία ἐστίν, τοῖς δὲ σῳζομένοις ἡμῖν δύναμις θεοῦ ἐστιν.]「木の言葉は滅びゆく者らにとっては愚かだが、救いに預かる我々には神の力」
1Cor2:2[ Ἰησοῦν Χριστὸν καὶ τοῦτον ἐσταυρωμένον.][ἐσταυρωμένον](分)完了受対男単 )=原形[σταυρων]「木に磔にされた」
様々な意訳を経ないと「十字架」という象徴的に言葉にはなり難い。何か、刑具に霊的重みを述べさせるには、各節の内容にも無理がある。

[ξυλον] 口語と新共同は「木」と訳す(Act5:30)
十字形に交差していたかは不明。但し、第二世紀のものと思われるパラティヌス丘から発見されたキリスト教徒を揶揄する落書き"Alexamenos graffito"には十字架への磔刑が描かれており、かなり早くからキリストが十字形の刑具で殺害されたと認識していたことを示すのかもしれない。だが、これは落書きであって、当時流布していた様々な異教の十字形崇拝への当て擦りであった可能性も考えられる。どちらにせよ、これからすると当時ローマの磔刑は縦横の材木が交差したものであったと見てよいらしい。ただ、大きめの材木の調達ができる場合とそうでない場合とがあったことも考えられる。そこでギリシア語は曖昧であるのかも知れない。
それから、根拠としては幾分弱いながら、コンスタンティヌス帝の母ヘレナがユダヤ教やそのほかの(マニ教など)の異教の土地となっていたエルサレムから古い十字架が発掘されたことを記念しており、当時のキリスト教徒側はそれを(キリストの)聖遺物とした記録がある。(ヘレナの改宗は息子の後)

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歴史上の十字架の痕跡

◆処刑方法
キリストの当時には、磔刑の管轄はエルサレムを支配するローマに属し、石打の管轄はユダヤ人にあったようだ。彼らに「死刑が許されていない」とピラトゥスに言ったのは、祭りの準備の日の内に自分たちに汚れが残るのを忌み嫌ったからであろう。その同じ理由で彼らは総督官邸にも入らなかった。それで「死刑が許されていない」と言ってイエスの処刑を総督に委ねた祭司長派がステファノスには石打を決行している理由が見える。
また当時にはローマへの反抗者が多く、処刑が頻繁に行われていた。ヨセフスは使徒パウロをカエサレイアに匿った総督フェリクスについて「毎日のように処刑に追われた」としている。これについてはキリストの時期のピラトゥスについても『ガリラヤ人の血を犠牲に混ぜた』とされる件があり、ローマに反抗するユダヤ人の傾向と、度々現れる自称メシアの騒動への対処からローマ駐屯兵が処刑に慣れていて、「ゴルゴタに縦杭が常設されていた」という見解も有り得ないとは言えない。その場合には罪人は横木の材木を運んだことになるが、これ件は福音書ギリシア語本文からは確認できない。その場合、横木は使い捨てではなく、繰り返し用いられた可能性が大きい。
だが、処刑の頻度からし総督府やアントニア要塞に磔刑用の材木が置かれていた可能性は小さくないらしい。もし刑場に縦杭も設置されていなかったとすれば、ローマの権限の威嚇、また聖都の景観についてのユダヤ人の苦情も考えられる。

この点で、古代アッシリアの戦争捕虜の処刑は一本の木に架けていたことが当時から伝わるレリーフから分かる。それは釘で身体を打ち付けるものではなく、首に縄をかけて吊るすものであった。
また、この処刑法は動物の皮を剥ぐ便法であり、実際アッシリアの捕虜扱いには皮剥ぎが記録されており、ラキシュのレリーフの中に描かれる数本の杭につるされた敵兵の死体は見せしめとして皮を剥いだものである可能性もある。この処刑法であれば木を交叉させるのは邪魔なばかりで極めて不合理となる。

◆十字護符
第二~三世紀のテルトゥリアヌスは、自分たちが十字架による偶像崇拝者であるとの外部からの批難に反論する必要があった。
彼らには自分の身に十字を切る風習があったからである。これは魔除けの護符のような意味もあった。(護教論12章・17章)
この当時には、少なくとも北アフリカで、またおそらくはラテン語圏では十字架か十字形をキリスト教徒が表象として用いていたと言える。
だが、この時期にローマ帝国内で十字架刑は未だ禁止されておらず、一般人からすると刑具崇敬の異様さがあり、それがキリスト教徒への揶揄ともなっていた。
しかし、依然として迫害がいつ起こるとも知れない中で、十字形を飾り、まして身に着けることまではわざわざ危険に身を曝すために行われていたとは言い難い。


ラテン語への翻訳
Jh19:17
[καὶ βαστάζων ἑαυτῷ τὸν σταυρὸν ἐξῆλθεν εἰς τὸν λεγόμενον Κρανίου Τόπον, ὃ λέγεται Ἑβραϊστὶ Γολγοθα,] NA28
[et baiulans sibi crucem exivit in eum qui dicitur Calvariae locum hebraice Golgotha] Vigata

[crucem] 「交叉」;ヒエロニュモスは、「材木」である”スタウロス”を”クルチェム”に置き換えている。
それはこの人物に宗教上の政治的意図があったか否かでその意味も変わってはくるが、彼の極めて学究的な姿勢からすれば、ラテン語話者のために、そして実際にキリストを処刑したローマの言葉としてこれを選んだと考える妥当性は小さくない。そこでは新約聖書ギリシア語に十字架という語彙が存在しなかったために、ラテン語に存在する交叉を表す[crucem] を用いて実態をラテン語で示したということになるが、ヒエロニュモスの活動した時期と慎重な学術性からすると、新約聖書中の[σταυρος]が十字形に交叉した二本の木であった蓋然性は他の証拠と合わせて極めて高く、ほぼ反論は無理で不自然に見える。

◆XP
大帝コンスタンティヌスキリスト教に肩入れを始めたときの表象は十字架ではなくΧΡの重ね文字であったが、それは大帝の後もしばらく用いられている。そこで第四世紀初めには十字形は権力側で必ずしも地歩を得てはいなかった。
迫害期に、キリスト教徒は自分たちの表象として、鳥または水を飲む小鳥、一筆書きの魚、羊、を用いており、それは多くの場合、内部で通用する表象であり、迫害下では集会場には飾られても、身に着けるオブジュとはなっていない。

他方、第四世紀末、テオドシウス帝を使嗾してカトリック教令を発布し施行させたアンブロジウスが、ウァレンテイアヌス朝に残ったウァレンテイアヌスⅡ世の母親で皇太后のユスティナに書簡を送って「十字架の前に膝を屈めることができないのなら・・」と書いているところからすれば、十字架崇敬は一神論派のキリスト教徒の習慣ではなかったことになる。
第三世紀には、身体に十字紋を切る習慣が存在し、殉教が願わしいものとされ、十字形のオブジュが存在し始めていたとしても、キリスト教に十字形崇敬が本格的に採用されたのはカトリック教令の前後ではないか。迫害下や嘲笑されている社会状況では形象を曝すことは危険と侮蔑を受けることになる。


カッパドキアの十字表象
当時、アレクサンドレイア式のキリスト教がアタナシオスのローマ流刑の影響があって、ローマで地歩を固めており、また、アタナシオスは360年以来、大バシレイオスと懇意になり、カッパドキア派に近付いている。

カッパドキアでは、新旧の聖書が強調するような偶像崇拝を避けるべき戒めに従う目的をもって、古来キリストの人物像を人間として描かずに(人型を表す)十字形を用いていた。

これが却って、十字形を見る度に信徒らがキリストのイメージを強めていったことが考えられ、偶像崇拝の忌避が逆に視覚にキリストを訴えていった可能性は高いように思われる。確かに、表象とするにはクルクス・シンプルックスのような一本杭では格好がつかない。その点十字形は変形を含んで古来宗教のシンボルとして活用され易かった。
そのうえ、ローマ大衆の宗教には十字崇拝がある程度広まっており、国教化で紛れ込んだ可能性は様々に指摘されているようだ。

結果的に、カッパドキア派がアレクサンドレイア派の三一を受け入れ、カッパドキアからは十字形が輸出されている可能性があり、双方の概念が「カトリック教令」によって帝国内で確立され、西方と東方のキリスト教徒の全体が三一と十字形を専ら教えの中心に据えていったと仮説できる。ローマの処刑法が実際に十字架刑であったのならそれが更なる推進力になったろう。
但し、十字形崇敬はそれ以前にキリスト教界の一定の範囲内では進行していたに違いないほどの証拠も無視できず、それはデキウス帝期などの強烈な殉教願望の時期とも重なっているので、本来の十字形への敬慕は、殉教する聖人への憧憬、また追随することへの情念から引き起こされていた蓋然性も指摘できる。この観点から見る場合に、刑具崇敬という陰鬱な異様さも、殉教願望者にとっては願わしい栄光の象徴を見做されたと言える。
これに近い概念は、使徒パウロ文書にも『キリストへの死のバプテスマ』また『幕屋を解いて』『主と共になる』等の聖徒の殉教への願いに表れており、必ずしも誤謬と言い切れない。ただ、刑具にまでそれを象徴させたところでバランスを欠き、極端なまでに強調し過ぎたのであろう。

◆刑具としての十字
以後のキリスト教徒の間では、キリストの犠牲に感謝の焦点を当てるという名目の下に、その死というサタンの勝利場面でもあること、また、ありがたい贖罪だけでなく世を裁いて勝利する王としての姿を見ない口実とされている。だが、死刑の刑具を崇めたり表象化して自分たちの印とするのはやはり異様なことだ。
磔刑で死んだのはキリストばかりでなく極悪人も同じであり、磔刑ローマ帝国で廃止されたのは、皇帝がキリスト教徒を名乗るようになってからのことであり、そうでなければ存続し続け、とても表象にしようなどとは思わなかったろう。今日なら絞首刑の縄や電気椅子、薬物処刑の注射器を首からぶら下げていることになる。

刑具を宗教的表象として崇拝の場に備えることは、かなり異常なことであり、その以前に十字架刑の禁止令がなくてはならず、幾らかの時を経ている必要がある。
そこでコンスタンティヌス大帝以前に時を設定することは難しい。
たいへん興味深いことに、殉教願望に迫害が付き物であった時代がコンスタンティヌス大帝以後迫害が止み、十字架刑そのものが禁止されて以降に十字架崇敬が具体化したというのは、迫害の殉教の時代が終わり、その時期の表象が公に掲げられても問題がなくなったという正反対の事情の交代を物語っている。

この点ではもう少し、カッパドキア派とその周辺の習慣を調べる必要がある。
そのまえに出来ることは、初期教父の書簡をいくつか調べるもある。
バルナバの手紙Xii/ i. 55-60、ユスティヌス護教論、"Dial. cum Tryph." 85-97 Cyprianus, "Testimonies," xi. 21–22; Lactantius, "Divinæ Institutiones," iv. 27,
テルトゥリアヌスはどうか

◆どう見做すか
いずれにせよ、キリストの磔刑が十字形の刑具であったかどうかには余り意味がなく、それが調査の意欲を削ぐ。問題の本質は刑具の表象をありがたがるべきか、また、信徒の意識がキリストの死の場面に留まっていてよいのか、というところにある。(コリント第二13:4)全地を統べ治めるメシア像(イザヤ9:7/黙示19:11-21)をキリスト教徒の大半はまるで意識していないし、キリストの磔刑された場面を喜んで眺めるのは本来誰だろうか?(創世記3:15)

パウロが『あなたがたの内に在っては、刑木につけられてしまっているその方以外には何をも知るまいと決断した』というのは(コリント第一2:2)、「キリスト教徒は十字架につけられたイエスだけを宣べ伝えるものだ」という意味で語っていないのは文脈からあまりにも明らかである。コリントス論議好きの弟子らへのパウロの対処として書かれている。哲学好きのギリシア・アカイアの弟子らがキリスト教の原点であるイエスの死と復活から容易に逸脱する傾向があった背景がそこに見える。
大衆とは、目に見える明解な図案に意識を単純化する悪癖があり、古今それは宗教家の利用するところであった。またパウロはガラテア書でも『わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならない』とも書いている(ガラテア6:14)。これを短絡的に「キリスト教徒にはキリストの犠牲の死への信仰だけあれば良い」と誤解させる教えの根拠となるのであれば、十字架崇敬の正当化に用いられるかもしれない。だが、この文脈では迫害による死を恐れないことについて語られているのであり、この句だけ取り出して「信者は十字架だけを誇る」とパウロの高貴な意図から堕落させることは容易になってはいる。この件はペテロの異邦人へのキリスト教の概説に見られ、彼はキリスト・イエスの死と復活を福音の主題に置いており、それはパウロもそうである。この観点からパウロの『(磔刑の)木以外に何をも知るまい』との言辞を捉えるべき理由が提供されている。即ち、キリストはただ到来したのではなく、その犠牲の死を遂げて創造物の愛ある忠節が一度限り証明され、復活によって聖霊の下賜が起り、早い贖罪によって神のイスラエルが贖われ、聖霊の注ぎにより聖なる民が出現し、彼らがキリストの命に在って生きるようになったことを福音の主体としている。これらを含んで『(磔刑の)木』と言っている。だがコリントスの弟子らの議論好きと哲学の影響はパウロに端的な表現を使わさせるに十分であったのであろう。

もちろんそれは愚昧な偶像化の一形態であるのだが、何とか言い訳をして十字架はイコンと共に偶像ではないことになっている。しかし、大衆はそれに手を合わせずに済ますほど理知的ではないものである。宗教家はそれを利用するだろうか?


十字形とキリスト教を表すサインとすることは簡便で広く用いられている。
だが欧州では宗教改革期以後にも異端者を十字架で焚殺している歴史もあり、十字架はやはり刑具であることに変わりない。
それでも処刑法は時代によって変遷しており、今後もそれは分からない。
終末の聖徒らが迫害されるときにはもはや十字形には余り意味もない。そうさせるのはキリスト教の大衆化の愚となるのだろう。



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それから、大衆信徒には「キリストが自分のために犠牲となった」という意識が強く、多くの宗教家はそれを教える。
結論からすれば間違いではないのだが、人間の弱さの常として、「自分に寄り添う神」、「内住する聖霊」、「神に是認され、救われた特別に幸福な自分」というような利得への願望を差し置いて神の意図を知ろうとする者はそうは居ない。
つまり、自己利益のための神を求める姿勢は、ほかの宗教やスピリチャルと同じ動機から来ている。

その根源的な願望は、表象への依存を惹起させ、その典型例が偶像であり、ユダヤキリスト教偶像崇拝が文言で明確に禁じられているところからの回避として、十字架、またイコン崇敬に流れている大衆信徒の姿が見える。これは人間に共通する内的願望の発露なのであろう。⇒「暗闇に住まう神」
しかし、元々の十字架への格別視は、殉教願望から来ていたというのは皮肉なことで、その後キリスト教徒の十字架への意識は反転したことになる。
更に商業的結婚式場の十字架に至っては、もはやファッションの域に存在している。

(だが、真に聖書教であろうとする場合、これら「ご利益信仰」とは信仰動機に相容れるところがない)
つまるところ、「神」とは人のために存在し、その奴隷なのだろうか?
ヘーゲル左派なら、その意見を喜ぶのではないだろうか
十字架を崇敬する「クリスチャン」には、根底にこの問題が横たわっているといえる。
まだ、魚や鳥や羊である方が背後に惹起される動機としては良いように思われる。
なぜなら、「キリストの犠牲は自分のためだったのだ」という内心の声が聞こえるよりは良い。
自分のためにナザレのイエス磔刑にするのなら、ユダヤの祭司長派と同じにはならないものか。(ヨハネ11:50/コリント第二5:15)






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