Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ルカ17:21 あなたがたのただ中に

Lk17:20"The kingdom of God does not come with observation;"

Lk17:21"nor will they say, 'See here!' or 'See there!' For indeed, the kingdom of God is within you." NKJV

[βασιλεία τοῦ θεοῦ ἐντὸς ὑμῶν ἐστιν.]
[ἐντὸς]=AV - within 2; 2 1) within, inside 1a) within you i.e. in the midst of you 1b) within you i.e. your soul
この「エンス」は新約中2ヶ所だけ存在する。
もう一方はMt23:26『盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい』の「内側」

エスのメシアとしての不明性についてはヨハネ福音に以下の言葉があり、信仰によって見出される必要が込められている。
[μέσος ὑμῶν ἕστηκεν ὃν ὑμεῖς οὐκ οἴδατε,]Jh1:26
「あなたがたの間に知らない人が」

パリサイ人に限ったことではないが、当時のユダヤ人の間ではメシアである人物の確証が欲しかった。
しかし、ナザレ人イエスは奇跡は行えども、聖書との整合性が彼らの望むほどに明瞭ではなく、タナイームの理解からすれば、安息日や断食、体制派教師への敬意の欠如、地の民への接触など受け入れ難いところが少なくなかったので、彼らはイエスが自分たちに判断させないでいると苦情を述べてもいる。
それに対してイエスは彼らが『自分で判断しない』ことを指摘しており、彼らの間での同調圧力があったことも窺わせている。

そこで十二人もそうであったように、王国の到来によってメシアを見分けるという逃げ道を模索した体制派が居たとしても十分に考えられる。
そのような者らは、王国の王であれば、その国の到来を見ればよいことになるので、一向に王を名乗らないイエスに『王国はどのようにして来るのか』との質問に、彼らの焦りのようなものがあったと思われる。
その一方で、民衆の中からの多くの人々は、イエスにメシア信仰を働かせ始めていたので、最後の上京ではルーラブを振って王として出迎えている。
しかし、そこで釈然としないパリサイ派も多かったに違いなく、彼らが躓いた原因は、彼らが聖書に精通しているところにあったと言える。聖霊の奇跡を見ても、聖書の言葉によってメシア信仰を引き留められていたのであり、そもそもそのような罠を聖書に仕組んだのは神自身に他ならず、それが「神の裁き」の本質であった。
救いは信仰によるとは、当時のユダヤの人々は聖書の言葉を別にしても、聖霊という神との邂逅を経験していたのであるが、言葉と力との乖離で対処に窮した。
そこで彼らは、伝統的権威の方に靡きつつも、イエスの奇跡にも捨てがたいものを感じていたのであろう。その葛藤が「天からの印を見せよ」とか過激な質問になっている。だが、そこは信仰を求めた神は、ヨナの印以上を彼らに与えなかったし、それも事後のものになっている。(この辺りは奥深い)

[ἄρα ἔφθασεν ἐφ’ ὑμᾶς ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ.]Lk11:20
「ならば、あなたがに神の王国は達したのだ」

Lk16:16「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入(殺到)している」


1Cor14:15

2Cor7:3

Mt8:12
12:22

Mr13:21


Nub11:20

Jer 14:9

Zpn3:17

むしろルカ福音の前後の文章からすれば、ユダヤ人の思い描く「王国」との差がはっきりとしている。
また、終末の偽キリストへの注意喚起もされており、キリストの発言はむしろこの点に重きを置いている。
語られた相手のパリサイ人は、ほとんど理解しなかったと思われる。
エスの発言を追うと、偽キリストへの警告の要素を強めており、逆に言うと、地上に華々しい王の来臨として現れるのがアンチクリストであることに注意を向けている。
それであるから、『神の国はあなたがたのただ中にある』を、聖アウグスティヌスの誤謬から発して「信者の心の中に神の国が宿っている」と多くの「クリスチャン」が考えるのは終末への準備である危険が考えられる。不意を突かれてユダヤ教徒の王国観に引かれて地上のメシアを喜んで迎えてしまうときに、『神の国はあなたがたのただ中にある』の意味を初めて悟ったのでは遅すぎ、偽キリストについてその意味を適用させられる誘惑に抵抗するのは非常に困難になると思われる。このようにこの句は、おそらく終末に在って再び誤解されるのだろうが、その時も文脈は無視されなくてはならない。


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一般的教会のドグマ ・信者だけが救われる (聖徒が新しい契約によって義が仮承認されたことを誤解) キリストを信じてバプテスマを受けないと地獄に落ちる このドグマによって、改宗させることが利他的で崇高な務めとされてきた。しかし、そのドグマの本質は「脅し」であって、人に神への関心よりも保身を促すものである。神の是認を受ける幸福を主張して、なぜ「救い」が必要になったのかを考えず、却って自己存在を危うくするものとなる。それは決して利他的ではなく、慈善の仮面の下で悪魔の性質である利己性を人に纏わせるものとなっている。 <16世紀に日本人の多くがキリスト教に躓いた理由の一つが、バプテスマを受けずに死んだ先祖に救いがないこと> 現代でも日本の教会員は異教徒である周囲の人々が救われず地獄に落ちるものを心中では考えている。 →本来のキリスト教では キリストの贖いは人類を創造された倫理上に「罪」の無い状態に復帰させるためのものであり、その贖罪にために『祭司の民』を最初に召し出し、『被造物の初穂』として最初に贖い仮に救うことが企図された。『新しい契約』とは、この『聖なる国民、王なる祭司』となる民をキリストの犠牲によって贖うためのものである。 (新約聖書の大半はこの人々について呼びかけ、書かれたものであるのに、それをただ信者への言葉と短絡しているところで、聖徒の特権を自分のものを勘違いしている上に、人類全体の救いという神の意図を、自分の救いと取り違え、利他的精神を懐くべきキリスト教を利己的で高慢な宗教にしてしまっている。それはキリストの自己犠牲の精神を悪魔の利己心に置き換えるものであり、本来「キリスト」の名を冠するべきものでもない) 「信者が救われる」とするところではどこでも、そのキリスト教はまったく間違っている。すべての人は裁かれる以前に在り、それはアダムとエヴァ以外の死者であっても変わらない。 ・そもそも、なぜ救われるべき状態に人が陥ったのか、また、救いとは何からの救いであるのかが曖昧 人間の寿命の短さ、この世の諸悪の存在の由来が、神の摂理にされてしまい、神を苛酷な吟味者に、自分たちだけを恩寵に与る者としてしまっている。 神がなぜ人を裁くかの意味を考えることよりも、自分が救われることを確保しようとしているが、これは保身目的であり、神への関心を持って信仰も崇拝もしてはいない。 総じて言えば、神やキリストとは逆の精紳を培っており、自己義認に主な関心が向いている。それがため、キリストを十字架上にうなだれる姿を好む。それは自分のために犠牲となってくれたと感じ入るためであり、キリストが自分の奉仕者であったと捉えることでもある。だが、キリストは復讐を遂げる方であり、十字架上での刑死をもたらした蛇の頭を打ち砕き、神から逸脱した『この世』を終わらせるために再臨される。そのキリストは勝利の大王となられるのであり、刑柱上での遺骸を眺めるのはサタンの悦ぶところである。そもそも、十字架という刑具を崇拝の象徴とすることが良識を逸しており、サタン的で異常な事に気付けるはずである。 <教会駁書>