Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ソーター篇から神名に関わるメモ

「ソーター」そのものは民数記5章に由来する、夫を拒絶し(性交を拒み)夫に不貞を疑われる妻の、夫を「避ける」の単語に由来する。

しかし、ソーター篇にはこの題目以外の内容も含まれており、ここでは特に「格別な神名」(ハシェム ハメフォラーシュ)に関わることを挙げる。


■ミシュナ6

祭司たちの祝福(Num6:24-26)--どのようになされるか
地方(神殿外の意)では、それを三つの祝福として唱えるが、神殿では一つの祝福として唱える。(聖句の三区分に応じて民の答唱が入り三つの部分に分かれるが、神殿域ではアーメン答唱は禁じられる)
聖殿では御名を書かれたままに発音される。しかし地方ではそれを婉曲法(アドナイ)で唱える。
地方で祭司は両手を肩の高さまで挙げる。だが聖殿では頭の上の方にまで挙げる。但し、大祭司は例外であり、額帯よりも高く挙げてはならない。(額の金版に御名が彫り込まれているため)
しかし、ラビ ユダは言う「大祭司も自分の両手を額帯よりも高く挙げる。聖書が言う通りである。『アロンは両手を挙げて民を祝福した』。(Lev9:22)」
この後のゲマラでは、ラビやタンナらが立つか座るかで議論を始めている・・・その中で、ラビ ナタンは申命記10:8での『の御前に立って仕え、の名によって祝福するように』とあることから、並行的な申命記18:5でも同じ祝福を類推できることを示唆し
「・・『(あなたの神、が)彼とその子らと永久に(の名によって)使える者とされた』と。これは『その子ら』と『彼』を並置して、一方から他に類推するのである」。と言う。
(ゲマラは続けて)ほかにも、タンナの権威によって教えられた「あなたはイスラエルを祝福して。次のように言いなさい」とは、格別の名(ShM)を用いて行われる。<反論>「あなたは「格別な名で」というが、あるいは婉曲法でのみ(祝福せよ)と言うのではないか?」(以下は改行するが続きか否か不明)「聖書は言う、『彼らがわたしの名を・・置く』と、この意味は、わたしの名がわたしにとって唯一であるということである。(この御名を)地方でも用いることは可能か?」ここで『彼らがわたしの名を置くためにと言われているように、あちらでも彼らがわたしの名を置くために(・・選ばれた・・)其処へ』とある。あちらで(主の名を置くところとは)主が選ばれた家であるように、こちらでもそれは主の選ばれた家である。
ラビ ヨシュアは言う
「(それを証明する)必要はない。さあ、これが言わんとすることは『わたしの名を記憶させるすべての場所で、わたしはあなたに臨み(あなたを祝福する)』と。
あなたはこの意味が「すべての場所において」であるとの思いを浮かべるのか。むしろ聖書本文は以下のように分解し直すべきだろう。
『わたしはあなたに臨み、あなたを祝福するすべての場所に於いて、そこで、わたしはわたしの名を記憶させる。』と
では、わたしがあなたに臨み。あなたを祝福するのはどこか、それはわたしが選んだ家に於いてであり、『そこでわたしは、わたしの名を記憶させる』という『そこで』とは、わたしが選んだ家に於いてである。」




所見;神殿が無く、幕屋が転々としていた時期との異なりはどう理解されていたのだろうか。最初に律法が書かれた時代は、移動生活の中であったのだから。
神殿域での祝福に託けて、御名発音を限定した動機は隠されているが、これは諸国民への差別化と聖都と聖域を高めることではなかったか?捕囚期以前には、諸国民もその発音を行っていたことが窺えるにも関わらず、民が一致して発音を限定する作法に従ったのには、神殿祭司だけでなく、ソフェリームの賛同があってのことであったように思える。こうして実際、ミシュナーの中でも議論の最中であったこと、またLXXから御名が消えることからすると、前2-1世紀頃に発音の限定が行われたようで、加えれば、時期的に壮麗なヘロデ神殿の造営もその意識を煽ったことが想像される。
それから、サマリアが御名の音を保存し得なかったのはなぜだろう?当時のユダヤ人のサマリア人への偏執的な差別意識からすれば、この発音の限定が行われるようになった頃には、サマリアも御名の音を亡失していたと思われる。あるいは、サマリアもゲリツィム神殿で御名の発音を限定していたか?それが前129年に破壊されていることは、LXXから御名ShMが消えた時代とも言える。この時代のハスモン朝は最盛期にあり、ヒュルカノスⅠ世以降は大祭司にしてユダヤ王である地位を持っていて、サマリアばかりかイドマヤまでも統治し、改宗させていた。この頃、大ヒレルがユダヤの教学院で学び始めている。強いヘレニズム文化の影響が吹き荒れる中、ユダヤ教は国際的に自らを高める必要に面していたことが窺える。様々な名を持つ神々が伝えられる中で、「至高の神」とだけ称して固有名を名乗らない方が、超越的に捉えられたのではないか。ヘレニズムやローマでは神々の習合が頻繁に行われており、YHWHもゼウスやユピテルなどに同定されかねない危惧をユダヤ人は感じたとしても不思議はない。周囲を埋め尽くす多神教の脅威に一神教が対抗するための方便であったと言うのは、的外れでもないように思えるが・・



⇒「神名浄化の至上命題 ハ シェム ハ メフォラーシュ





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