Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

メギラーからmemo

メギラー篇の補遺   ⇒ミシュナーの構成

ミシュナー2の後のゲマラ
ラビ エリエゼルは言った「わたしは人々が(捕囚から帰還した時代に、第二神殿の)聖所を建てていたとき、彼らは聖所と神殿のために幕を作ったと聞いた。しかし聖所には、幕の外側に(聖所の壁を)作り、神殿の庭の場合には幕の内側に(中庭の壁を)作った。」
ラビ ヨシュアは言った「わたしは(現在は)聖所が存在していなくても(その場所で)犠牲を捧げることができる。また(祭司たちは)幕がなくても最も神聖なる食事を摂ることができる。また聖性に於いて劣る食べ物と第二の十分の一税は、(現在エルサレムの)城壁がなくとも食べることができる、ということを聞いた。これは(ソロモンによるエルサレムの)最初の聖別は、一定の期間だけでなく、以後、永遠に亘って(エルサレムに与えられたからである)。」
(引用したミシュナーの分析)
このことからも、わたしたちはラビ エリエゼルが(エルサレムの最初の)聖別は永久的なものではなかったという見解であったことを推論することができる。
ラヴィーナはラビ アシに言った「この推論の根拠はいったい何か。そうではなくて、(エルサレムの)最初の聖別は、そのときの一時期与えられただけでなく、、恒久的に与えられたという教えについては、おそらく全員が合意したのではなかったか。そのうえである師は自分の聞いたことを報告し、別の人はまた自分の聞いたことを報告したということだ。その場合、なぜラビ エリエゼルによれば幕が必要だったのかと尋ねるならば、単に人目をはばかるためである、と答えることができる。」
たとえそうだとしても、これらのタナイームと異なっているのは次のタンナである。
というのはバライタに次のように教えられているからである。
ラビ ヨセの教え子ラビ イシュマエルは言った。「賢者たちはなぜ(特に)これらを(ヨシュアの時代から城壁に囲まれた城市の例として)数えたのか。これは離散の民が上ったとき、(ミシュナーに教えられている)これらの城市が(まだ城壁に囲まれている)のを見て、これらを聖別したからである。しかし、(他の城市は)土地が聖性を失っていたためにこの特権を失ったのである。」このことからラビ イシュマエルは最初に与えられた聖性は一時的なものであり、永久的なものでないという意見であったことが分かる。


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ユダヤ教の考え方

まず、Teffilinは Shemaを文字通りに行うことを目的としている その意味は「祈り」(テフラー)から来ているEx13:1-10、11-16、Deu6:4-9、11:13-21が4枚の羊皮紙に細かく記されている
『あなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(Deu6:8-9)
<しかし、これは目の間に置くとは額を表し、「常に念頭に置くべし」であり、手にくくりとは「行いに表すべし」と意味している。門口に記すとは「家に居る時も外出している時にも、銘記され二面性があってはならない」の意である。これを文字の表層通りにするとしたら、それは敬虔をひけらかすことではないか。>

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ユダヤ教徒の祈りへの認識

祈りは鬱積した感情を解放し、はっきりしない考えを具体化し、意志の力を奮い起こすなど、大きな精神作用を及ぼすものとなる。
祈りへの認識はユダヤ人の間でも、最大主義者と最小主義者の間に開きがある。
前者は、祈りの過程は純粋に自然なものであり、神という概念に人間が示すまったく正常な反応であるとする。後者は、神からのものに満たされ、自然の法則を遥かに超えた体験となるという。
前者は、祈りが物質的な世界に働きかけるのは人間の力によるものだ。とする一方で、後者は、人間から離れた部分や事柄にも直接の影響をもたらすとする。
超最大主義者ともいうべき人々にとって、自然のすべても神の道具に過ぎないので、奇跡も不可能でないという。
<この点で、ユダヤ教徒には広い範囲にばらつきがある。>

ユダヤ教では、一挙手一投足男子に律法の日々の規律を厳格に求めるが、女性に対してはほとんどを免除する。この理由として、家事への影響があると唱える人もいる。男子のように律法に縛られていては、家事が停滞することは目に見えているという。

男子は一日に三度の正式な礼拝(シャハリート・ミンハー・マアリヴ)を守るべきであり(ミンヤンが必要)、ティフェリンを外すまで食事を採ることができない。
生活のすべての場面で祝祷を持つことが命じられているので、彼らはその節目節目で神名を思い起こさねばならない。(当然、発音は求められない。しかし何と念じるか?)
朝に覚醒してから、どんな事を行い、どんな知らせを受けても、その都度短いながらでも祝祷されなくてはならない。それは床に就くまで継続する。(cf: パウロの書簡中の祈り)

ミシュナー・トゼファタ・タルムードのベラホートには「食前の祈りなしには何も食してはならない」これはユダヤ教徒には厳重な戒め(戒律)とされている。
そこで、イエスの祈りが感謝の色彩の勝った神の救いを想起させるものであるという見解には何の根拠も残されない。

<この習慣性が却って神との関係を無意識的なものにしたことをイエスは論駁したのでは?>

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דודקמחי ダヴィド・キムヒ (1160–1235) ラダクの略称で呼ばれる
プロヴァンスのナルボンヌ生まれで父ヨセフと兄モーシェはユダヤ教学者で彼は末息子
ヘブライ語作品の研究と文法の学者としてその著作は広くキリスト教徒にも用いられた。
代表作”Sefer Hashorashim”[ספר השורשים] これはKJV訳者らに有益と見做され用いられていた。
マイモニデスが父の世代に近くほぼ同時代とも言えるが、彼はマイモニデスの忠節なシンパであった。
彼はキリスト教徒との討論にも参加し、解釈についてユダヤ教ヘブライ語の観点から議論している。
その過程でキリスト教徒にゲーヒンノムの実体について教えている。
<その情報は彼以前からのものと思われるが未確認>

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EX25:29
וְעָשִׂ֨יתָ קְּעָרֹתָ֜יו וְכַפֹּתָ֗יו וּקְשֹׂותָיו֙ וּמְנַקִּיֹּתָ֔יו אֲשֶׁ֥ר יֻסַּ֖ךְ בָּהֵ֑ן זָהָ֥ב טָהֹ֖ור תַּעֲשֶׂ֥ה אֹתָֽם

[וּקְ שׂ!תָ יו]⇒ そして彼のための聖杯 "chalice" 
[וּמְ נַקִּ יֹּ תָ יו]⇒そして(彼が)注ぐための鍋"waste-pan"

注ぎ出す捧げ物のための「鉢」(液体容器、水差)

捧げ物用の鉢は純金で
香の祭壇の灰を処理する器具の鉢は銅で(EX27:3)

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新教徒との論程

・聖書に正しく従えばその人は正しいか?
自分たちは聖書に正しく従っているので正しい
ならば、正しく行う者は他の派でも皆正しいことになる
いや、正しく行えているのは自分たちだけである
では、どのように正しく行えているか
聖書が命じていることを正しく解釈し全てそのままに行っている
では、それは「行いの義」か
いや、聖書を信仰しているのでその通りに行う
聖書を信仰するとは聖書が信仰の対象なのか
いや、聖書は神の言葉なので神を信仰している
聖書は絶対なのか
神の言葉は霊感されているので間違いがない
では、ユダヤの指導者層が聖書に従ってイエスを殺害したのはなぜか
彼らは聖書に人間の命令を付け加えていた
メシアがナザレから来るというのは付け加えではなく不足だ
いや、聖書は真の崇拝者に必要な事は全て書かれている
その証拠は何か
幾つかの聖句にそう書いてある
では、なぜ自分たちだけが聖書の通りにできて他はできないのか
神の是認がないからだ
なぜ、是認がないのか
聖霊が注がれていないからだ
では、なぜ他には聖霊が注がれないのか
正しく聖書を理解しその命じることを行わないからだ
では、他も聖書に正しく従えば聖霊を受けるか
他は聖書の通りに行うことはできない
なぜか
神の是認がないからだ
なぜ、是認がないのか
聖霊が注がれていないからだ
では、神の是認や正しさは聖書に従うかではなく、まず聖霊の注ぎから始まっているではないか 
つまり正しさとは人の行動に由来せず神からのものと云える
だから実際はともかく、あなたは「自分が聖書に従っているから正しい」というのではなく「聖霊が注がれているから正しい」と言うべきだったのだ

「我々は正しく行為したからといって、必ずしも正しくはなりはせぬ。義とされているからこそ、正しきことを為すのである。
ルター「哲学者への抗議」奴隷意志論

だが、あなたはその結論を心外に思うだろう
その原因といえば、神の言葉を神以上のものにしてしまったところにある
神の言葉は神そのものではないからだ

多くの「クリスチャン」が聖書を絶対視するのは
それだけ自分と神が隔たっていることを認めてしまっているのだ

神との聖霊を介した繋がりを証明できず、自ら不安視していることが聖書への傾倒に出てしまっている。
ほかに頼れるものが無いからだ。






まして
聖書には多くの罠が仕組まれている
ヘセドやアガペーに反する者を捕えるための









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