Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ハグ ハ スッコートに込められたもの

聖書中ではハグ ハ スッコートだけでなく『取入れの祭り』(出埃23:16 )『主の祭り』または単に『祭り』とも記された。
ヨセフスはヘブライ人最大の祭りと述べ、プルタルコスは「バッカスの祭典に似る」という。

タルムードでの「スッカー篇」は第二巻「モエッド」(季節or祭)の第六篇に当たるが、この篇ではハグ ハ スッコートに関する規定と意味が扱われる。(以下、スッカー篇から)
祭りはテシュレイの15日から7日の間行われ第一日は「良き日」[ヨム・トッブ]であるが、八日目の第二(シュミニ)アツェレトとして独立しているかのように扱われる。現在はスィムハット・ト-ラーと共に締め括られている。
第一日[ヨム・テルア]にはトーラーに従い、立派な木の実、ナツメヤシの葉[ルーラヴ]、茂った木の枝、川柳[アラヴォート]の枝を取ってきて・・七日の間喜び祝う。(Lv23:40)
第二神殿時代には、ルーラヴを振り回し、祭司は柳の葉で飾った祭壇をハレルを歌いつつ周回したという。その伝統が今日での四つの植物[アルバア ミニーム]による祭礼の方法に見られる。即ち、ルーラヴ、ミルトス(ハダスィム)の三枝、アラヴォート、エトログ(シトロン)の実、の四種類。(Neh8:15)
今日でも七日間、賛美が唱えられるが、その前からルーラヴを上下四方に振り回す。またバーマーを周回する間にはホシャナーを唱え、その結びになる度に「我らを救い給え、ホシャナー」と唱和する。
七日目はホシャナー ラバー(大ホシャナ)と呼ばれミシュナー時代には、「柳の枝の日」とされていて、祭司が祭壇を七周してから、柳の枝で地面を叩いた。(何回?)柳の枝の祭儀を七日間というのは、七日目が安息日でも安息日の規定を差し止めて行うことができる理由は、ラビ ヨハナンによれば、「祭りの儀式がトーラーによることを表すためである」もし、そうなら、ルーラヴについては(毎日行うことが)安息日の規定を差し止めることをどうして表さないのか?・・・以下、安息日の規定と柳の枝とルーラヴの扱いとが延々と論議される・・・
(第四章)ただ、アバイェは「毎日、人々は祭壇を一度巡って『どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。』というが(柳の枝の祭りの第七日だけは祭壇を七回周る)。」と。但し、そのときに柳の枝を持つのかルーラヴを持つのかで、また議論が始まる・・もし、第七日が安息日に当たったなら、人々は前日に柳の枝を持参し神殿の中庭に置いておく。(論議の途中でこれはモーセへの口伝であったと言い出す場面もあり<ラビ ヨハナンがベート ハヴァルタンの野に住むラビ ネフニヤの名に拠って>しかもラビ ヨハナンは本当にそう言ったか言わないかと論議がある)
「水汲みの義」は祭りが終わってから行われた。(八日目?他の資料では第二と第四というが?いや、「水汲みの儀」は安息日以外毎日だったらしい)今日ではこの日にスィムハット トーラーが行われている。(この八日目を違えないためにディアスポラでは九日目にも行われたと)

スッカー第三章にはルーラヴの長さが規定されており、「振るのに充分な長さ」が「3トファ」とするが、ラヴ ユダはシュムエルの名によって語り「ミルトスとアラヴォートの最小限の長さは3トファであるが、ルーラヴは4トファである」としている。しかし、ラビ パルナハはラビ イライの子のラビ ヨハナンの名に拠って「ルーラヴの幹がミルトスより1トファ飛び出している必要がある」と語ったと・・(この後も長さについてラビたちがあれこれと語った様が書かれている)
ミシュナー12;はじめに(「昔は」の意)ルーラヴは七日間神殿の中に飾られ、地方では一日であった。
聖なる家が破壊されてから、ラバン ヨハナン ベン ザッカイは、神殿を記念して、ルーラヴを地方でも七日間掲げる規定を布告した。ゲマラでは神殿の再建が何時になるか(ペサハの時期を想定している)によって初物に与るべきか否かを論じている。<ベン ザッカイは神殿が遠からず再建される希望を持っていたことが分かる>
ミシュナー13;祭りの初日が安息日と重なった場合、すべての民は彼らのルーラヴを(その前日に)会堂に携える。それは「人は祭りの初日に仲間の所有するルーラヴを(借りて)振っても、義務を果たしたことにならない」と賢者たちが言ったからである。しかし、他の日であれば、義務を果たしたことになる。
ゲマラ;かつて次のようなことがあった。ラバン ガマリエルとラビ ヨシュア、ラビ エリエゼル ベン アザルヤとラビ アキバが船旅をしていたがルーラヴを携えていなかった。ただラバン ガマリエルだけは1000ズズで買い求めたルーラヴを携えていた。彼が自分の務めを果たした後に、ラビ ヨシュアに贈与し、ヨシュアはそれを用いて務めを果たした。ヨシュアはそれをラビ エリエゼル ベン アザルヤに贈与し、彼もそれを用いて務めを果たし、それをラビ アキバに贈与した。ラビ アキバもそれを用いて務めを果たし、ラバン ガマリエルに返した。・・・これが書かれたのは、掟を実行することが如何に大切かを知らせるためである。<ではユダヤ最大の祭りの最中に旅に出ていたのか?>

八日目の独立性については、ラビ ヨハナンは「祭りの八日目、大集会の日に、人々は季節の祝福を唱えるが、(別の意見では初日)七日目には唱えない」また「八日目は別個の祭日であることを知るであろう。それは三つのことで区別される。即ち、仮庵の使用、ルーラヴを振る儀式、そして献上水の祭儀の三つである」第四章(しかしラビ ユダは違う意見)そこから無酵母パンの祭りとの相関性も書かれるが、第一日ではなく第七日について論じている・・
⇒「シェミニ アツェレト

献上水については 第四章
ミシュナー9;「3ログ入る(金の細口の)水差しにシロアムから満たしていた」と
「彼らが水の門に達したときにショファールを長く、それからヴィブラートをかけて、そして再び長く吹いた」(それから祭司は南側にある)坂道を上り、左(南西の方角)に曲がった。そこに二つの銀の器があった。(ラビ ユダは「1ログの水を毎日、献上水として捧げていた」)献上水の祭儀を行う祭司に、人々は「あなたの手を高くあげてくれ」と言う。(ある年、祭司が自分の足に水を注いでしまったことがあり、人々は全員でその祭司(サドカイ)エトログを投げつけた)
ミシュナー10によれば、「週日の祭儀は安息日のように行う。しかし、安息日の前日に限って、シロアムからの聖別していない水を金の容器に満たして、神殿の一室に安置していた。しかし、注ぎ出すか、露わにしていた場合、(中庭の)海から満たしていた」
ゲマラによれば
『喜び[サソン]と楽しみ[スィムハー]が彼らを迎え』によって異端の言説があったと(言うのだが・・)
また、タンナーの権威によって言われるとして「祭壇に上る者はすべて右側を上り、祭壇をまわって左側から降りる。」しかし、例外があり、トフセタでは、「水と葡萄酒を捧げるとき、祭壇の東側が混んでいて燔祭の鳥を捧げるときである」
祭壇(の近く?)には穴があり、それは淵に下っている。レーシュ ラキシュは「葡萄酒を祭壇の上に注ぐときには、(祭壇の下の)にすぐに流れ込まないように栓がしてある」と言ったと
この章では詩篇47:10の『諸国の民から気高き(自由の)人々が集められアブラハムの神の民となる』の句についてラヴァの見解を述べ「それは気高き人と呼ばれた我らの父アブラハムの娘のことである」と言っているのだが・・・

なお、「ハ ショエヴァー」の語源については諸説あるようで、ゲマラはそれらを第五章で羅列している<Hashoeivah>
しかし、ミシュナー1aによるとその言葉は場所を表していて、現在は神殿のどこであったのかは不明とされている。ラヴ ユダとラヴ イナは「一人は汲み上げる場所がショエヴァーであると言い、一人はハシュヴァーと言う」これについてマル ズートラは「どちらも混同しているわけではない」と言い、Isa12:3を引用し「・・救いの泉から水を汲む[シャアヴテム]と書いてあるから」また「それが重要な[ハシュヴァー]掟であるから」と言う。
この祭儀は毎日行われた痕跡として、縦笛の吹奏があり、五日間、また六日間行われたと<ミシュナー1a>この後、ラビたちは音楽の本質が器楽にあるか声楽にあるかを議論している・・
ラビ メイルによれば、「神殿での楽器の奏者は祭司の下僕であった」
ラビ ヨセは言った「彼らはベート ハ ペガリームの一族とベート ツィポリアの一族であった。彼らはエマウス<ティベリアに近い>の出身であり、娘らを祭司に嫁がせた」(もしそうなら、声楽が主体で器楽が副となるがよろしいか、とも)するとラビ ベン アンティゴノスは「彼らはレヴィ人であったと言う」・・・この水汲みの祭儀での歌は安息日の規定を差し止めるか否かが論議される・・・

有名な「ベート ハ ショエヴァーでの歓喜を見たことのない者は、生涯の内で歓喜というものを見たことのない者である。」というのは第五章のミシュナー1bに有る。<他の資料と総合すると、水汲みは朝に行われるが、ベート ハ ショエヴァーそのものは夜間であることが分かる>

ミシュナー2;祭りの最初の日の終りに、祭司とレヴィ人らは婦人の中庭に下る(ミドットによると15段)そこで彼らは(男を下に女を上に割り振る)大きな規定を制定した(シュナゴーグの初期がそうだ)そこには金の燭台があり、それらの登頂に四つの金製の皿があり、それぞれの燭台に(四つの?)梯子がついていた。(タンナの権威によって指示されている。燭台の高さは50アンマあった。<これは誰が言ったのかよく分からないが場所としてはラヴ パパに相当する>)
祭司職の若者の中からの四人は油が120ログ入っている壺を手に持って(梯子を上り)それぞれの皿に油を灌いだ。
(彼らの手には30ログ入る壺があり、全部で120ログである<これは誰が言ったのかよく分からないが場所としてはラヴ パパに相当する>)

ミシュナー3;祭司たちの古い下着や帯から裂き取って灯心を作り火をともした。エルサレムにはベート ハ ショエヴァーの光によって照らされない中庭は存在しなかった。


ミシュナー4;敬虔な人々と善行をする男たちはその(燭台)の前で踊った。彼らの手には燃える松明があった。彼らはその前で歌い賛美を唱えた。
レヴィ人たちはハープとリラとシンバルとラッパと数えきれない楽器を奏でた。・・・
鶏が鳴くとショファールを長く、それからヴィブラートをかけて、そして再び長く吹いた。彼らは彼ら(参列の男たち)が東の出口の門に達するまで長くショファールを吹いた。そして彼らは言った。「この聖なる場所におられる主の神殿を我らの父たちは背にして立って、顔を東に向けた。そして東方の太陽を拝んだ。しかし、我々は目をヤハに向ける」と
ラビ ユダは、彼らは二度目には「我らはヤハのもの、我らの目をヤハを向く」と言ったと <この意味については諸説の議論が書かれている>
祭礼の全体で何回のラッパが吹かれるべきかについても諸説あり、ラビらの説が羅列される。


第二章ゲマラの中で;ミシュナーは「女、奴隷、子供には仮庵の義務から解かれている」とされ『すべてイスラエルの内に生まれた者』Lev23:42との矛盾はないとする。ミシュナー;スッカー:2:8
しかし「母に依存することのない子は掟を果たさねばならない」とも
では、そこで「母に依存することのない子とはどういう子供のことか?」ラビ ベン ラキシュは答えて曰く「(自分で)目覚めることが出来、「かあちゃん」と呼ばない子供のすべてである」そこで反論あり「大人でもかあちゃんと呼ぶ#輩が居るではないか」・・・・w #多分、目覚めてから
このあと、雨が降ったらどこで掟が解かれるかの議論・・雑炊がダメになるまで云々・・・


ユダヤには儀式的沐浴があり、その水は人工的に集められたものであってはならず、自然に集まった水の中に身を沈める。これを規定したトホロートはパレスチナ以外で守ることは難しい。自然に集まった水は『生きた水』という。貯水槽の水はそうは呼ばれない。泉や川から汲まれた水でなくてはならない。(Ezk.Zec.Revの水がそうでは?ヴェート ハショエバー?)


所見:ラビらはなぜ止め処も無い論議を続けるのか?それはどうやら、キリスト教の祈祷書の朗読や、仏教の念仏や声明のような効果があるらしい。つまり、宗教的雰囲気や敬虔さに浸っていられる時間の創出のようらしい。
そこで、外部からすればたいへんに非効率である文書に却って意味が出て来ることになる。むしろ、非効率さが膨大な時間を生み出し、与えられた経典の言葉を触り回すことで、聖なる事象に関わっている自分たちに心酔することができる。だが、そこで聖典の授与者との意志の疎通は重要ではなく、神を聖典の中に押し込め、偶像化して拝み崇めていることになる。

これはユダヤ教が神殿祭祀を行えなくなり、かつての神殿での祭祀がどうであったのかを議論することで、失われた律法に従い、口頭伝承に描かれた古き良き日々に思いを馳せ、年毎に回想しつつ、それを会堂での小規模な儀礼に模型を見ては慰めを得ているようである。
タルムードが随所で示している事は、第二神殿時代のことでさえ不明になってしまっていることが多く、ラビらの延々と論議するのは記憶はおろか伝承も途絶えてしまって詳細を語れなくなっているという現実であり、タルムードの記述を証拠に何かを語ることには聖書のような信頼性はなく注意を要する。
その後のユダヤ教については、会堂ではいくら古式を模しても、捕囚期のようですらない異なりがあることは否めない。そこで聖典の授与者との意志の疎通は重要ではなく、神を聖典の中に押し込め、聖典を絶対化して偶像化し、その周囲であれこれ些末なことを議論しつつ拝み崇めていることになる。ユダヤ教には依然として終末のメシアによる回復が待たれているかのように聖書が読めるかもしれないが、それらネイヴィームの言葉は、肉のイスラエルを離れ、神のイスラエルというキリスト教徒の中の聖徒に起り、彼らが奇跡によって継承するものであり、もはやユダヤ民族に残された格別の恩寵は特に無い。これまで存続して来られたのも、終末での一働きが残っているからであろうが、その業そのものは絶望に向かう道であり良いところは少しも無い。できるなら、熱狂的な仲間のユダヤ人を離れ、冷静に神の業を眺める環境を自分に整えるなら、その人がユダヤ人であることで幸いを得ることもあると思われる。

神殿の喪失の以後にミシュナーの編纂が進み、その後、会堂が崇拝の場としての機能を代替する歴史の中でタルムードが完成してゆく状況が、その必要に応じてタルムードの内容を形作っていた様がよく分かる。やはりユダヤ教徒からすれば、メシアが遅すぎるのだろう。それでもたとえ彼らのメシアが現れても、モーセが命じたようにはそのメシアを受け入れる素地は、このタルムードの精紳からして持っているとは言い難い。
それはキリスト教にとってキリストの再臨が遅いのと同様であり、彼らも聖書の周りで非効率な論議に終始している。その基を据えたのが、ルターの「聖書のみ」なのであろう。最初はエズラのようであっても、やがてタナイームやらパリシームやらに相当する「指導者」が現れてくる。こうして眺めると、双方共に相似形が見えている。
ユダヤ教は初臨のメシアを退け、キリスト教は再臨のキリストを退ける構図が見えている。聖典をいじり回している内に、戻り難い人間の伝統宗教を打ち建ててしまい、聖書を書き終えられたものとして神の行動を想定して来なかった。だが、どちらも奇跡の偽メシアに遭遇することになろう。

だが、仮庵の祭りの本旨とするべき内容が垣間見える。しかし、まだはっきりとはしない。ヨム キプルとの関連、またヨベルの真意を探る必要がありそうだ。<ペサハの時期に比べ、スッコートの時期はエルサレムの平均気温が10度ほど高い>






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