Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

カトリック布教の遅れたブリトゥンの事情

第八世紀まで十四日主義者が居たという件ですが

中世ブリトゥン島は、多様な色彩を見せるかのようにキリスト教が一色ではありません。
第三世紀のアレラーテ会議にカンタベリーなどブリテンから三人のローマ派司教が参加していたとの記録があり、この時代に島の南部にキリスト教が達していたことは明らかです。
伝聞によれば、早くもティベリウス帝期にキリスト教はブリトゥンに達していたとも言われます。

しかし、その後は王朝の交代などに伴いカトリックと従来派とのオセロゲームの様相を見せていた様が伝えられています。または、野球の攻守交代、つまり支配者が代る度に「チェンジ」が行われていたかのようです。(ブリテンとキリスト教

それは、アイオナ島の修道院を拠点とする旧来のケルト教会派と北進してくるローマ・ヴァチカンからの勢力のせめぎ合いの場でありました。

しかも、古いアイルランドに由来するキリスト教は三一派でなかったと聞いております。
ケルト教会の方がカトリックを圧倒していた時代があり、それも西欧沿岸部からドイツ方面に進出していたというのは、あまり聞かない情報でありますが、そのあたりを触れられたくない三一諸教会の事情もあるのでしょう。
そこでニケア信条以前のキリスト教の残存があっても不思議はないでしょうから、14日遵守も有り得ないことではなさそうです。
あと、気になるのはユダヤ人の動向なのですが、スペインには確実に到来しており、ブリトゥンにもそれなりに居てもおかしくはないと思うのですが、ブリトゥンの治安や安全という面で考えると、ローマの撤退後にヴァイキングやらノルマンやらに襲撃を繰り返されていますので、わざわざ行く所ではないようです。(塔の避難所の入口の高さが侵略の脅威の大きさを物語っています)
そこでユダヤ人が居ないような場でどのように14日を計ったかに幾らかの問題も感じますが、月齢で判断していたのかも知れませんし、曜日分けで聖別していた可能性もあります。これはエイレナイオスのような古代人からして、当時でも明確な取決めがなかったと述べています。


さて、十四日遵守の痕跡の直接的な証拠としまして

ローマ派のヨーク司教ウィルフィード[Wilfird(633c-709c)]なる人物が、彼の反対者と復活祭の日付を巡って争ったという記録があります。(ウルフィラスに似てますね)
ただ年代は664年ということですが ⇒ Synod of Whitby

この事情はWikiの「十四日主義」でも見られます→Quartodecimanism "Regacy"

Wilfrid, the 7th-century bishop of York in Northumbria, styled his opponents in the Easter controversy of his day "quartodecimans",though they celebrated Easter on Sunday.


これを近代の学者連は十四日派の残党であろうと観ているというところに8世紀まで十四日派が存続した根拠があるということです。


ですが、ご存じと思いますが、十四日派への異端宣告はアンティオケイア会議(341)で、カトリックローマ帝国の法で地歩を固めるよりも40年ほど古いですし、早くも第二世紀初頭でアンティオケイアのイグナティオスが小アジアの習慣を「古い習慣」として(おそらく十四日遵守を)批判しておりますので、一神論よりずっとはやく退けられていたものに思えます。
既にニケアーでパスカの日付の決定がアレクサンドレイア司教に委ねられていましたが、これは日曜を主日とし、春分後の満月の次に来る主日にパスカを行うもので、しかも夕刻に日付けの変わる暦ではありませんでしたし、この論題は一神論のように尾を引いておりません。

⇒ 参考

十四日主義が残っていたとすれば、ニケアーを超えて、それ以前のウルフィラスに比べるほど古いキリスト教ブリテン島に残っていたことにはなります。少なくともカトリック式の「コンプトゥス・パスカリス」(Computus paschalis)で日付けを定めない主の晩餐を行っていたということは言えるのでしょう。


しかし、第8世紀のヨーク周辺(ノーザンブリア)にどんな形で十四日主義が残っていたのかは定かでありませんし、単にカトリック方式ではない「主日」を守っていた可能性もあるのではないかとも思えますが、中世初期に於ける非カトリックケルト教会の勢いは大陸に達し、オランダからドイツに迫る勢いであったとのことで、ケルト教会でなかったことを考える方が難しいくらいなのかも知れません。

それでも、中世ブリトゥンは何が出て来るか予測も着かない意外さが期待できそうです。この辺り、現状で誰かが何か断言できるものでないようです。島の北辺に行くほど伝説の要素が高まるようです。ただ、ドルイドとの確執はあったものの、やがてドルイドたちもがキリスト教に改宗し、ブリトゥン島よりはアイルランドの方がキリスト教の事情は安定していたようで(アイオナ・アビーはアイルランド由来)、初期アイルランドは西欧沿岸に宣教者を派遣するほどであったそうです。この勢力はカトリックではありません。アイオナ修道院

しかし、古代のエイレナイオスやエフェソスのポリュクラテースのような理解を期待することはまずできそうありません。キリスト教は第二世紀に一度出来上がり、その後は聖霊を失って後退を続けたために、時代が下るに従い劣化したからです。
それでも、「カトリック教令」の以前の姿のキリスト教が欧州辺境に命脈を保ち、それがカトリック布教の遅れた地域で8世紀に至るまでその教理の残像を残していたというのは有り得ることでしょう。




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パトリキウス(c.387-461)(聖パトリック)
ウエールズ生まれで本人の告白では16歳のときアイルランドの海賊に拉致され奴隷に売られ6年間を羊飼いとして過ごす。
その後「声を聞き」、脱走して長距離(200マイル)を歩いて逃れ、船に乗ってウエールズに帰還。(同行者と共に飢えたとき祈るよう言うと猪の群れに遭遇し尊敬を得る)
やがて改宗して、432年には教皇からアイルランド宣教を命じられ、同年に赴任(とされる)。
三つ葉のクローバーを用いて三位一体を説いたと伝承される。(アイルランドには三面相の女神が複数存在していた<ベル神?>グレート・ドルイドも三人;アイルランドのベルはカルタゴのバアルとされる)

コルンバは563年に12人の同僚と共にアイルランドからアイオナ島に来て修道院を建てた。
ピクト人とスコット人への宣教の要となった。
修道院は当初木造であったものの、度重なるバイキングの侵略を受けた後、800年ごろに石造りに代えられたと伝えられる。
コルンバは多くの修道院を建設したものの、本拠はアイオナに置いていた。
しかし、アイオナの修道士たちは大陸に渡り、ベルギー、フランス、スイスに修道院を造っている。
1203-4年にかけて、ノルウェー王の介入により、跡地にベネディクト会、またアウグスティヌ会の修道院を建てるよう命じ、それによって当地のコルンバからの流れは断たれた。
その後、宗教改革期にそれらの修道院も荒廃し、現在の修道院は1938年以降というごく最近に再建されたものとなっている。
しかし、敷地外にある聖マルティヌスの十字架はケルト様式で800年代のものとされている。
(なぜ三一派の聖マルティヌスがここに出て来るか?何かの痕跡を抹消したのでは)
<十字架についてはアイルランドでもかなり古くからあるがラテン十字ではない。ケルト風のものは何かドルイド系の文化が混じったらしい。
また、「三つ葉のクローバーを用いて聖パトリックが三一を教えた」という伝承は「どうも変だ」と思えるところ、疑わしく思えるのはカトリックからの任命を本当に受けたのかというところ>
比較的新しい7世紀の伝承はパトリキウスとパラディウスを混同するほどで信憑性は薄くなる。




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