Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

普遍的に存在する経典依存の宗教

トーラー信奉者であっても「クリスチャン」の聖書主義者であっても、共通するものがある。

即ち、書物の理解や規則の遵守が「正しい生き方」をもたらすと信じていること。

これは、別に仏典だろうとクルアーンであろうと基本的に変わらない。
これを総称してなんと呼ぶか?[経典依存]?
経典依存は、「正統」を問う内に到達するもので、「経典が正統の根拠として書かれた」という前提を要する。しかし、経典そのものには罠があり、ユダヤの宗教家はそれにはまってメシアを退けた。従って、経典は宗教の正統を担保しない。
キリスト教の正統を担保するのは聖霊以外にない。それを経典が支持することはあっても、経典は神の働きそのものではない。


当然、経典に関わるそこで優越感を得ているはず。
そうでなければ、経典に拘るつもりは初めはなく、あるいは拘っているうちにそうなったのか分からないが、これは人間に共通する弱点で、どの宗教にも見られるのだろう。

周囲との差別化による聖性の確保だが、実態は心理作用だけの、ヒステリックな自己義認という程度だろう。
だが、アダムの罪がそんなことで解けるはずもない。
パリサイ派の愚を知りながら、何度も繰り返しところは、もはや人間の宿痾か?

それでも、宗教を信奉する人々は今日も経典依存から離れられない。
このご利益崇拝の背景は、実は神が不在だからだろう。

本人の居る前で手紙ばかりを読むだろうか。


マラキ以後、また神殿喪失後のユダヤ教を見れば明らかなように、去った主人の残した文面に拘る以外に方途なく、その読込の仕方は異様なまでに没頭している。
そのユダヤ文化に飲まれる「クリスチャン」というのは、自分のものを持たないから、却ってその異様な読込のユダヤ文化に魅力を感じるのであろう。持ちつ持たれつ。
経典依存と経典探求の異なりは、探求が神理解に向かうのに比べて、依存は状況倫理のように、人の行動を規制しようとするところにある。トーラーはそもそもイスラエル人の行動を規制する条項で成り立っていたが、ハラハー、ミシュナー、タルムードと進んでゆく過程は行動による神への宥めをも越えてしまい、単なる自己義認に向かっている。そこでは神を知ろうとする動機は失せ、自分が神に認められるか否かに置き換えられている。
神を理解することと、神に是認されることでは、人に正反対の動機が働くことになる。これを何と呼ぶべきか?
ところで、多くのキリスト教宗派は、新約聖書中の道徳律を新しい契約と関連付けて捉えているのだろうか?それとも善行の代価が神の是認や天に召されることと捉えているのだろうか?(おそらくは新しい契約は何かと尋ねるなら、かなり的外れな返答をもらうことになるのだろう)

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R,ベーコンは「キリスト教の真理は、ヘブライ語を知ることによって得られるもので、ヘブライ語は知恵への第一関門である」と説く
彼の主張は、ユダヤ教の伝承とは切り離されたものであったが、中には、ボシャムのヘルベートのように、(D.1190)ヘブライ語の造詣も深く、ラシの注解もよく解する者もいた。
ヘルベートはSt,Victor修道院(仏)でヘブライ語を学んだ。そのほかにもこの修道院を中心に活動したヒューやリカルドスがいるが、特にアンドリューはヘブライ語に優れ、ラシやラシュバムなどを引用しつつ、聖書テクストの歴史的意味を尋ねた偉大なヘブライストであった。こうした努力は十四世紀初頭のニコラス・デ・リラに引き継がれ、ラシの注解もキリスト教界に広められた。
十七世紀は欧州思想の転換点となり、スピノザ、ラ・ペール、ホッブスらによる聖書価値の相対化の重要性はまことに大きい。
しかし、スピノザホッブスやラ・ペールを同列に論じることはできない。後者二人は合理主義に基づく宗教権威の否定に向かったが、スピノザは聖書の伝統的解釈に対して批判を加えていたのである。
中世ユダヤ教学者は、プシャットとデラッシュとのふたつの概念に分けて考えた。デラッシュは、ミドラシュやタルムードのような伝統的解釈であり、ハガターやハラハーを教える。
(ハガターには、「テラハの家業は偶像の製作販売であった」というものまである<多分テラッハの名が「テラフィム」に近いところから>)
こうしたハラハーが認められるのはなぜかと云えば、「ラビが読み手としての関心と疑問について聖書の言葉から回答を得ようとした結果である」という(出展;Y,M.Grinz:Meboei Mikra158-176/Z.Shazar;Mipardes ha-Tanakh1979)28-72

(プシャットに何が属するかについてはスピノザまで700年も論争があり、言語的証拠を追求したイヴン・エズラ11世紀、と徹底した合理的判断をしたマイモニデス12世紀が居る)ユダヤ教の最盛期はこれらプシャットの追求の時代であったと。ラシ:11世紀からイタリアのAbarvanel:15世紀を越えてスピノザが壁を築くまでに至る。

所見;スピノザが単なるユダヤ思想家の枠を超えたのも、その思想自体が反宗教的であったこと、そして時代背景が、欧州のキリスト教全般への批判が潮流となっていたことにあると思われる。または、スピノザそのものが、最初からその流れの中で生まれていたからなのかもしれない。(レンズ磨きとは、何というアレゴリー

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[二本の木]に関して

その選択は二本の木が並列されたものではなく、「善悪を知る木」についての(食すか否かの)二択であった。
もし、二本の木がはじめから並列的選択の対象であったなら、どちらを食すかになったのか、であれば、アダムにもう一本の木が「永遠の命の木」と知らされていたのであれば、彼は災いを選ばず、「永遠の命」を選び取っていたに違いない。まさしく、神は試みの後に、その木への道を閉ざしたのであり、それが失楽園の原因であったかのようにも原初史は読める。
そこで、「善悪を知る木」は「永遠の命の木」の前に立ちはだかる選択を作っており、二本の木は縦列的な意味において配置されている。
黙示録中で、人々が「永遠の命の木」に至る様が描写されているが、これはアダムとエヴァの受けるものとは成り得ず、黙示録中でも、それを受ける人々が何者かについては判然としていない。ただ、世の裁きを経た後の事とされている。
世に在った人々についての「永遠の命の木」の前に立ちはだかる「善悪を知る木」が何かと言えば、倫理についてどのように決定するのかということであろうし、それは第一に神との関係性に於いて問われるべき理由がある。「神と人を愛せよ」はその一事に込められるのであろう。「愛する者は神と結ばれ」「永遠の命を持っている」も、これを補強する。

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[ διαβολος ]
devil 35, false accuser 2, slanderer 1; 38 1) prone to slander, slanderous, accusing falsely 1a) a calumniator, false accuser, slanderer, 2) metaph. applied to a man who, by opposing the cause of God, may be said to act the part of the devil or to side with him Satan the prince of the demons, the author of evil, persecuting good men, estranging mankind from God and enticing them to sin, afflicting them with diseases by means of demons who take possession of their bodies at his bidding.

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創世記3:15

「 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。はおまえのかしらを砕き(三男単形)、/おまえはのかかとを砕くであろう」」

וְאֵיבָ֣ה׀ אָשִׁ֗ית בֵּֽינְךָ֙ וּבֵ֣ין הָֽאִשָּׁ֔ה וּבֵ֥ין זַרְעֲךָ֖ וּבֵ֣ין זַרְעָ֑הּ ה֚וּא יְשׁוּפְךָ֣ רֹ֔אשׁ וְאַתָּ֖ה תְּשׁוּפֶ֥נּוּ עָקֵֽב׃ ס

[彼]と単数に捉えるのはエイレナイオス(AH)、ユスティヌスに遡る
共に、キリスト個人としている。

これが時折、複数扱いになるところでキリスト教界に混乱がある。
パウロの『あなたがたの足の下にサタンを砕く』など
ユダヤはどうか?)
これは聖徒をキリストの兄弟たちと見ていないし、彼らが共同の相続人であることも視野から外れているためである。
アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。』Ga3:16⇒Gen22:18

・Rachiに訊こうと思っていた「繰り返し」が何だったか忘れた!




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