Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

聖書解釈の彷徨(理性か聖書か)

畠中尚志

聖書には理性と調和せぬ多くの事柄が説かれている。これを解釈するにあたってある人々-中世のユダヤ哲学者マイモニデス、下ってはスピノザの親友ロドウェイク・メイエル-のごとく理性を規範とし、聖書を理性に順応させようとするのは、スコラ的独断的解釈であって、聖書の真意を歪曲するものである。

哲学を神学から分離する事を知らぬ人々は、聖書が理性に隷属すべきかそれとも反対に理性が聖書に隷属すべきかについて、換言すれば聖書の意味が理性に順応させられるべきか、それとも理性が聖書に順応させられるべきかについてあげつらう。そして理性が聖書に隷属すべきであるという説は理性の確実性を否定する懐疑論者たちによって主張され、聖書が理性に隷属すべきであるという説は独断論者たちによって擁護される。


スピノザはマイモニデスに対するアルファカールの批判を検討するにあたり、まず両者の解釈の立場の違いを一つの問いにして整理した。
つまり、「聖書は理性に隷属するべきか、それとも理性が聖書に隷属するべきか」
そこでマイモニデスは前者であるのでドグマ主義者とするが、それは理性を聖書理解に強制する。
スピノザはアルファカールの「聖書を聖書によって説明する」という点を評価する。
しかし、スピノザ自身は、その両極とは異なり、哲学と神学の分離を提唱する。

メイエルは、カルヴァン主義に反対し、「聖書そのもの」は聖書解釈の基準にならず、ただ哲学のみが正しい基準たり得るとした。
スピノザは、このメイエルを直接論難することを避け、その身代わりにマイモニデスを持ち出したと(J.S.プレウス)

そこでマイモニデスの姿勢は、必ずしも純然たる「ドグマ主義者」ではないことが理解される。彼は、哲学的推論の横暴や、プシャットの重要性を説いている。


そこで、スピノザを理解しようとする場合、まず、マイモニデスを良く知る必要が生じる。

マイモニデスは、カイロに在ってアイユーブ朝の廷医1188-1190に在ったときに「モレ・ブレヒーム」を著している。彼はそれをアラビア語で書いたが抄本をヘブライ語で作るようにと言っている。それは、イスラム教徒を刺激しないためであったと
彼は、ミシュナー註解の中で自身の労苦について触れ、「放浪の苦しみが罪を拭い去ってくれた」と言ったと
そこで、マイモニデスの二重言語的性格の由来から、秘儀的な要素が有るといわれる。
彼は、本心を充分には語っていない可能性があり、それは当時にドグマがもたらす周囲との衝突を回避するためであったのであろうと

マイモニデスは銀の枠の中の金の林檎を援用し
「言葉は二重の顔を有する、つまり、顕れた意味と隠された意味があり、顕れた言葉は銀として美しいが、その中身である隠された言葉はさらに美しい」
そこで矛盾するかのようなプシャットを彼は修正することはしない。


⇒「スピノザの聖書へのアプローチ法

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ヘブライ語テクストの画一化が始まるのは紀元第一世紀から第二世紀にかけてであり、神殿破壊後に急速に進んだ。バウコクバ以降には、ギリシア語抄本は忠実にヘブライ語に従おうとする
次は9-10世紀に於ける母音と各種記号の確定する時期であると
中世ヘブライ語テクストはマソラーに分類されるものが専らとなる。

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1king6:7でマサーを自然なままの石とするか、口語訳のように「石切場で整えられた石」とするか
Exdではカジートで祭壇を築いてはならないとはあるが、ソロモンの建築中に鉄器の音がしなかった」を自然石ですべて建てたとはもちろんいえない。だから、1kingの筆者は上手く古い条項を適用した・・ということだが、その前に、コラ、ダタン、アビラムの件の後に、祭壇は銅で覆われるようになっているが、これは・・・?
それに加え、ダヴィドがアンモンを降した後、彼らを石工として徴用するようになった記述があることからすると、ソロモンのときに石材の加工をアンモンが請け負っていた可能性も気になる。

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ダヴィドとバテシバの一件は、ユダヤ教学者に相当な困難を感じさせていたので、とんでもないミシュナーが幾つかある・・
この件はキリスト教徒でも同様で、教理に苦慮するところがある。平板な道徳主義ではダヴィドがなぜ死刑にならないのかが「分からない」
だが、これは「原罪論」から見るなら、何も難しいところはない。教条主義を取ろうとするから難しい。


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第五と第六のラッパの時間軸は交差していて、意義に於いて第五は第六に優る。
ユーフラテス河畔から解かれる「四人」は「騎兵隊」と暗示的に関連付けられるので、聖徒ではない可能性が増す。

黙示10:5-6とダニ12:(5-)7に逐語的一致があると
口に甘く=受け容れ易く
腹に苦い=エルサレムの滅びを伝えるEzk

雲を身にまとう天使はエル・ギッボールではないか?
彼は奥義を語ったが、ヨハネは記述を止められた
そしてEzkのように書き物を食する
何が書かれていたかヨハネには知らされないがEzkから類推できる
再び預言しなければならない

そうなるとダニ12で「立ち上がる」とは
あるいは、臨在の始まりの時点で第一の復活が起るのか?

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今日のユダヤ教に心酔しているキリスト教徒は
「回復の預言」を誤解し、イスラエルを再度選びとると思い込んでいいる。
そこでパウロ論議をどう封じるつもりだろうか?
『聖なる国民、祭司の王国』が聖霊を受けたキリスト教の聖徒である、という理解が無い現今のキリスト教界の弱点をユダヤ教徒が突いたもので、今日的グノーシスの観がある。

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キリスト教など一神教の陥り易い矛盾

「信仰ある者は神に是認されている」
しかし、『罪』は誰にでもあるので、悪人はどんな宗派からも出る。
それでも信仰によって是認されているというのは、悪人が自分は善人だと言うのに等しい。<確かに本当の悪人とはそういうものだが Isa5:20>
その正義感は現実と乖離していて有害であるので、自分たちと同じ信仰に無い人々を、その道徳性の如何によらず断罪してしまい、内心の蔑視から差別、流血に至る闘争、を起こしておきながら、それを正義とすることを正当化する。
正解は「今、信仰があるか否かで神は是認を与えない」
裁きの日は終末に訪れる。
これを「クリスチャン」が嫌うのは、現状で救いが確定していて欲しいからである。
だが、これは利己心に起因する横暴であり、サタンの精神が顕在化しているにも関わらず、信者は気付いていない。恐るべき盲目であるが、大半の一神教はこの罠に陥っている。
宗教を自分の、それも目先の幸福に奉仕させようとするからではないか。



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