Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

中国教史

781年の年代を持つ石碑が伝えるには、635年に阿羅本という人物が長安に来訪しキリスト教を伝えた。その後、歴代の唐の皇帝により保護を受けていたが、玄宗皇帝に至って仏教と共に弾圧を受け、十世紀には消滅した。これはネストリウス派の延長にある景教であった。これが元朝になって復活し、14世紀半ばでも約3万の信者が中華にいたというが、やはり外国人の宗教であった。
1200年代末に、フランシスコ会のGiovanni di Montecorvino(1247-1328)が元代の北京に到着。
景教徒の反対を受けたが、朝廷の庇護により宣教ができた。彼が死去したとき、教皇庁元朝に友好関係があったともされる。
しかし、明が興ると、外来の教えは駆逐され、キリスト教は一度途絶える。
シャビエルが16世紀のカトリック宣教の第一号とされているが、当時の中国には強い外国人不信があり、入境は拒絶され、彼はそのまま死去した。
ポルトガル商人だけは南方の港町に居住できたが、それもやがて澳門に限定される。
イエズス会士Alessandro Valignano(1539-1606.天正の少年使節を企画)の「岩よ岩よ、汝何時の日に開かるるを得ん」の言葉は頑なに入境を阻む明朝の態度を嘆くものであったという。
中国の言葉を話せる必要からMichele Ruggieri(1543-1607)が澳門に派遣されてきた。(ヴァリアーノ巡察使は入れ替わりに長崎に向かう)
ルッジェーリとマテオ・リッチの二人が漢語が話せ、科学の知識があったことが広東の官吏に好感され、1583年には広東の中央であった肇慶府に居住を許されている。ここで反対を受けながらも最初の中国人信徒に洗礼を授けることができた。
マテオ・リッチについては1601年に北京滞在が許される。
1611年には天文の知識を回教徒と競い、その結果カトリックが優れていたことを朝廷でしめしている。これは明朝の改暦に活用されたが、そのほかに、武器、地図、時計、などの知識を伝授している。
このイエズス会の成功にあやかろうと、ドミニコ会フランシスコ会、それからフランスの外国伝道団が宣教者を送り込んできた。それからラザロ会も続く。

1674年には、中国での最初の司教が着任する。
しかし、リッチの死後には、明朝は宣教師の追放に乗り出し、多くは澳門に戻された。その理由は儒教の教えに反するというところにあった。また、キリストが神の子であるという教えはくだらないともされている。
主な迫害は1724.1737.1774.1784.1805.1811.に起こっている。
1840年頃には30万余のカトリック信徒が中国に居たとされる。
キリスト教徒が増えなかった背景には、永らく築いた中国の文化とキリスト教の持つ文化が整合しなかったこと、また、キリスト教を受け入れることが、西欧の習慣に従い生活習慣を変更することを意味したことが挙げられる。それは社会からの追放をも意味し兼ねなかった。
孔子を祀る習慣などにイエズス会は寛容であったが、これは信者を失わないための方策であったので、これにはキリスト教側から批判が開始された。ドミニコ会のモラレスは17か条の問題があるとイエズス会を訴えた。1643
この間に、明朝が倒され満族清朝(後金)が興る。1644
1645年、法王庁からイエズス会の誤りが告知され、いったんはイエズス会も釈明したのだが、1666年に二度目の指摘がされた。
これに康熙帝(1661-1722)がイエズス会に肩入れしたので問題は複雑化した。クレメント11世はイエズス会の伝道方式を認めず、逆に康熙帝イエズス会以外の宣教者を追放した。教皇庁清朝の対立は続き、やがて、清朝キリスト教の一切を拒絶するを考慮しはじめる。
ここにおいて、1742年、教皇庁イエズス会を解散させるまでになった。これは現地の宣教者の戦うべき相手が、実に融通の利かない教皇庁であったことになる。(尤もイエズス会もほとんど儒学者のように振る舞っていたが)

そして後、19世紀になると、ようやくに新教側が宣教師を送り込んでくる。
1807年、東インド会社の通訳ロバート・モリソンがロンドン会の支持を得つつ、広東に入り、多くの時間を宣教に費やすことができた。
彼は聖書を漢訳し、パンフレットを用意して25年奮闘した結果は10人に洗礼を施したのみであった。
その後、カール・ギュツラフやピーター・パーカーが到着したが、ほとんど宣教の結果を得なかった。



所見:中国人が西欧文化接触したときに、その結論としたのは儒教文化の再確認であったという。科学や武器には関心を持ったが、生活そのものを変えるまでの宗教の変更は拒絶した。
日本の場合も似ているが、宗教の分化が進んでおり、そのために一つの宗教が強い状態に無かったので、中国ほどには宗教文化が異物を拒絶はしなかった。但し、神道、仏教、儒教が混合した風土は中国と同様に作用し、「和魂洋才」がそのアプローチとして選ばれた。
日本人でキリスト教に近付こうとする場合に感じる文化的、また生活感的違和感は、西欧人種の生活習慣、思考態度を踏襲し、他方で自ら確立し、適合して来た人種的生き方を後にし、文化的誇りを捨てるまでに、西欧人にかぶれるところに端を発している。これはカトリックであれ、プロテスタントであれシャビエル以来何も変わらない。欧米のキリスト教徒は、如何にキリスト教を自分たちの手垢に塗れされているかに気付かないからである。中には日本人にキリスト教を広めようとの目論見を教会音楽などの西洋文化への誘いを通して遂げようとする人々も目にするが、これはキリスト教にとって果てしの無い遠回りであろう。そうして得た信者は一体何の信者なのだろうか?
この問題は、日本的、また中国的なキリスト教が確立されない限りついて回ることになる。だからといって大衆化を目指せばキリスト教そのものを損ない、パン種を混ぜ込むことになろう。
そのためには、キリスト教の本質を精錬し、一度純然たるエッセンスを取り出さねばならないだろう。
しかし、もとを糺せば、キリスト教ヘブライ文化から生じたものであり、それは聖書を読むほどに分かるものである。そこで、最近はユダヤ教にかぶれるキリスト教徒が目立つのだが、これもどうだろうか?それでは西洋かぶれとなった東洋の「クリスチャン」とどう違うのか?
いったい、キリスト教と何かの文化に傾倒することとが識別されないというこの問題の出所はどこなのか?それはキリスト教そのものが弱体化しているからではないのか?儒学者らにくだらないと言わしめたのはキリスト教の外見が立派な割には内容が著しく幼稚であったからに相違あるまい。日本では新井白石が教理について「嬰児の戯言」と同じように反応している。それは現今の教会員への教えにしても同じというべきであろう。仏教のような幽玄さも、神道の清さもなく、儒教の徳性にも達しない教会のキリスト教は実際にそのようであるとしか言いようが無い。それが自らの文明を有する極東人の理性的で真っ当な本音である。遥々と運ばれて来たものにしてはレベルが低すぎたのに、当時に東洋人は戸惑いも感じ、呆れもしたに違いない。西欧の科学や武器、また後の社会制度にはなるほど学ばねばならない多くを感じても、キリスト教の幼稚さが、これに学ぶべきところを感じさせなかったというべきだ。
その責はキリスト教をそこまで貶めた欧米人と、そもそもキリストを認めなかったユダヤ人にあるだろう。ユダヤがしっかりしていれば、欧米の介在の必要もなく、ここまで幼稚な宗教に成り果てることもなかったに違いない。いまさらのメシアニックジューなど遅すぎる。











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