Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

西ローマ帝国末期の千年理解

第四世紀のキリスト教界の動きは目まぐるしく、とても一様には言えない。

各勢力の趨勢を個別に述べるしかない。⇒ 第四世紀年表

この大きなうねりをもたらしたのは、コンスタンティヌスⅠ世であり、そのキリスト教界への介入によって、混乱に拍車をかけられた。

この混乱が収束される強い要因となったのがテオドシウスⅠ世の「カトリック教令」であり、コンスタンティヌスⅠ世のメディオラヌム勅令の313年から67年後の380年のことであった。しかも、エジプト式キリスト教が欧州に定着するまでには更に多年を要し、おおよそ第六世紀を待つ。(ブリトゥンでは早くとも9世紀までカトリックは地歩を得ていない)

コンスタンティヌスⅠ世の時期、この西帝はガリアに居る頃からキリスト教界の混乱に介入する意志を表し、遠く離れたアレクサンドレイアでのアレクサンドロスとアレイオスの確執に、イスパニアのホシオスに依頼して執り成しを図った。

コンスタンティヌスⅠ世のキリスト教への指導者としての介入を喜び、ローマ帝国を神聖視したのが、カエサレイアのエウセビオスであり、その支配を神の計画として受け入れた。これにはオロシウスも同意している。

(オロシウス[Orosius](c.375-418)はアウグスティヌスの弟子で、415年にベツレヘムのヒエロニュモスへの通信を依頼されている。アウグスティヌスとヒエロニュモスの仲が良くなかったためであった。この帰途にはステファノスの聖遺物を持ち帰っている。これは後にメノルカのユダヤ人共同体に宣教する際に証拠として用いられたと言われる。主著は"Historiae Adversus Paganos")

さらに、カトリック教令以降にはプルデンティウスがテオドシウスⅠ世の施策を神の意志として、ローマ帝国が神の恩寵に与っているという帝国神学を興している。

アウグスティヌスも晩年までこの立場を維持していたが、410年のウィシゴート族によるローマ占領を期に、ローマ帝国への神の恩寵があることを撤回するに至っている。その著「神の国」は414年から427年にかけて執筆され、その3年後にヒッポ・タガステがヴァンダル族に攻囲されている間に死去した。

したがって、アウグスティヌスが「神の国」の概念を固めたのには、それ以前のローマ帝国の神聖視を現実が打ち砕いたことへの修正を施す役割も認知していたことになる。

 そこでアウグスティヌスは、ローマ帝国にしてもキリスト教会にしても曖昧な観方をし始め、「歴史の終りに完結される二つの国」という主張を始めた。つまり、肉の国も霊の国も現世では罪ある人によるものであり、「小麦と毒麦の混合である」との見方に至った。

 

-以下、アウグスティヌスの救済観と千年理解-

アウグスティヌスは、キリストの声を聞いて死んだ者が復活するときが『今である』(Jh5:25)という句に着目し、聖徒の復活はすでに起こっていると解釈した。しかし、善人も悪人も復活するという続く句では、『その時が来る』とは言っても『今』とは言われていない。したがって、これは現に起こっている「魂の復活」であると捉え、信徒が洗礼によって再生することを表していると考えた。

そこで黙示録の『千年』の問題が避けられなくなり、以前から信奉していた前千年説を訂正するに至る。そして『千年』を象徴とし、その千年を進行中の残りの期間を含めた「千年」とも、「時の満了」の意味にもとった。

(紀元千年期が近付いた10世紀の終りにパニックが起きている)

神の国の完成は、最後の審判と肉体の復活を待つもので、遥かな将来のことであるとした。従って、どの信徒も現世にある限り肉が霊を圧倒して救いには至っていない。それでも市民は洗礼の賜物である聖霊によって成長してゆく、しかし、不朽の不可死を身に着けるには終末の神の裁きを待たねばならない。

この点で、肉体の復活を理性的に信じることはできないという者らへの反論として彼はプラトーンポルフィリオスを折衷する説を案出している。

プラトンによれば、霊魂は身体なくしては永遠に存在することができない。また、ポルフィリオスは聖なる霊魂は朽ちるべき身体には帰らないと語る。この二つの意見を融合させれば、聖なる霊魂は朽ちない身体にであれば帰るはずだという結論になるだろうと述べる

そこで現世における信徒の務めは神の恩恵の内に悪徳と戦うことであるという。彼はローマ人の句を(8:24-25)を引いて、現世での忍耐の必要を説いている。

彼は、教会がその千年の中に既に居ると唱え、聖徒たちの王国はそこに実現しているとしたため、結果として「無千年王国説」を導いた。

この説では、既に「千年期」に入っていたので、悪魔は拘束されていることになる。

また、現世に於いて第一の復活は起こったことになる。しかし、彼はそれが救いを確定しないと説く。


永遠の刑罰を免れたいと切望する者はだれでも、洗礼を受けるだけではなく、キリストにおいて義とされなければならない

従って教会に属する者すべてが永遠の至福を保証されてはいない。

<「神のイスラエル」「祭司の王国」「新しい契約」の概念が出て来ない>

彼の言う霊的な身体というものが、地上的なものか天的なものかはよく分からない。ただ、罪を犯すことの出来ない身体であり、魂的なアダムの身体に優る霊的な身体であると言っている。

 

 

 所見;つまるところ俗世をどう見ていたかに帰結する。論議も聖句の援用も後から着いてくるので、大きな訂正が免れないのでは。聖書の単一の句だけを頼りにすれば誰でも何かの主張ができるだろうけれども、複数の句が相互に証拠立てる論議はそう易々とは崩れない。

特に無千年を主張する場合に障碍となるのは黙示録となり、ここに神意を得るか否かの分かれ目がある。そこで無千年派は黙示録の聖典性を云々し始める。彼ら自身も理解できないからなのだろう。

そこで痛撃となるのは、黙示録が単一の特異な書ではなく、ネイヴィームに裏打ちされていることを多用に示されることになるだろう。それは人間の論理とは言えなくなり、神の悠久の経綸の姿が現れるときに面目を失うことになる。

それでも彼らは抵抗するに違いない。そこに面子や生活や貪欲が絡んで、純粋な論議にはならないからである。そうしてユダヤの宗教家らの轍を踏む。気の毒ながら、どうしようもない。