Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

千年期説への対抗

 

一般的千年期説

キリストの千年支配は聖書中黙示録に記述が限定していることもあり、キリスト教界に明瞭な共通認識は築かれて来なかった。

キリストは世界の終わる前に地上に現れ、反キリストを打ち負かし、義人を復活させ、義の報酬として地上に王国を設立する。そこでキリストと共に支配して善い生活を送り、その後に一般の人々の復活が起る。その後に裁きがあり、義人と罪人が分けられる。

 千年期説の特徴は、現世の悪への糾弾があり、道徳的な信者への酬いとしての神の新体制下での幸福な生活を求めるところがある。

ミレニアニストと言えば、欧米キリスト教一般では軽蔑の対象となりやすい。理由としては、体制批判的であり、ともすると自己義認に流れやすい。また、熱狂的に年代に信仰を懐く傾向も見られる。

アウグスティヌス以降、中世期に千年期説は衰退したが、西暦1000年の近づく10世紀に期待する運動もあったが、その後に地旅となり、近世以降新教派の中から再び現れ、19世紀から20世紀にかけて隆盛をみている。

この世、また為政者とのキリスト教界の関わりは、世界の歴史の進展に深く関わっており、ローマ帝国の延長を可能にしたのはキリスト教であると言えるようである。それもヴァチカンだけでなく、東ローマ帝国正教会も含んでのことになる。それらのキリスト教は性質上、千年期待望であることはできなかった。

 

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381年の会議

アポリナリオス(AntO)を異端として裁き、その教えの広がりを防ぐために『キリストの支配に終わりはない』Isaを援用した。つまり、キリストの統治が始まるとその支配に終わりはないのであるから、千年期に限定されないとした。<聖書の一つの語句に拘ると全体の理解は不可能>

 

アウグスティヌス

後期の著作「神の国」に於いてその支配はキリストの現れと共に始まった。

千年期とは現実に成立している教会のことであり、数には意味がない。

俗なる国家と聖なる教会という国家が時代を経た先にキリストの支配がある。

<エイレナイオスの著作を棄損しただけのことはある>

 

ルター

その主張によれば、教会が繁栄しているところではサタンは縛られているので、千年期はペンテコステに始まりキリストの再臨に終わる期間のことである。イエスは地上が至福の場となることを何も語っていない。

<黙示録を誹謗するのにそれを援用するとは、ヨハネの語る千年を無視まではしなかったところはアウグスティヌスに準じ、象徴と解釈している。やはり聖徒理解と地の裁きが無いが、彼自身は聖徒の意味を知ってか知らずか「自分は聖徒ではない」としている。また教会の繁栄でサタンは縛られると本当に思えたのか?>

<つまるところ、自説有きのところに句を援用しただけで、中立的観点が不十分ではないか?黙示録の千年王国だけでなくイザヤ書にもこの世では見られない地上の光景の具体的描写がある>

<彼らのは「定常宇宙説」のようなところがあり、現状肯定型で、共通点に権力との結びつきがあり、摂理的にこの世を見るところがある。つまりアウグスティヌスの妄想のままに「この世」の肯定から出発している。職業召命観はまったく摂理信仰モデルとなっている>

 

宗教を世を秩序立てるものと見做す人間の傾向は本能的とも言えるほど強い。

それは自分たちを秩序立てる者が上位者でなくては治められないという人間の性向からもきている。人間は自分たちの秩序の必要を自らの悪に見るよりも、神の役割と見てしまう。そうして俗世を支配する神という、実質的に悪魔を招じ入れることになり、その空しい結末を「天国」という死後に解決策に任せてしまう。これが様々な宗教が似て来る理由であろう。どれも世そのものを糾弾はせず、むしろ支持するものとしている。特にキリスト教界の誤謬は著しく根深い。

 

国際的な秩序という点では、ローマ帝国の残った枠組みの中で欧州が育ったとも言える。その間、ヴァチカンや府主教座が国際的取決めの要として作用していたとも言える。

だが、大航海時代を迎え、ヴァチカンの裁定だけではまとめることが困難になっていた。(しかし、宣教師らは商人であることもできたため、海洋国家の植民地支配はヴァチカンの宣教と表裏一体を成して分かち難いものとなっていた。日本人が相当数奴隷として売られた背後には宣教師らの働きがある)

以下のグロティウスの件と併せると、国際法の発達とキリスト教には深い関連がある。それもあまり良い意味はない。

 

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