Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Memo

PS146:3諸々の偉人に信頼を置くな。単なる人の子を信じてはならぬ。其処に救い無し
Isa2:22鼻孔に息のある地の人から離れていよ、どんな根拠があってその人が(神の)考慮に入れられるのか。
joh1:31わたしがバプテスマを施したのは、この方が明らかになるため。
Rom3:22義は信仰によるが
2Tim1:9召しは神の目的と賜物による
Rom8:33神の選ばれた者を誰が訴えられるか
バラム「神の祝福した者を呪えない」
2Pet2:10「権威ある(主たる)者を軽んじ・・栄光ある者たちを謗って・・」
Hag2:5エジプトを出てきたときにわたしの霊が共にあった
2:23ゼルバベルは認証指輪
Ps75:6高められることは(北以外からは来ない)
Jer23:21わたしは預言者らを遣わさず、されど彼らは語り
23:18我が言葉を語る者は真実を語れ
キリスト教の本質は人類の救いの手立てとなることにあり、救いが信徒に所有されることではない。
信徒と聖徒の区別に意義を見ないとすれば、自分の救いを担保することに関心が向いている。アブラハムを知らず世の光でもない
聖徒の立場にあった者が地に残されるとは、人類の裁きを共に受けることになり、外の暗闇に出されることになる。
カデシュ・バルネアからセレドの谷まで38年
回復:Ezk36 我が名に同情し、諸国民のなかから集める
石の心を除き新しい霊を置く
父祖に与えられた地#に住みわたしはあなたがたの神となる
#Ezkの幻
Heb12:24さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
και διαθηκης νεας μεσιτη Ιησου, και αιματι ραντισμου κρειττον λαλουντι παρα τον Αβελ.
Jer30:19-22わたしはあなたのために回復を生じさせ追い払われた女とは
Deu4:32経綸の偉大さ
フッチローニ(ねじ型)
Isa26:20奥の間に入り扉を閉じよ、神はレヴィヤタンを殺す
Isa27:1-誰も彼女を攻めることのないよう昼も夜も守る
D.ヒュームの見事な例え
キリスト教⇒審理前の居心地の悪さ
治める者の都合⇒民の白痴化
341年アンティオケア会議:十四日派の破門
381年コンスタンティノープル公同会議:三位一体決議
382年コンスタンティノープル補足会議:聖霊の神格化
◆テオドシウス帝の会議
325年に行われた第1ニカイア公会議はニカイア信条を採択し、アリウスの破門とアリウス派の否定をもって終わった。
しかしこれによってもアリウス派の問題は決着せず、政治問題も含めてより複雑化していた。
これを解決するため、再び公会議が行われた。主催者となったのは時のローマ皇帝テオドシウス1世である。
コンスタンティノポリスは伝統的にアリウス派への賛同者が多い土地であったが、
ニカイア信条の支持者であった皇帝は信頼していたナジアンゾスのグレゴリオスと共に会議を主導した。
参加者は150名ほどですべてが東方地域からの参加者であった。
会議では最終的にニカイア信条を修正し、聖霊についての一文を付加するなど拡充した
ニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択し、アリウス派、サベリウス主義、アポリナリオス(シリアのラオディケイアの-390)主義およびホモイウジオス主義者(ニカイア信条に入っていた「同質」という言葉に反対し、「相似」(ホモイウジオス)という言葉を支持した人々)の排斥を決定した。

◆正戦論
キリスト教」がローマ国教となったため、ローマの軍事行動はキリスト教のものとなる。
そこでキリスト教は不戦主義を棄て正戦を可能とする教えを必要とした。そこで援用されたのがアウグスティヌスの教えであった。

アウグスティヌスは、最も早く権力(暴力)の行使をキリスト教内で用いることを認めた。
それはドナトゥス派を異端と看做し、彼らを『立ち返らせるため』に権力を行使して事実上迫害することを良しとした。

これは史上最初のキリスト教徒によるキリスト教徒の迫害となった。
アウグスティヌスは『自己目的のために戦うのではなく』『他者を助けるためであれば、戦う義務がある』としていた。
この根拠については『もしも、主イエス・キリストが「悪に手向かうな」と言われたのだから、神が戦争を命じられるはずがないと考える人々がいるならば、私は云おう、ここで要求されるのは行動ではなく、心の問題である』(マニ教ファウストゥス反駁)
つまり、戦うという実際の行動とは別にキリストは戦わない心を要求されたと言いたいのだろうか。ならば、これは詭弁であって、戦わない心の持ち主がどうして実際に戦うだろうか。
彼は、原罪ある人間の国家は争いを免れない、としており、戦争そのものに神の意志を沿わせることは流石に憚られた。

アウグスティヌスの陥った陥穽は、キリスト教と世俗を融合させ弟子に『あなたがたは世のものでない』と語ったキリストの言葉からあからさまに離れ、世俗の国家をキリストのものと看做したところにある。

そこで、国家ではなく個人乃至宗派が具体的に不戦を守ることは不可能ではない。つまり不戦を永遠の生命からの断絶のような精神的懲罰を与えて禁止する方法である。ただ、そこに争いが無くなるというわけではない。

最も良い方法は、「愛の掟」において戦い以前の争いを心から締め出し、人の「義」を捨てることであったろう。

アウグスティヌス以来、キリスト教徒は剣を執ることになり、トマス・アクィナスマルティン・ルターへと受け継がれ、やがてキリスト教世界は最も大規模に戦争を行う結果となっていった。その最初の発端を作ったのは「聖」アウグスティヌスであった。

その後、新旧のキリスト教派による三十年戦争の恐るべき荒廃を経験して後、グロティウスによって戦争は国際法の枠がかけられるようになり、キリスト教界もさすがに幾らかは学ぶところがあった。
さらに20世紀のふたつの世界大戦を経て、ようやく人類は戦争そのものの不当性を意識し始めたとされる。これら宗教戦争もふたつの大戦も、いずれもがキリスト教を信奉する世界が惹き起こしたものであった。

しかし、今や「その父祖たちの知らない神」の崇拝者らが、未だ学んでいないことを吐露する愚行に走ろうとしている。まったくの無法なこの集団は自壊に向かってあと少しの時間を突き進むだろう。


◆四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食



キリスト教徒による現イスラエル民族への過剰な期待

ユダヤ人の選びの永続性を認めているのかいないのか?
A:血統上のイスラエルには認めない


●具体的には、1948年のイスラエル建国と1967年のエルサレム奪還を預言の成就と認めるのかどうか?
A:認めない


●今はイエスを拒否しているユダヤ人の救いが、終末には完成することを認めるのかどうか?
A:認めない

●「十戒」をキリスト教徒にも適用されるものと認めるか?
A:認めない


ある人はキリスト教の完成がキリスト後であることにフラストレーションをもつ
それは聖霊降下によるキリストの監臨の意義を信じられないため


引用;「新約時代の私たちは確かに主の血にあずかり、値なくして罪をゆるされ、祝福にあずかるものです。そのことは事実です。」。
聖霊を受けた聖徒が罪を許されており、既に祝福されていると言うなら間違いではないが、今日、そのような人は誰も居ない。キリストが不在だからである。
上記のような教えがもたらすものは、自己の道徳上の行状への責任感の欠如、また、部外者への蔑視となろう。
聖徒としての務めを負うことなく、特権だけを受けているからである。
また、何故、特定の人々だけが罪の赦しを受けたかについての理由とその責務については無頓着であり、そのこと自体が「主の血に与る」に相応しくないことを証してしまっている。


Isa14でウルガタは(ルーキフェル)「輝く者」を用い、いくつかの翻訳もそうしているが、これは(ヘーレール)の訳語として当てられただけのことで、ヘーレールには称号としての意味は無く、「高慢」や「尊大」を表すのみである。


・「人は信仰によって義とされる」というこの信仰義認こそキリスト教の教理です。
A:ただ信ずればそれで義認も救いも全うされるということにはならない。
義認は神の子への復帰に必須であるから、主要な教理であることは間違いない。
但し、この段階は二段階あり、まず祭司職に入る聖徒らは大祭司キリストと共に「初穂」の扱いを受けねば人類の贖罪も義認もない。また聖徒にあって地上での義認は信用貸しのものであり、最期までの忠節を示す必要がある。
その後、これらキリストと聖徒の贖罪を受けて初めて、人類全体は義認を得るがここでも「裁き」を経て「エデンの問い」にどう答えるかが試されることになる。

したがって、ただ信ずればそれで義認も救いも全うされるというわけではない。








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