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再臨と携挙について

 

新教系の宗派に多く見られる「携挙」は、テサロニケ第一書簡第四章十三節以降を主な根拠に、ある時になると信者または特定の信者がキリストの再臨に伴って中天に挙げられ、キリストに迎えられ以後天に住むという教理であり、宗派によって幾らかの認識の違いはあるが、概して同じことを言っている。

但し、聖書中に「携挙」という言葉があるわけではないので、「携挙」と言えば、以上の新教系の教理を表すことになる。

 

「再臨」への誤解

「携挙」
・まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。

Wikipediaから

所見 <「地上にあるすべての真のクリスチャンが」に問題あり、真のクリスチャンと言えども聖徒でない限りこれに与ることはない。というよりは「真のクリスチャン」という概念そのものにパリサイ人の優越感が否めない。人間の醜さの一つは自分可愛さだろうと思う。と言ってもまず理解はされない。そもそも「クリスチャン」なる概念自体に問題があり、契約の観点からキリスト教を見ていない>

 

携挙とは、いわゆる空中再臨のことで、信者がそのまま天に挙げられることを指します。

(1)これが起こると、クリスチャンたちはすべて天に挙げられ、地上には未信者だけが残されます。

(2)「携挙」にあずかるかどうかの基準は、キリストを信じて救われているかどうかです。

(3)「携挙」が起こると、すでに死んだ信者たちが先によみがえり、地上で生きている信者たちもともに天に挙げられ、空中で主と会うことになります。これらのことは、一瞬のうちに起こることです。

(4)「携挙」に言及している聖書箇所は、1テサロニケ4:13〜18と1コリント15:50〜54です。

 ([聖書入門/com]から)

 

誤解:『背教』により時期を見定めるべき

テサロニケ第一書簡の文脈では、当時に『主の日が来ている』という人々を動揺させる噂を鎮めるためのパウロの教えの中で、彼らが中天に挙げられる事柄が追記として書かれており、その文章の主要な部分は「まだ終末は来ていない」と教えるところにある。そこでパウロは『背教』が終末の始まりに起こり、それが一つの印になることも含んでいる。

では、その『背教』とはどのようなものか? この点が明確でない限り、「何時に携挙が起こる」と唱えてもそれはどれも空文と化す道理がある。

この『背教』については、現在まで起こっていない類のものであり、どのように怪しげな宗派であろうと、この『背教』に含まれてはいない。

この『背教』についてはダニエルに啓示された言葉『汝の民』イスラエルを象徴する『聖なる民』に反対するべく『後から興される角』即ち公権力により『いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます』の句(7:25)そのものではないが、迫害と甘言を以って背教者らを使嗾し、『聖なる民』に内紛と混乱をもたらし、最終的にその民を『滅ぼす』ことに成功する(8:24)。

これは後のメシアの受難に類推するその弟子らの受難を示すものであり、この終末に於ける受難の被害の有様と深い哀しみについてはゼカリヤ書の第九章以降に克明に予告されている。⇒「ゼカリヤ書解説

テサロニケ第一書簡での当時の聖霊注がれた聖徒らの空中への取り去りは、この『背教』の結果による裏切りに起因する聖徒の滅びの結果として起こる奇跡であり、『雲の内にあって』とあるように、反対者をはじめとする者らに目撃されることは無いが、黙示録はそれが『大地震』を世に誘発し、そこで消える(殺される)『七千の名』という表象を以って示されている。

この『七千の名』とは、エリヤに残された『バアルに膝を屈めなかった七千人』を含意しており、忠節を保ってダニエルの云う『聖徒の滅び』を生き残った者らを指す。

テサロニケで描かれる終末では、それら生き残っている聖徒らが、聖徒の全体が天界のキリストの許に招集される事態、即ち『生けるものと死せるものとを裁く』キリストの聖徒らの裁きを含んで語られている。

だが、これらの事は『新しい契約』が理解されない限り、悟られることがなく、関係するのは真の意味で聖霊注がれ『新しい契約』に参与する『聖なる者ら』、『アブラハムの裔』、『神のイスラエル』がどのような者かを理解されない限りその『背教』も分からず、まして「携挙」はその先の事象となっている。

この『聖なる民』はダニエル書でも終末に登場することが示唆されており、そのなかから『違背』(ペシャ)が起きてその民の滅びの原因ともなることを教えている。(8:10-12)

それはユダ・イスカリオテに比すべき裏切りであり、ミナやタラントの例えに見られるように強烈な迫害と甘言に面した聖徒らから『恐れ』のために『新しい契約』から脱落する者らが現れ、忠節な聖徒を売り渡し、聖徒の間で四分五裂が起こって互いに憎み合う事態を起こすことは、キリストの例え話や終末預言によく語られている。この脱落者らには聖霊の奇跡を起こす力を賜っていながら行動でそれを否認するのであるから、忠節を最後まで示した『聖なる者ら』が天に召されて「キリストと共なる祭司」とされる時に、それに不適格とされ『地に残される』者となる。

従って、この『背教』が起こる前に、奇跡を行い、為政者の前で論駁できない聖霊の言葉を語る聖霊注がれた『聖なる者ら』が現れ、確かな『新しい契約』に基づく純真なキリスト教が第一世紀のように確立されている必要がある。そして、それは使徒時代以降明らかに今日まで起こっていない。これは『新しい契約』に関する聖徒の裁きであり、常人の関わるところにはならない。

どこの教会員にせよ、「自分たちには聖霊がある」というのはまやかしの心理作用でしかなく、この世の政治家らに対峙するほどの気概さえ持たないであろう。

従って、現今の教会員であろうと、どのようなキリスト教徒であろうと、キリストの召しによって空中に挙げられることなど期待することそのものが間違っている。

 

 

『新しい契約』については、ほとんどの教会の教えに創世記以来の『女の裔』⇒『アブラハムの裔』⇒『王なる祭司、聖なる国民』⇒『完全にされたキリスト』⇒『聖なる者たち』という旧新の聖書を貫通する理解がないため、天界でキリストを親石として築かれる神殿が全人類を贖い、その「千年王国」でアダムの罪から清めるという発想そのものがない。

即ち、今日のユダヤ人の目的を尋ねると「諸国民の光となることだ」と答えるように、本来アブラハムに明かされた、人類の祝福となるべき神の選民イスラエルが、律法祭祀に予見される人類贖罪の祭司職を務めるという「天に召される目的」が考慮されずに、ただ信者が天国に行き救われてそれで終わってしまい、不信者ら異教徒らは地獄に行くという幼稚な教理の上塗りとして携挙がそのきっかけであるかのように教えられているところがある。

この理解からすれば、奇跡の業をもたらす聖霊が注がれた者ら、『新しい契約』に含まれた生死に関わらず「聖徒」ら全体の天界への招集をパウロがテサロニケの書簡で明かしたものであり、それら聖徒は地上で聖霊の言葉を語るゆえに『大いなるバビロン』の使嗾を受けた諸国の公権力を表す『野獣』からの迫害を受けることになり、死者が先に召され、なお生き残っている者らが、定められた時に不可視の『雲の内に』天界に取り去られることを意味する。

ほとんどの教会では、そもそもこの「アブラハムの裔」からの観点での『聖なる者』の理解がないために、パウロの言葉の奥義には達していないので、欧米的凡庸の中で思考した結果なのであろう。「真のクリスチャン」なる自己義認的用語はパリサイ的優越感を醸し出しはしても、アブラハムに語られた『あなたの子孫によって、地のすべての民族は自らを祝福する』という、外に向って神の救いを広げてゆく意識なく、閉鎖的な「信者の救い」を標榜しているが、それはその宗派の人集めの手管ともなっている。

次いで、奇跡を行う聖霊を注がれ、選ばれた者らである『聖なる者』が、終末に『新しい契約』を守って忠節であるか否かが試されること、また、古代の聖徒らが、その生涯を契約を守って生きた否かが裁かれるという概念を教会の教理は持っていない。

そのため、信者が天のキリストの許に召されるというお目出度い祝福を妄想してしまっている。

根本的に欠けているのは、創造の神の被造物である人類をアダムの堕罪以前の栄光ある姿に回復するという神の目的への理解の欠如であり、その寛容な赦しと、キリストを大祭司とし、聖徒らを祭司とする天界の崇拝機能である『天の王国』を「天国」と勘違いしているところにある。加えて、信者個人の幸福を求める利己性がキリストの犠牲に表明されているアガペーの利他性を破壊していることに無意識でもある。その信者らは、もし、自分たちが神からの格別の扱いを受けないとすれば「何のために信者になったのか」と問うほどに「ご利益信仰」の範疇にいるであろう。

そうであれば、キリスト教の精神を見極めているとは言い難い。

 

テサロニケへの手紙で述べられている『空中に取り去られて主に会い』とは、終末の迫害をも生き残った幾らかの聖徒らが、『契約』を守ったゆえに、死したる古代の聖徒らの『第一の復活』に準じて直接に肉体を解いて天界に召される事態の発生を言うのであり、これは黙示録11章の中でより詳しく明示されている。

そこでは、聖徒らが世からの迫害によって殉教を遂げてゆくなかで、ある時点での『残りの者』を象徴する『七千の名が抹消される』ところに現れている。

迫害する官憲は、聖徒の残りの者らを探し回るが、地上には一人も残されていないことに驚愕し、そこで聖徒らによる終末最大の異兆が起こり、キリストが「ヨナの印」と呼んだ、復活に相当する奇跡の発生を悟る迫害を主導した宗教家らは、敢えてそれを認めず、口止め料を払ってでも官憲の口を封じるという、キリスト初臨での対型の事態を迎えることであろう。

そうして、この世からの迫害によって清められた聖徒らは、キリストと同じ道を歩み、自分の十字架を担って続いたため、天界での大祭司キリストに従属する祭司としての身分に任命され、こうして『子羊の結婚』が行われ、いよいよ天界の神殿は油注がれて、機能を始めるべく、雲に覆われることになる。

その間、地上では『新しい契約』を守らず、忠節な聖徒を売り渡してユダ・イスカリオテの道を歩んだ脱落聖徒らが、地上で悪霊による奇跡の業を行い続けて、世の政祭を牛耳り、神殿に座して贋キリストとなり、三位一体を利用して神をも自称する。

その崇拝を行わない人々には不利益を負わせ、自分への崇拝を強要し、地上の王国を『神の王国』と僭称し、遂には自分に従わない聖霊信仰を抱いた人々を抹殺するために諸国の権力を糾合するに至る。

そこから先に何が起こるかは言うまでもない。

 

以下、関連する誤解

 

 

・再臨の時は父なる神のみが知る事項
Mt24:36に基づくなら、これはパルーシアではなく王権領受の時を主にさす


・人々が認知できる様態でキリストは再び来る
Act1:11に基づくなら、これは雲に入った状態の「様」を指す

Jh14:19 はキリストは世人の見るものとはならない

1Pet3:18 にある通りキリストは肉の存在を終えている


使徒信条は「主はかしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん」と告白する
二度目の臨在で生者と死者を裁くとは聖徒に関してのこと

三位一体説から捉えるとJh5:21のキリストの言葉の意味や奥深さが読み取れず、復活と裁きが二種類あることが理解できない。黙示録の『第一の復活に与る幸いな者』も意味不明となるのでは

 


-GR教会共通の認識-
イエス・キリストが再臨し、世を裁き、神の国を確立するという信仰

 

キリストの再臨によって第一に裁かれるのは聖徒らであり、彼らが地上で裁かれる過程によって人類全体が裁かれる。Mt25:31-はこの過程を述べており、キリストの『兄弟たち』とは聖徒と意味し、左右に分けられるのが人類全体となることを指している。


・携挙の時期に異論多し
携挙の目的が「主と共になる」あるいは救われることに限定して、重要な意義が欠落しているので、時期の特定が難しくなっている。つまり、証人としての働きと迫害と死、主の王権領受と召集の関係。艱難前携挙は脱出目的で優越的、艱難中携挙は中間的、艱難後携挙は選択的。いずれも微妙に的を外しているように見える。

 

・前千年期説が主流

これが最も人気を博すのは、「携挙」によって「真のクリスチャン」(この語は差別的)の者らは「患難」から逃避できるという益に原因がある。

<これは『新しい契約』とキリストの道に倣うべき『聖徒』の理解がない>

 


・なぜ昇天とせずに携挙としたか?
用語「携挙」はPhilip DoddridgeJohn Gillによって用いられ始めた。元々はリチャード&インクリース・マザーとジョン・コットンらの前千年王国説から派生。

「携挙」はアメリカ的教理であり、無千年主義のカトリック東方正教会カルヴァン派の多くは前千年王国説が無いために、この用語を用いることはない。

Jonathan Edwards 1703-1758
超自然の体験を重んじ教義主義を批判

Benjamin Franklin 1703-1790
避雷針、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、ロッキングチェアー、遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明した。
宗教的にはボストンでチャールズ・マザーの影響下にあり、社会変革の聖書的夢想を描いた。The evangelical minister George Whitefieldの神学に賛成はしなかったが、その貧窮者救済の姿勢に同意して、ホワイトフィールドの著作を公表し、結果的に大覚醒を推進することになった。

 

所見;
つまるところ、自己義認のひとつの形というばかりに見える。神に認められたい願望が募って「真のクリスチャン」なる抹香臭い言葉が出て来たようにしか見えない。人は皆がキリストの犠牲を要する『罪人』という意識はなく、他と異ならせる自分の価値を高めたいという他者犠牲の上に成り立つパリサイ的想念から聖句を捻じ曲げて作り出された妄想であろう。

リヴァイヴァルといえば聖霊による聖書を書かせた霊感との断絶を意味しよう。アニミズム的熱狂がパウロ的論理を無効にする。「約束の聖霊」の留守の間の悪霊によるキリスト教徒の乗っ取りというべきか。欧州キリスト教衰退を尻目にしたアメリカのキリスト教の勢いの一半はこの力が由来のようだ。

[滅びゆく魂の救いを願い]とは意味が分かってのことだろうか。
この人々は自説を説くのが不得手らしい。学ぼうとしても一向に理解が難しい。


それはこのようなことであったのか------
「セイラムには、前年から就任した牧師がいました。彼は真っ当な宗教なら政治と関わるべきではなく、マサチューセッツ湾植民地の教会は国教会と縁を切るべきであり、また、新大陸は先住民のものであって、イギリスはそれをマサチューセッツ湾植民地に所有させる権利など持ってはいないと説教していました。

 けれども、彼はジョン・コットンにそれを糾弾され、職を追われただけでなく、植民地自身から追放されてしまいます。四人の信者と共に、彼はナラガンセット湾の北部沿岸の土地をネイティヴ・アメリカンから購入して、集落をつくり、バプテスト開拓者のための宗教的自由の地と宣言し、「プロヴィデンス」と命名しました。そこは現在のロードアイランド州に含まれます。

 この人物こそロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)です。彼は、以後、コットンとの間で、政治と宗教をめぐる激しい論戦を繰り返していくのです。」

 

ロジャー・ウィリアムズ(1603-1683)は、政教分離を唱えて国教会に反対し北米に渡った。しかし、彼がインディアンに同情的であったため、白人優先のメリットに浴したボストン近郊のキリスト教指導者らとすぐに対立するようになっている。

国教会派を逃れてヴァージニアよりも北を目指した清教徒集団も、次第に政治的にならざるを得ず、そこで様々な妥協と現地人との軋轢が生じていった。

彼は後にプロビデンスを設立し、それはロードアイランドに一つの政府を勅許によって確立するに至る。その政府は北米のどこよりも早く奴隷制を否定した。彼の許には清教徒的偏狭さを逃れた人々やユダヤ教徒までが集まった。

インディアンの教化は思うより難しく、あのウィスレーですらも逃げ帰っている。<メソジスト的生き方を最初から求めたのか?文化的基盤の違いからして無理は見えているキリスト教がすっかり欧州化して本来の寛容さを失っていた>

「この世で規則通りに作られたキリストの教会は無いし、また教会の儀式を監督するように資格付けられた者もいない。新しい使徒が教会の偉大な首長によって派遣されるまでそれらは有り得ない。使徒の来迎を私は求めている。」

代表的著作『良心への迫害血染め教義』1644

 

 

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キリスト教のほとんどがキリストに敬意を集中しても、その『兄弟ら』とされる聖なる者らについては無視している。

その弊害が、元来聖徒に与えられている数々の恩恵を信者である自分たちのものと勘違いさせるところにある。

それであるから、キリスト教理解の重要なカギは「聖徒理解」にあると言って過言でない。

聖徒と信徒の区別が付くことによって、初めて聖書に流れる底流を把握でき、全体像を俯瞰することができるようになる。

これを隠された疑似キリスト教は、聖書理解の土台にさえ到達せず、単なる道徳律や精神論に終わる。それらは皆、なんら発展性も、画期性もない人間の推論に過ぎず、同じところをぐるぐると回り続けるもので終わる。

到底「神意」の卓越性を繁栄する高みには上らない。

聖霊が真理を告げるとき、それらに暗黒が臨み、聖徒への猛烈な敵意で満たされることは預言に言われることもないほど明らかで、非理性的な感情論とキリスト教の名を汚す闘争性を露わにすることであろう。

こうして「キリストの兄弟ら」もキリストの道に入ることになり、旧来のキリスト教界は、ユダヤ宗教家らの轍を踏むことになろう。

はっきり見えているのに、「クリスチャン」は熱心であったり、教師であったりすれば、これを避けられないだろうということであり、その神を差し置いた自己義認の頑なさはもうすでに見えている。生み出されるものは傲慢、排他、蔑視、敵意ほどが目立つち、あとは自己満足的な敬虔さくらいか。キリスト教界はまたしてもユダヤ教の愚を繰り返すのか。