Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

使徒らにも隠された事柄

『あなたがたはけっしてその(再来の*)時を知らない』
この句はMt25:13にある。
また、この句は24:45の『忠実な思慮深い僕』についての予告の言葉の結論部分に当たり、その僕も含んで『その時を知らない』ことになる。
この文脈Mt24:9-25:30は、使徒らが時を知らないゆえの「印」についてイエスが述べている場面である。
その間に『天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる』時があること、『ひとりは取り去られ、ひとりは残される』ので『いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。』
また、盗人を例えにしてから『思いがけない時に人の子が来る』とも言い加えておりここまで語られると使徒らですら、イエスの再来の時、しかもその決定的な時(これは単なるパルーシアだけでなく、そのエピファネイアを指す)を知ることはまず諦めねばなるまい。
それは使徒を含む#以外の聖なる者らの裁きの「時」であり、裁かれる「聖なる者」はその時を知るべきでない理由があるとすれば、彼らの裁き以外に何か考えられるだろうか。#⇒「主の晩餐で忘れられてきた二つの事柄」
そして初期の聖徒らは死の眠りに就くその「時」が即ち裁きの時となろう。そこでやはりこの一連のマタイ福音のイエスの予告の言葉の中に「十人の乙女」の例えが含まれている。⇒「十人の乙女の例え
それからマタイではタラントの例えが続くのであり、それは聖なる者に下賜される『聖霊』をどう運用するかが彼らの裁きを左右することを知らせている。⇒「ミナの例え
こうして見ると、Mt24:9-25:30までの内容がすっきりと『約束の聖霊』#を受ける聖徒に対して語られたものであることに得心がゆく。#[τῷ πνεύματι τῆς ἐπαγγελίας τῷ ἁγίῳ]eph1:13[ἐπαγγελίαν τοῦ πνεύματος τοῦ ἁγίου]Act2:33



そして、使徒自身の「時」に関する理解の一端を使徒パウロからよく見ることができる。
パウロは西暦50年代にテサロニケに宛てた書簡の中で、自分についてこう書いている。
『わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。』(4:15)
つまり、パウロは西暦50年代に自分が主の再来の時(単なる臨在ではなく)に生きているという認識でいたのである。
それが最晩年のテモテ第二の書簡では、二度目の逮捕による裁判について語っており、自分の傍にはルカしか居ないと言いつつ
『わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。』(4:6-8)
と言うのである。
この両者にはおよそ20年ほどの時が流れていたが、使徒個人については『聖霊』も「時」を啓示していないことが分かる。もちろんMt24章のイエスの言葉からしても、その必要は無い、いやあってはならない。聖霊を受け『新しい契約』に属した者がその生涯をどう生きるかにその契約を全うするか否かがかかっていたからであり、それな正しく初穂なる者らの先だった裁きであろう。
したがって、パウロのような初代の聖徒らにとって主の臨在の時は予想以上に延びつつあり、彼らの寿命を超える事態を迎えていたのであった。もちろんこの時は21世紀の現在も未だ訪れてはいない。しかし、イエスを退けた世代にはその酬いである『火のバプテスマ』つまり滅びが西暦七十年に臨むことになる。それはキリストの刑死から37年後のことで、その三年ほど前にパウロとペテロが世を去る。そこで、イエスと同世代のユダヤには間違いなく大患難が臨んでいるのであり、それはモーセ体制の終りというだけでなく、大殺戮と神殿と聖都の全くの破壊を伴った。そこに至る状況はMt24の最初の方で語られた印を認めることができる。
『世代』については、イエスをメシアとして信仰することなく、結果的に律法契約に留まったメシア殺害のユダヤの世代に対して、イエス後37年目に破滅が臨んでおり、その報いは確かに40年以内に訪れた。この点で終末の「世代」に注目し続けることはパラノイアであり、キリスト教らしからぬ異様な「時」への執着と云う以外無い。聖書の描く「終末」は短いものであり、おそらくは数年というものになるらしい。


さてそこで・・ものみの塔だが
キリストの臨在を特定の年代に設定するとなると、これはどういうことになるだろうか?
エスの終末の予告を聴いたのが使徒四人であっても、『けっしてその時を知らない』と例えを重ねて強調されている。したがって、使徒以下の誰もその『時』を知るには至らないことになる。
従って、何者かが(それも聖霊の啓示ない)特定の年代を予告してキリストの臨在を語るべきだろうか?
しかも、このMt24:9-25:30の一連のイエスの予告の部分で強調されているのは決定的な時、即ちエピファネイアである。そうでなければイエスの警告して語るような「聖徒の裁きの時」とはならないからである。
加えて、時間の不確定の中には『忠実な思慮深い僕』も文脈に含まれている。『時に応じて(時間通りに)食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。』の言葉は、その時において誰かは不確定なまま、『もし、その僕が・・』と続くので、これはその語られている『僕』が善悪のどちらにでもなり得ることへの警告となっている。それであるから、この『僕』の善悪を固定することはできない。それはキリストから誉められるとき、また咎められるときに同定されるからであり、双方に分かれる複数者を表すのかもしれない。それを人が、その「僕」が誰かを知るよりはその働きに恩恵を受けている方がよほど重要である。ましてその『僕』は自分だというなら、それは聖句の曲解ばかりか傲慢さがにじむ。それを決めるのは他ならぬ主自身であられるのであるから。
この僕を特定できない第一の理由は、正しく『約束の聖霊』で油注がれ、為政者らと対峙するほどの『聖なる者』を世界は見ていないからである。
それに加えて、使徒たちでさえこの文脈の『時』が知らされないことが強調されているのであり、使徒以上の人物を想定することが聖書記述から不可能であるから、この文脈での「時」を知る人物という者は存在しない。まして『時に応じて』と訳したときにその『時』をパルーシアに絡める意図があったのであろう。しかし、この『時』[ καιρος]とは日毎の定時の食事の時を表しており、従者たちの全体が飢えることのないようにされることを意味している。それを曲げて「終りの日」という「時代[ καιρος]に応じた知識」という食事を与えるという概念を暗示させるとすれば、これは矛盾が生じる。なぜなら使徒らもそうであったように、この『僕』も「主の時」が実際に始まり主が到着するまでそれを知らないからである。

ものみの塔は、まずスピリチャルな年代計算をアドヴェンティストから取り入れ(年代だけではないが)、1874年を主の臨在の始まりと規定して(後に1914年)から教理を組み立ててきたので、自分たちを正当化するにこのマタイ24:45から始まる『僕』を都合の良いものと見做したであろう。主が『持ち物のすべてを委ねる』という句には人々を支配するという野望がくすぐられたように見受けられる。
そこでものみの塔は、パルーシアの始まりの時とエピファネイアの時を厳密には区分せずに自派の教理を組み立てているが、キリストが使徒らに警告しているのはエピファネイアにどう彼らが至るのかという事であり、パルーシアは聖なる者の存在そのものが印となるのでそれを知らせる必要性は低く、実際この文脈はそうなっている。
だがものみの塔が、パルーシアの始まりの時とエピファネイアの時を厳密には区分せずにいる理由には、信者への緊張感を高める狙いがあるように観察される。本来は「聖徒」への契約順守を求め、「臨在」の始まりから、「聖徒」の裁きの確定する「主の顕現」までの期間に求められる忠節を、聖霊もない「信徒」の方に求めて、その不必要に重い頸木によって支配し、仲間として確保しておくためであろう。しかも、聖霊が地上に無い現在、「臨在」は始まっておらず、信者の大半も契約にないのであれば、これはいったいどういうことになるだろうか。それでは恰も、『主人の帰りは遅いと言って・・宴会を始めた』かのようではないのだろうか。その信者は認めたくないに違いないが、実際には、そのすべてが架空のものである。

一方、明らかに『僕』が給仕をする『時』は『主人の到着』の以前で、逆に『主人』が『僕』に『給仕』を始めるのはパルーシア以後のことになろう。この文脈で、この「給仕の予告」の時だけはエピファネイアへの警告ではない。それはこの『僕』についてイエスがルカ福音で何者かを特定せず、ペテロの質問に対して「聖徒」か「信徒」かをも明らかにしなかったところに表れている。
また、『主人』が『僕』に『給仕』するというのは、キリストが臨在を始め、そこから聖霊によって知識が与えられ、証しが立てられなどするように思われる。それまではキリスト教の真の回復は起こらないが、何らかの主の御旨に適うところがあるゆえに、その『僕』は評価を受けるのであろう。


そこで
パウロでさえ20年の間に自らの時の認識がこれほど変化したのであれば、いったい誰が自分の命がどうなるかなど想定できようか?もちろん『世代』の解釈は間違っていて、時代的にもはや意味を成していない。
したがって、ものみの塔の言うように、すでにキリストの臨在の時を迎えていて、時に適った霊的食物を与えている何者かを現時点までに特定することは、疑いもなく聖書記述と衝突しているのである。このマタイ24章もその文脈も誰が読んでもそうなるからである。まして特定の、それも百年を経てしまった年代をいまだに唱えるどんな根拠があるのだろうか。
ものみの塔特有の聖句と聖句の間を抜いて、このような栄養価なく毒でさえあるような「霊的食物」でも提供しない限りは、普通に聖書を読む読者をさえ騙せないはずであり、そのあたりは読みの浅い信者にも大きな問題があろう。どうしてこの文脈の年代を特定などできようか?⇒「黙示録の四騎士

それにしても、ものみの塔のMt24章の「時代の印」の指摘の仕方はイエスの語った言葉の多くを飛ばし読みする必要がある。これを信者はどう感じているのだろうか。拾い読みしていることに気付くと思うのだが。Mt24章だけでもこの文脈で最も肝心な聞き手であった使徒らへの警告の部分を飛ばして読んでいる感覚があるのではないだろうか?ものみの塔の解釈ではエピファネイアに於ける「油そそがれたクリスチャン」の裁きがまるで無い。これではイエスの終末預言の半分以上に亘る警告の言葉を無視することになる。その動機は、「油そそがれたクリスチャン」なる者らの権威に関わるからであろう。彼らはルカ22章に在る『王国のための契約』を評価せず、曖昧な説明を繰り返して十二使徒の格別な立場も認めようとしていない。それは身の程を知らない尊大な態度というべきだろう。
明確に言って、「油そそがれたクリスチャン」は聖書に描かれる『聖なる者たち』(ハギオイ)ではない。
「油そそがれたクリスチャン」についてこの宗派が述べるところと、聖書が伝える精錬されるべき『聖なる者』とは根底から異なっている。彼らにとってエレメントに預かることが天への召しの決定になってしまっていて、『新しい契約』が何であるのか、それを守る重い責務について明らかにしようとしない。それが「天的成員」の沽券に関わるからであろう。


畢竟、この宗派を成り立たせている信徒らは「楽園」[パラダイス]なる肉的なご利益に目が眩んだということなのであろう。この語「楽園」はキリストの発言では例外的であり、これを強調することそのものも聖書からの逸脱というべきである。⇒「共にパラダイスに
いや、この宗派を信奉する動機は「滅びへの恐怖」である。
これらの疑問に対する彼らの答えは、我欲による「沈黙」となるであろう。正面切って反論する信者も論旨が混乱している。というよりは本人の判断力が奪われているらしく、宗派の見解を繰り返すのみとなるようだ。彼らは組織の判断を越えて、自分の自由な見解を表明することが許されていないのであり、そのようなことを発言すれば「背教」と見做されるのである。
彼らの関心は神には無く、第一に神の不興をかって滅ぼされないことであり、第二に自分たち信者同士の関わりを失うことを、第三に「楽園」の希望が霧散することを気遣って、それ以上思考判断することができなくなるようだ。これは精神的隷属というべきだろう。即ち『死への恐怖から隷属に置かれている』のである。(Heb2:15)
しかし、聖書に描かれる大志は彼らに関わり無く偉大である。それは即ち、人間が創造の企図に復帰し、『神の子』と呼ばれるに至り、こうして神の創造の業が完遂することである。





それに加えて、ルカ福音では給仕をする主人の例えを聴いたペテロがこの『忠実な思慮深い僕』のイエスが言及する直前に給仕の例えは誰に話されているのかとイエスに訊いている。
しかし、イエスはそれに答えずにそのまま『僕』の話を始め、その結末は良くも悪くもなるのである。
したがって、この『僕』が聖徒と信徒のどちらに相当するのかを特定することができない。それは聖霊が有るか無いかが分からないままに語られたということである。しかも、主人が到着する前にそうしている自発的な「僕」に対する主人の親切であり、マタイの方だけでこれを解釈するのは片手落ちとなろう。ルカはその前に話された内容を伝えており、そこでは給仕の役割が「僕」から「主人」に代替される。つまり、供給者の変更が起こる。この「主人が僕に給仕をする」という異例さが表していたのは、自発的給仕が主人の到着前に行われ、それが評価されるというところにあるのであって、既に主人の「経路」となっている訳では無く、その代弁者でも無い。主人は到着すると、直接に給仕をするのであるから、そのときには経路も代理人も持たないであろう。もし不可視のキリストからの経路があるとすれば、それは即ち、初代のように『聖霊』による監臨の再開を意味するのであろう。⇒「聖霊によるキリスト教の回復

また、マタイ24:45に有る『彼らの上に任命した(アオ)』の言葉から、その「僕」が事前に任命されていると捉えることについては、ルカの平行部分で『従者団の上に任命する(未来)』(ルカ12:42)との照合からしても、『任命』の時の特定は難しい。加えて、その『任命』の時がキリストの臨在に先立つと見るのは、キリストの地上への関わりが無いアプーシアの間にキリストが『任命』を行うとするには矛盾が生じるので、この『任命』はキリストの臨在の後に『持ち物を委ねる』との事柄に関わると見做すのが妥当である。

だが、その自発的給仕にも責任が求められている。これが「給仕する僕」への警告であろう。けっして何者かに権威を与えるために語られてはいない。しかもそれが自発の業であれば、神に任命など受けずに開始していることになる。主の監臨が始まるときに、主人はそれを高く評価し、キリスト自身がその僕に仕えるというからには、それは際立った変化を伴うのであろう。
この推論で考える場合、主人の到着とは臨在を示し、そこから聖霊が注がれるのであろう。従って、その「僕」とは自発的給仕をする者であり、聖霊を持たないことになるだろう。そうなると自発的に給仕を行っていた時点でのその僕の身分は「信徒」ということになる。イエスがペテロの質問に答えなかったのは、その「信徒」が「主人」の到着後に「聖徒」となり、一切を任されるからではないか。あるいは、これは「女シオン」ではないのか。⇒「シオンの娘の謎を解く
いずれにせよ、その「僕」は自分がそれだとはけっして言わないだろう。主がそう見做すか否か以外は何の評価も意味がなく、まして自称などもってのほかではないか。⇒アンデレのように



・こうしてイエスの終末予告を概観すると、使徒らが聖徒らの中核であったことが分かる。彼らは後の聖徒に対して語られたイエスの言葉を受ける器であった。そして主の晩餐において聖徒の全体に先立って与り、そのうえイスラエルの全体を裁く権威を天上の次なる晩餐で約束されている。黙示で彼らは新しいエルサレムの12の土台石ともされている。
(するとパウロはどういうことになるのだろうか?格別な何かがあるか)


以上のまとめ⇒「マタイ福音書のキリストの終末預言と例え




・シオンの子らが諸国民の王たちの世話を受けるということからすると、その「王たち」とはシオンの一部か? ⇒ おそらくはキュロス大王をはじめとするアケメネス朝の王らが神殿祭祀復興を意図し、ゼルバベルの前の『山』のような障害を『平にした』事例を終末に敷衍しているのであろう。しかし、実体は依然見えない。


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Richard Chenevix Trench 1807-86 Dublin-London
Synonyms of the New Testament (1855)(1880)
どうやらこの書↑の1961年版を多用しているらしい。
古すぎないか?アマチュア向けの本では?
この人物の格言「愚か者が最後にやることを賢者は最初にやる」






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