Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

主の晩餐 要点

・キリストはこれを死の前の晩まで一度も行わなかった
  それはキリストの死を記念する
  新しい契約と関連し、血の犠牲なくしては発効しなかった
  キリストの帰天後「助け手」の聖霊が遣わされる
Luk22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
Ex24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
Joh16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。


・初回は使徒たちだけが預かった
  彼らはキリストへの追随を通し信頼が実証された
  同様に死に至るまでの忠誠が求められる
Luk22:28-29 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
2Cor10:6 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
Rev2:10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
17:14この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」


・聖餐はキリストの復活ではなく死を宣明する
  キリストの死が成し遂げたことは復活に勝る意義あり
1Cor11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
Phi2:8-11 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
Isa53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。


・古来の過ぎ越しの夜と時を同じくした
  エレミアスも指摘するように過越でエルサレムに居た
  キリストは「神の子羊」となり血で贖う
  過ぎ越しの羊で贖われたレヴィ族が祭司となった
  キリストの血は聖霊を受ける者を贖い人類の祭司とする
ディダケーは、古代に過ぎ越しと聖餐が並行して行われていた可能性も示唆している。(史Ⅰp174)

Ex12:21-27 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。
また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。
Joh1:36 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
Nub3:11-13 主はまた、モーセに仰せになった。
見よ、わたしはイスラエルの人々の中からレビ人を取って、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての初子の身代わりとする。レビ人はわたしのものである。すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしはイスラエルの初子を人間から家畜に至るまでことごとく聖別して、わたしのものとした。わたしは主である。
Rom8:29-30 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
Eph1:7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
Jam1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

・パンはキリストを体を共にし霊者となることの象徴
  水と霊から生まれアダムの命を去り永生に入る
  いずれは天に招かれキリストと共に「王なる祭司」となる
  象徴的神殿の石となってキリストの上に建てられる
Joh3:5-7 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
1pet1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
Rev20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
Heb3:5-6 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
Rom8:29-30 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
1cor3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

・ぶどう酒はキリストの血によって新しい契約に入る象徴
  新しい契約は肉体の時からその人の原罪を仮赦免させる
  人類に先だって贖われ「神の子」の「初穂」となる
Ex24:8 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」
→1Pet1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
Rom8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
&8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
Jam8:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。
Eph1:13-14 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
 

聖霊を受けキリストの業を続行する
  奇跡を行い人々に対して徴となり、為政者と対峙する
  聖書全体の知識を得て人々に教える
  失われた至聖の神の名を知り宣明する
Mat10:16-20 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
Joh15:26-27 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
&16:4しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。
&16:13-16 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
Act15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
Joh17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」


使徒ヨハネの追随者らはニサン月14日の晩に挙行していた
  第二世紀には周囲の教会は日曜の「復活祭」に変更していた
   教会史V24


キリスト教徒でないローマ皇帝が復活祭を決定した
  その結果ニサン14日の聖餐が消滅した
   Vita Constantini Ⅱ18-19


カトリックでは一種陪餐となる
  アル中や幼児へのぶどう酒提供が憚られたため
  本来、聖餐はこれらの人々を含まない証拠
  12世紀以降常態化


・聖餐が秘蹟とされる
  パンとぶどう酒が聖体に変化すると教えられる
  そこでは何の奇跡への関連も無くなっていた
  聖餐の意義を見失った証拠

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論考

聖餐を表すようになったエウカリスティア[ευχαριστία]は感謝の意味で、食事に際しての感謝を唱えるところから来ている。これと「愛餐」(アガペーの食事)を含めて「主の晩餐」(パスカ)が混同されていったように見える。
平素、キリスト教徒が集まって食事をし感謝を捧げて愛餐を行ったことは「パンを裂く」(分配の意)とも表現されたことが誤解の要因であったようだ。それらをパスカと勘違いされたところで聖餐の日常化されたように見受けられる。
それでも、エイレナイオスがウィクトルに宛てた書簡からすると、小アジア以外でも毎週に聖餐は行われていなかったことが分かる。というのも、毎週二日やそれ以上、また断食が伴ったり、40時間にわたる儀式を毎週行ったりすることは無理がある。これは主の死乃至は復活の日付に合わせた行事を指すであろう。その後第四世紀ニカイアの頃も皇帝は年一度のパスカに言及しているのであり、暦の乱れから年に二回祝うことになってしまったユダヤの混乱を嘲っている。毎週のように聖餐が日常頻繁になったのがはっきりするのはメディオラヌムのアンブロジウスの五世紀ころからであろう。日常の聖餐が初代から行われたとするのは少々無理そうである。その根拠のひとつ「パンを裂く」の語について以下に考慮してみる。



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