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ダニエル書第11章 歴史照合と解釈

ダニエル書11章

内容を歴史と照合し解釈を追う 

フランシスコ会の解釈><ハンマーの解釈><ダニエル書の構成

マカベア第一書とダニエル書の関連

 

 

 

11:1 私はメディア人ダレイオスの元年に、彼を強くし、彼を力づけるために立ち上がった。

11:2 今、私は、あなたに真理を示す。見よ。なお三人の王がペルシアに起こり、第四の者は、ほかのだれよりも、はるかに富む者となる。この者がその富によって強力になったとき、すべてのものを扇動してギリシアの国に立ち向かわせる。

「なお三人の王が起る」

これはスメルディスを除くカンビュセス、ダレイオスⅠ、クセルクセスのようである。「第四の者」はキュロスから数えており、480-479年の遠征でギリシアに大規模な軍事行動を起こしたクセルクセス(485-465)に一致する。

 

11:3 ひとりの勇敢な王が起こり、大きな権力をもって治め、思いのままにふるまう。
11:4 しかし、彼が起こったとき、その国は破れ、天の四方に向けて分割される。それは彼の子孫のものにはならず、また、彼が支配したほどの権力もなく、彼の国は根こぎにされて、その子孫以外のものとなる。

 

大遠征を行うマケドニアアレクサンドロス三世王と、323年6月の突然の死が将軍たちによる王国の分割をもたらし、王族が絶えること

 

 

11:5 南の王が強くなる。しかし、その将軍のひとりが彼よりも強くなり、彼の権力よりも大きな権力をもって治める。

 

後継将軍の一人でナイル川に守られたエジプトを受継いだプトレマイオスⅠ世が最初から安定的な支配を得て、摂政ペルディッカスの侵攻を退けプトレマイオス朝の礎を築く。ペルディッカスは隻眼のアンティゴノスとセレウコスによって殺害された。322頃

315年にアンティゴノスとその息子デメトリオスの勢力から逃れたセレウコスがエジプトに身を寄せていたが、312年プトレマイオスⅠ世がデメトリオスに勝利してユダヤを領域とし、寛容な支配を行う。-198

この勢力の変化によりセレウコスは東方に戻りオリエントの支配者となる312年。その後、小アジアからインドの北西の端までに版図をひろげた。そこでその勢力はプトレマイオスを越えるに至った。

301年にはイプススの戦いで勝利しアンティゴノスを死に追いやった。残る勢力はマケドニアギリシアのカッサンドロス、アナトリアトラキアリュシマコス

 

 
11:6 何年かの後、彼らは同盟を結び、和睦をするために南の王の娘が北の王にとつぐが、彼女は勢力をとどめておくことができず、彼の力もとどまらない。この女と、彼女を連れて来た者、彼女を生んだ者、そのころ彼女を力づけた者は、死に渡される。

 

248年頃、プトレマイオスⅡ世は、アンティオコスⅡ世(セレウコスの孫)が妻のラオディケーを離縁し、彼女との間のふたりの息子の王位継承権を奪うという条件の下に、娘のベルニケーを与えた。

この結末は、246年のアンティオコスⅡ世の死を契機に、ラオディケーによるベルニケーとその嬰児の殺害を惹き起こす。

 

 

11:7 しかし、この女の根から一つの芽が起こって、彼に代わり、軍隊を率いて北の王の砦に攻め入ろうとし、これと戦って勝つ。

プトレマイオスⅢ世(247-222)は、姉妹ベルニケーの報復をしようとセレウコス領に攻め込んで勝利し、241年ラオディケーを殺害して復讐を果たす。

 

11:8 なお、彼は彼らの神々や彼らの鋳た像、および金銀の尊い器を分捕り品としてエジプトに運び去る。彼は何年かの間、北の王から遠ざかっている。

AD4世紀のヒエロニュモスは、プトレマイオスⅢ世がカンビュセスによって運び去られたエジプトの神々の像をエジプトに取り戻し、エウエルゲーテスの称号を得たと書いている。

 


11:9 しかし、北の王は南の王の国に侵入し、また、自分の地に帰る。

240年にはセレウコスⅡ世カリニコスはエジプトに侵攻したが逆に敗北し退却を余儀なくされている。


11:10 しかし、その息子たちは、戦いをしかけて、強力なおびただしい大軍を集め、進みに進んで押し流して越えて行き、そうしてまた敵の砦に戦いをしかける。

長男セレウコス・セラウヌス(226-223)と次男アンティオコスⅢ世大王メガス(223-187)のことで、セレウキアの砦、コエレ・シリア、ティルスなどを奪い前217年にはプトレマイオスⅣ世の大軍を破ってパレスチナ一帯を占領する。「砦」というのは、南方に対する最強の砦であったガザのことであろう。この時点からパレスチナはエジプトの支配下に入る。

 


11:11 それで、南の王は大いに怒り、出て来て、彼、すなわち北の王と戦う。北の王はおびただしい大軍を起こすが、その大軍は敵の手に渡される。11:12 その大軍を連れ去ると、南の王の心は高ぶり、数万人を倒す。しかし、勝利を得ない。

 

翌春にはガザの南西20kmのラフェアでプトレマイオスⅣ世はアンティオコスⅢ世に大敗北を与えコエレ・シリアとパレスチナは再びエジプトのものとなる。その後一年間の平和条約が結ばれた。

 


11:13 北の王がまた、初めより大きなおびただしい大軍を起こし、何年かの後、大軍勢と多くの武器をもって必ず攻めて来るからである。
11:14 そのころ、多くの者が南の王に反抗して立ち上がり、あなたの民の暴徒たちもまた、高ぶってその幻を実現させようとするが、失敗する。

 

プトレマイオス・フィロパトールが203年に死去したときに、アンティオコスⅢ世はラフィアの敗北から13年目にエジプト攻撃の機会を得た。彼はその目的からマケドニアのフィリッポスV世と同盟を結んだ。アンティオコスⅢ世は、プトレマイオス王朝の支配下にあった者らが反乱を起こす騒擾中のエジプトに侵入する(前202)このとき、一部のユダヤ人らが預言者の支持を求めながらアンティオコスⅢ世に味方するという事態が発生している。「幻を成就させようと」では、プトレマイオス王朝の支配からの解放と無名の預言者らが唱えた自由のことと考えられる


11:15 しかし、北の王が来て塁を築き、城壁のある町を攻め取ると、南の軍勢は立ち向かうことができず、精兵たちも対抗する力がない。
11:16 そのようにして、これを攻めて来る者は、思うままにふるまう。彼に立ち向かう者はいない。彼は麗しい国にとどまり、彼の手で絶滅しようとする。

 

「城壁のある町」とは、アンティオコスⅢ世が攻め取ったシドンであり、プトレマイオス家は将軍スパコスが軍を率いてユダに進軍するが、ヨルダン源流のパネイオンでアンティオコスⅢ世に敗北する(前200)プトレマイオスの総督であったスパコスは199年にそこで捕虜となった。アンティオコスⅢ世はその遠征でパレスチナを完全征服。以後エジプトの凋落が始まる。

 

11:17 彼は自分の国の総力をあげて攻め入ろうと決意し、まず相手と和睦をし、娘のひとりを与えて、その国を滅ぼそうとする。しかし、そのことは成功せず、彼のためにもならない。

 

194か3年にアンティオコスⅢ世はエジプトの支配を得ようとしてプトレマイオスV世エピファネスに娘のクレオパトラを与えた。これによりエジプトはシリアからの内政干渉を受ける。しかし、クレオパトラⅠ世は後には夫にローマとの同盟の強化を勧めたために、アンティオコスⅢ世の野望は挫かれた。

クレオパトラⅠ世からはプトレマイオスⅥ世、クレオパトラⅡ世、プトレマイオスⅧ世が生まれている。

 

11: 18 それで、彼は島々に顔を向けて、その多くを攻め取る。しかし、ひとりの首領が、彼にそしりをやめさせるばかりか、かえってそのそしりを彼の上に返す。

 

この以前197年にアンティオコスⅢ世・メガスは、小アジアに侵攻しほぼ全域を掌握した、次いでトラキアへと渡海していた。

192年、ギリシアに進もうと努めたが、191年にテレモピュライでローマ軍に敗れ、更に翌年には八万の軍を興すもスミュルナ近郊マグネシアでより深刻な敗北を喫し、その支配は終わりを告げる。ローマの指揮官はこの勝利によりスキピオ・アシアティクスと号した。「島々」とは地中海沿岸の国々を指す


11:19 それで、彼は自分の国のとりでに引き返して行くが、つまずき、倒れ、いなくなる。

 

188年、アパメアの和約によりアンティオコス・メガスは、ローマに莫大な上納金を科され、息子(後のエピファネス)を人質に取られる。187年、課料金を支払うために東方に赴きエラムのエリマイスのベル神殿を略奪しようとしたが、住民の抵抗に遭い、配下の者らと共に殺害された。人質となっていたエピファネスは後に別の兄弟デメトリオス(後のシリア王)と交代され、シリアに戻る。

 


11:20 彼に代わって、ひとりの人が起こる。彼は輝かしい国に、税を取り立てる者を行き巡らすが、数日のうちに、怒りにもよらず、戦いにもよらないで、破られる。
11:21 彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る。

 

その後継者として、アンティオコスⅢ世の死後、セレウコス四世フィロパトル(187-175)アンティオコス四世エピファネス(175-164)が順に王位に就いた。

セレウコスⅣ世は在位中9年にわたり毎年千タラントンをローマに支払う義務を負ったため、高官ヘリオドロスをユダに派遣し徴税させた。王は更に神殿の金銀を収奪させようとしたが、却って王は反旗を翻したヘリオドロスによって導かれた陰謀により暗殺された。即ち「怒りにも戦いにもよらず」死んだ。「幾日の内には」セレウコスⅣ世がシリアを収めた12年間を指す。

エピファネスはセレウコス四世フィロパトルの死後、正統な後継者であった幼少の甥デメテリオス(本来のアンティオコスⅣ世)の摂政ではあったが、やがて王を陥れ自らが175年に王位についた。この後のアンティオコスⅣ世エピファネスは「卑しむべき者」と呼ばれ、王座には不適格であったことが強調されている。そのデメテリオスもアンドロニコスに殺害され、そのアンドロニコスをエピファネスは処刑しているが、一連の策略はエピファネスの狡猾さであろうとされる。その彼を「卑しむべき者」と言っている。また「小角」とも象徴されている。

 


11:22 洪水のような軍勢も、彼によって一掃され、打ち砕かれ、契約の君主もまた、打ち砕かれる。

 

「洪水のような軍勢」とはヘリオドロスの軍勢の勢いを言う。シリアはその領域を次々に広げ、怒涛の勢いでエジプトに迫るが、その過程でユダにも侵入し、神殿祭祀も掌握されるに至る。
「契約の君」とは大祭司オニアであり174年にアンティオコス四世によって職を追われ、シリアに送られた後、170年にダフネでアンドロニコスによって殺害された。「油注がれた者」と同義で「契約の民の君」の意である。


11:23 彼は、同盟しては、これを欺き、ますます小国の間で勢力を得る。
11:24 彼は不意に州の肥沃な地域に侵入し、彼の父たちも、父の父たちもしなかったことを行う。彼は、そのかすめ奪った物、分捕り物、財宝を、彼らの間で分け合う。彼はたくらみを設けて、要塞を攻めるが、それは、時が来るまでのことである。

 

「小国の間で勢力を得る」とは、或いは「僅かな民によって強くなる」であり、小国への同盟関係の構築によって、兵力に頼らずに勢力を拡大したことを言うのかも知れない。或いは、「僅かな民によって強くなる」とは、アンティオコスⅢ世のシリアよりは弱くなったことを言うかも知れない。

 アンティオコス四世エピファネスは、家来には寛大で一人一人に金貨を与えたという。また、彼はエジプト征服を夢見ていた。「一時のこと」とはおそらくは神の定めの時までの意、或いは彼の寿命の意であろう。

アンティオコス四世は、ヤソン(175-174)メネラオス(172)など、自分の都合で大祭司を決めた。

リア王はペルシウムと国境の町々に居を構えながらエジプトを支配しようと試みた。(マカベア第一1:19)

 


11:25 彼は勢力と勇気を駆り立て、大軍勢を率いて南の王に立ち向かう。南の王もまた、非常に強い大軍勢を率い、奮い立ってこれと戦う。しかし、彼は抵抗することができなくなる。彼に対してたくらみを設ける者たちがあるからである。

 

アンティオコス四世の最初のエジプト遠征では、大軍勢を率いてエジプトに入り、ペルシウムの会戦で勝利し、プトレマイオスⅥ世を捕虜にする。このエジプト王はクレオパトラⅠ世を介して甥に当たることもあり、エピファネスは保護者を装い傀儡化する。

プトレマイオスⅥ世は宦官の勧めに従いサモトラケに逃避しようとするが、直前に軍事クーデターが起る。。

 

 


11:26 彼の食卓で食べる者たちが彼を滅ぼし、彼の軍勢は押し流され、多くの者が刺し殺されて倒れる。
11:27 このふたりの王は、心では悪事を計りながら、一つ食卓につき、まやかしを言うが、成功しない。その終わりは、まだ定めの時にかかっているからだ。

 

アンティオコスⅣ世がプトレマイオスⅥ世フィロメトールを破ったとき、二人の王は和約したが、アレクサンドレイアの人々はプトレマイオスⅧ世としてフィスコンの称号で彼の兄弟を王座に就けた。

「二人の王」とはアンティオコス四世とプトレマイオス6世であり、プトレマイオスは捕虜として優遇されていながら不利であった。その後 フィロメトールがアンティオコスの公正無私を信じているかのように振る舞ったのに対し、アンティオコスもフィロメトールのために行動しているかのように装った。

 


11:28 彼は多くの財宝を携えて自分の国に帰るが、彼の心は聖なる契約を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る。

 

189年にアンティオコスⅣ世はエジプトに侵攻、アレクサンドレイアを除いてエジプトを占領。エピファネスはプトレマイオス朝のフィロメトールをメンフィスに置き、アレクサンドレイアの王フィスコンと対峙させ、エピファネスはシリアへ撤退。

しかし、プトレマイオス朝の二人の王は二か月の間に互いの内戦を避けるために共同統治を承諾。

 


11:29 定めの時になって、彼は再び南へ攻めて行くが、この二度目は、初めのときのようではない。
11:30 キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。

 

168年、アンティオコスⅣ世はプトレマイオス朝の二王の和解を怒り、再度のエジプト遠征を企て、キプロス派遣艦隊を組織した。エルサレムユダヤ教(「聖なる契約」)への攻撃を以って終えた。エジプトの帰路にエルサレムに寄り、神殿の什器類や金銀を奪い八千人の殺戮を行った。

しかしエジプト侵攻はローマの代官ポビリウスの介入によって失敗。

ヘブライ語では「キッテムの船」となっている。これはローマの介入への言及である。マカベア第一1:1ではギリシア人を表す名称としてキッテムを用いるのであるが、ハバククについてのクムラン註解でも、この語でローマ人を述べることについてはダニエル書に従っている。LXXは現に「ローマ人」としている。(NEB註解)


11:31 彼の軍隊は立ち上がり、聖所と砦を汚し、常供の犠牲を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。

 

その後のユダヤ主義者への反対運動は、彼はローマの使者からの要求によってアンティオコスがエジプトを去る原因となったので怒りが火を噴いた。ローマの執政官ポピリウス・ラエナスが伝えた元老院の要求は、アンティオコス四世が武器を捨て、エジプトからもキプロスからも撤退することであった。ローマからの要求を拒めず、その鬱憤がユダヤに向かった。

アンティオコス四世はエルサレムに進軍し、神殿周囲の城壁を壊して要塞を建てた。更にヘレニズムを推奨して神殿の犠牲を中止させ前167年12月7日にゼウス像を作らせユダヤ人に犠牲を捧げることを強要した。こうして『常供の犠牲は絶え、荒らす憎むべきものが据えられる』。この迫害は三年の間続いた。


11:32 彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。
11:33 民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。

 

「民の賢い者ら」とはヘレニズム化を拒んだ者、「ある期間」は迫害の間、この辺りはマタティアとマカベア兄弟、167年からのユダ・マカベアの初めの反乱を指している。166年、ハスモン家のマッタティアに代ってイェフダが反乱の指揮をとり、ベト・ホロンでアポロニオスの軍を破る。真の解放は武力ではなく、神の恵みによると考えるハシディームに属する本編の著者は初期にはマカバイの運動に加わっていたが意見の不一致から次第に離脱していった。(六面独楽נגהש 「ネス・ガドール・ハヤ・シャム」の風習の始まりは165年のこととされる)

神殿の再献納は164年キスレウ25日


11:34 彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。
11:35 思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。

 


11:36 この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることがなされるからである。

 

敬虔なユダヤ人はエピファネスという名のように、王が自らを神と公言する試みに何ら脅かされなかった。エピファネスは硬貨に自分の像を刻印するだけでなく自らを神とした。だが、これは最後の冒涜行為となった。(マカベア第一1:24)


11:37 彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。
11:38 その代わりに、彼は砦の神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。
11:39 彼は異邦の神の助けによって、城壁のある砦を取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。

 

 『数々の強固な砦に異国の神のもの達を護衛兵として置き』とは、ヘブライ語の発音を換えて読むとこうなる。マソラでは「強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め」。アンティオコス四世はシリア人と棄教したユダヤ人を神殿傍の砦に兵士として立たせた。ユダヤ人はエルサレムに駐屯する異国民の守備隊の存在を憎んでいた。(Dan11:31/1Macb1:33.14:36)

 

11:40 終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。

 

これは該当する事例が不明

 


11:41 彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。
11:42 彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。
11:43 彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。

 

 

リビアとクシュも彼の歩みにつく』エチオピアリビアは共にアンティオコス四世に征服されていることを言うのかも知れない。

 

 

11:44 しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くのものを絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。

 

アンティオコス四世はエジプトに攻め込んだときに自国の東に居たパルティアと(北の)アルメニアの反乱を知って当地に向かった。


11:45 彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。

 

これもシリア史に該当する事例が見当たらない*

*アンティオコスⅣ世エピファネスの死についての実情がはっきりしない。

ハスモンのメギラー[Megillat Hachashmona’im](ヒレル&シャンマイの時期に成立とも)は、ダニエル書に似た出自の巻物で、アラム語のものであるが

それによれば、ユダヤに派遣していたニカノールの軍の敗北を知ったエピファネスは、(パルティア攻めから向きを替え)海岸沿いに進んだが、どこの都市でも逃亡者呼ばわりされ、(船でこぎ出した)海で溺死したという。

マカベア第二9章では、戦車から落下し酷い病気になったとしているが、その辺りの文面には誇張らしい不自然さが有って、史料とするには更に難しい。

どちらにしても、エピファネスが大軍を率いてユダヤを窺うようなところに至ったという情報はない。

 

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なぜマケドニア南北朝を追ったかと言えば、その狭間にもまれるユダヤを予告したと言えるのだが、しかし、特に励みにもならない民のためというより実態は終末への示唆にあると見て良い。そうなると、過程を示してエピファネスに至る意味が生じ、彼の終りが実際と異なってゆく意味も生じる。

なぜエピファネス以降の歴史が追えないかと言えば、それが終点であり、その後の記述はマケドニア史とは別の事柄を述べているからであろう。

この以前からマケドニア史を逸脱しアッシリア史を暗喩し始め、それを以って終末の聖徒の処遇を述べている。これはこれらの啓示を預言を装った歴史であると解釈していれば理解できない。

特にこの章の要点は、ユダヤの辿る将来を示すと言うよりは、第四の獣、またディアドコイの一角から新たに現れる角についての解説が第七章以降蓄積し、最高潮に達し、そこに他の幾つかの預言が関連している。

従って、第七章や第八章の世界覇権の趨勢が予告されていたと喜んでいるようでは、この意義には達しない。神が将来を予告したからと言ってそれが何だろうか!それが「神への信仰だ」とでも云うのだろうか。シモン・マグス程度の驚きになんの意味もない。

ここにはアンティオコス・エピファネス、またシャルマネセルⅢ世、セナケリブの三人の事跡の暗喩が見られる。従って、これらは終末に現れる実体を黙示録の『七つの頭を持つ獣』と共に比喩するものである。

この要点は『違背』であり、『滅びの子』を指し示すことにあると言える。

だが、多くのキリスト教指導者らが言うように、この知識が無いから必ずしも不法の人崇拝に傾くとは言えない。重要なのは聖書やキリスト教の知識ではなく、その人がどのような人格を持つのか、また自分についてどんな倫理的判断をし、何を選び取るのかによるのであり、知識が有ったからといって誘惑に遭うときに妥協しない保証はない。メシア初臨の時のユダヤ人に何が起こったかを思えば、却って知識が邪魔をしたのである。まして、ダニエルの言葉は要所が封じられており、『多くのものが右往左往して逸れて行き、彼女の(雑多な)知識が増す』と書かれてもいる。それが恐ろしい神意でもあるのだろう。人類が裁かれる側である以上、すべてが明かされるわけもない。

では知識は何のためかと言えば、まるで何の知識もないところに『理解を分け与える』こともないので『聖なる民』と呼べる者らを招来することもない。やはり知識はシオンのため、その子らの準備のために違いない。

 

エピファネスは諸文化の破壊者でもあった。特に宗教的文化に容赦なかったと言える。だからと言って彼がゼウスやオリュンポスの神々を畏敬していたとは言い難いものがある。むしろ自らを神の顕現とし、軍事色を強めた。しかし、より以上に軍事的で狂暴であったのはアッシリアである。その帝国の荒廃の原因は軍事統制が強すぎ、諸民族の怒りを買ったところにある。これらすべては来るべきものの影であることだろう。

ダニエル書は第七章から漸進的に理解を積み重ねる構成をとっている。つまり、順に興る世界覇権の姿の概要を示し、次いでギリシアとペルシアの闘争の中からディアドコイの中から興る醜悪な王を予告し、最後にマケドニア南北朝の対立からエピファネスの姿を映し出している。だが、11章の終盤から別の何者かについて語りはじめており、それはエピファネスの事を語ってはいない。しかし、終始『小さな角』が三つの幻を貫通するものとなっている。

それは即ち、ダニエル書の第七章以降が(9章を除いて)『小さい角』と『聖なる民』との確執を描いているのであり、これがダニエル書後半の意義であることはほぼ間違いない。

また、前半ではネブカドネッツァルを啓示の伝達者としてダニエルたちを必要とさせている。この大王に何を伝えようとしていたのか?この王は神殿祭祀の復興を命じてはいない。これら前半では、世界覇権国の王に対し、それよりも高い存在者が居ることを銘記させるものとなっている。

したがって、ダニエル書全体の意義は『王を教える』こと、即ち、世の支配者がどれほど権勢を窮めようとも、最終的には神がその支配を自らが託す者に与えるという主題に終始していると言える。

それからブラウンの説の成り立たないところは、ダニエルと黙示が「神の国」を『聖徒たちの王国』という扱いをしており、それは三時半の経過を要して後の裁きの結果であるのだから、単にキリストの臨在も、まして戴冠を指すことにもならない。黙示録第11章で第七のラッパが吹かれ『神の王国の権威が世を支配した』というときには、聖徒が天界に揃っている必要があることが分かる。<覚醒運動の指導者らは本当に聖書を熟読したのだろうか?>

 

 

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ディアドコイは7名が挙がる

 

クラテロス 360-321

 先に古参の兵を率いて帰国していた。舅のアンティパトロスに味方してディアドコイ戦役を戦い戦死。大王の学友

 

ペルディッカス 355-321

 王家に連なる貴族、病床の大王から認証指輪を授かり、摂政として事後の諸事に積極的に動く

マケドニア摂政アンティパトロスの娘と結婚しながら、いずれ離婚して大王の妹クレオパトラとの結婚を画策することにより王国への野心を見せたところで、アンティゴノスに通告されアンティパトロスとプトレマイオスを敵に回し、小アジアエウメネスと味方に引き込んだものの、自身はナイル渡河に失敗して将兵の怨みを買い、弑逆されエジプトで死亡

 

アンティゴノス 382-301

 年齢が高かったためか、グラニコスの勝利の後には小アジアの統治を委ねられていた。大王の死後はペルディッカスに対抗し、やがて東方に勢力を延ばす。その間に戦死し、息子デメトリオスがその覇権を継ぐ。

 

エウメネス 362-316

 ギリシア人で、大王に重用される才の持ち主であったが、ペルディッカスの側についたために小アジアに追い込まれて戦死

 

リシュマコス 361-281

 大王の死後、小アジアを任されるが、トラキアマケドニア方面にも進出し、最後はギリシアに達するもセレウコスに敗れる。

大王とは学友であった。

 

プトレマイオス 367-283

 大王から守りの堅いエジプトの太守を任されたために、最も安定した統治を実現し、プトレマイオス朝の祖として早めに息子に統治を譲り渡し、寿命を全うした。大王とは学友であり、遺体を引き取ってエジプトに運んでいる。大王の創建である首都アレクサンドレイアは、ローマと並ぶほどの繁栄を遂げ、ヘレニズム文化の中心となる。

 

セレウコス 358-281

 東方でアンティゴノスの勢力が強力であったときには一時的にエジプトに逃れていたが、以前に任されたバビロンの統治が民衆に好まれ、その地で再起する。やがてアンティゴノスと息子のデメテリオスを圧倒し、シリアから東方に勢力を広げエジプトに勝る領土のセレウコス朝を興す。チグリス河畔にセレウケイアを建設、後にシリアには首都アンティオケイアが建設され繁栄する。

 

カッサンドロス 350-297

 マケドニア摂政を永らく勤めていたアンティパトロスの息子だが、父は子に摂政の座を譲らず、重装歩兵隊長ポリュペルコンを指名してしまったために、強い野心から不満を囲い、以後はギリシア方面を平定しつつ摂政と戦う。

大王の王族のフィリッポスⅢ世は妻エウリディケーと共にオリュンピアスが殺害していたが、彼はアレクサンドロスⅣ世を母ロクサナなどの近親者らと共に殺害させ、自身はフィリッポスⅡ世の娘の一人テサロニケー(最後の王族)と結婚。カルキディケー半島の地峡に王都にするつもりでカッサンドレイアを、本土には妻の名からテサロニケーを建設。だが繁栄したのは後者だった。

王権を確立したかに見えたが、リシュマコスに敗れマケドニアの地歩を失う。ディアドコイと言うよりはエピゴーネンであった。しかし子孫の王統は続かずアンティゴノスの血統がマケドニアを治めることになる。

 

デメトリオス 337-283

 隻眼のアンティゴノスの息子で美男、モテたようで五回結婚をしている。

だがパレスティナへの侵攻に失敗し、ギリシア方面への海上覇権を得ようとするが、それにも敗れてセレウコスに囚われ、獄中死する。

年代は最も若くエピゴーネンである。

 

◆総論

ディアドコイ戦役の結果としては王国が四つに分割されたということは的外れではないらしい。

東方のセレウコス朝、南方のプトレマイオス朝、アンティゴノスの血統に残されたギリシアマケドニア、それから小アジアの諸王国であり、これはアッシリア崩壊後の四王国の趨勢とさして変わらず「落ち着くように落ち着いた」の観あり。

パレスティナは北にセレウコス、南にプトレマイオスの二強に挟まれ、その間に在って流動的に状況は常に変化した。<安息日にあっけなくプトレマイオス朝に占領されたことは、ユダヤ教がヘレニズム諸国から嘲笑されるきっかけを作った⇒「厳格化されたシャバット」>

そこにローマ共和国が進出してくるが、それまでに至る過程に於いてユダは最も激しく揉まれている。この状況についてダニエル書が徒ならぬ記述を行っているのは、単なる歴史を述べるに留まるものではないようだ。いや、明らかに何か別のものを予告している。⇒突如瓦解する『北の王』

 

 

 マケドニア南北朝

 ディアドコイ戦役までの情勢

 マケドニア履歴(フィリッポスⅡ時代まで)

終末時系列考 - Quartodecimaniのノート