Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ダニエル書の構成

 

第一章;エホヤキム王の第三年(605)に、第一次捕囚があり、その中にダニエルと三人の若い友人らも居た

 

第二章;ネブカドネッツァルの第二年(603)の巨像の夢、解明の勅辞からアラム語となる

 

第三章;ネブカドネッツァルの治世中で年代は不明、ダニエルの三人の友は地方長官を拝命しており、そこにドラの立像への伏拝拒否事件が起こる

(ギリシア語写本には3:24に続いてPr,Azal「アザリヤと三人の聖なる子らの歌」が続くものがある)

 

第四章;ネブカドネッツァルの治世中で年代は不明、二度目の夢の解き明かしと王の執務不能状況の発生

 

第五章;ナボニドスとベルシャッツァル治世の最終年(539)、徹夜祭での王宮の宴会に手が現れ王朝の終りを通知

 

第六章;メディア王ダレイオスの治世(539~538年)、ダニエルは再び高官となり、マゴイ族の嫉妬からライオンの穴に落とされる

 

第七章;ベルシャッツァルの第一年(553)に戻る、海から順に現れる四頭の獣と十本の角の夢についての口述を書記官が記述、以後二つの章の年代がバビロニア時代に逆行する

 

第八章;ベルシャッツァルの第三年(551)、ダニエルはスーサに居て雄羊と一角のやぎとの戦いの幻を自ら記述し、この章からヘブライ語に戻る

 

第九章;ダニエル自ら記す。メディア王ダレイオスの第一年(539)、エレミヤの70年へのダニエルの祈りと七十週の秘儀の伝達

 

第十章~第十二章;キュロスの第三年(535)、筆記者は別人。以後第十二章までがダニエルへの最後の啓示 旧約聖書後のマケドニアディアドコイ戦争と二大強国の抗争から終末を黙示

(はこの後か第一章の前に「スザンナと長老ども」が置かれる)

(ギリシア語写本で更にその後、ベルと龍の挿話が入る)

 

ダニエル書は、前605年以後から535年の間の70年間に書かれており、ダニエルは齢八十から九十に達して長寿を得たと思われる

章毎に年代が別で、順に挙げると1.2.3.4.7.8.5.6.9.10-12 (6.9の順は不明)

順不同の理由はアラム語の部分がまとめられたことが考えられ、何者かに蒐集されたかも知れない。一人称の章が後ろに綴じられている。

ヤムニアではこの書の原語版の発見が遅れたとされる。<預言書に含まれなかった理由かも知れず、扱いが新約の黙示録に似る>

 

◆概説

一般的ユダヤ人にダニエル書について訊くと、「あれはアラム語の書だ」と半ばまともな扱いを諦めるかのように語られる。現代一般のユダヤ人が旧約聖書をタナハとして読む以上はダニエル書の2:4から7章の終りまでアラム語となっているので、彼らは却って読めないことになってしまい、翻訳聖書から入る我々よりも面倒なのである。それでもアラム語文書の混入は、以後ヘブライ語のアラム字化からして不自然さは薄められる。

加えて、イザヤやエレミヤのように「神YHWHは語った」という預言の形からは幾分離れ、幻や夢が語られており、しかもその啓示の受け手がネブカドネッツァルであったりもするところは預言書らしからぬところを見せている。それでも幻では、やはり捕囚であったエゼキエルにも見られるので、まったく異質とも言えない。但し、アラム語での異邦人為政者の布告や、おそらくは異邦人書記によるアラム語によるダニエルの口述を筆記しているところは、確かにネヴィイームよりはケトゥヴィームに類別させるものをユダヤ人に感じさせることは容易に類推できる。

近代以降の識者にヘレニズム以降の文書であると主張する識者は多いが、ヤムニア会議で本書のアラム語ヘブライ語部分が含められているので、第一世紀のユダヤ人はそのように認識していなかったと言える。

アラム語部分に関しては、第二章のネブカドネッツァルが治世の第二年に見た夢の解き明かしを求める布告から始まっているのは、公用語であった言語のままに採録されたという理由からして不自然ではなく、そのまま第四章の終りまでがこの王に関連した事跡と啓示に当てられている。

第五章では一転してバビロン陥落の夜に飛んでいるのだが、アラム語の部分をまとめたと捉えるならそう問題にもならない。ただし、この間にかなりの王らの省略があり、王朝も代わっている。そのあたりの事情はダニエルが忘れ去られているところに現れており、ナボニドスがネブカドネッツァルの妃の一人を娶り自分の王統の正統性を演出したとされる通りに、ダニエルを知らせたのはベルシャッツァルからすれば皇太后であった。これは当夜の状況が親子の共同統治であった点と合わせて歴史の語る状況を正しく示しており、ダニエル書の信憑性を裏付けている。

第六章はメディア王ダレイオスの支配下でのダニエルの処遇が語られているのであるから、これも第五章の後に来ることも不自然ではない。

問題は第七章で、時代はベルシャッツァルの治世の第一年に遡っている。彼は床での幻を心に秘めて語らずにいたものを後のメディア・ペルシアの治世になってから書記に語り、そのためアラム語になっているように見える。語るつもりになった背景は、二度目に彼が似た幻を見て触発されたためと思われる。この第八章の幻の時期までに語ることも記すこともしなかったのであろう。

だが、これは続く第八章がベルシャッツァルの治世の第三年となっているし、第九章がダレイオスの第一年となっているところは、第七章以降の内容に即して啓示をまとめつつ、ある程度は時の経過に沿った仕方で並べたと見ることができる。従って、アラム語の書記はバビロニアに属する官吏であったように見える。

第八章以降でヘブライ語に戻ったのは、王朝の交代とメディア・ペルシアの寛容政策とダニエルへの王の恩寵、またこの時期のメディア・ペルシアが未だアラム語公用語としていなかった背景が考えられる。

特に第九章だけが世界覇権の流れを追うことから離れて来るべきメシアとその役割に重きを置いているところ、また、シオンへの請願とエレミヤの七十年とダニエルに知らされた七十週についての啓示に紙幅を割いているところ、この部分がバビロン陥落によるシオン回帰の道が拓かれたところで、聖所の再建の内容には一旦啓示の流れを中断しているようではあるが、年代順ということでこうされたのであろう。

第十二章では、高齢に達したダニエルへの「ダニエルよ、汝の道を行け。これらの言葉は終末まで封印される」また「そなたの休みに入り、定められた日の終りに立って、そなたの分を受けよ」と語られ、ダニエルの永きにわたった捕囚の生涯の終りに、その役割を果たし終え、自ら語った事柄への受け分があることを示され、その一生を終えたであろうことが示唆される、キュロスの第三年の啓示が最後となったことからすれば、第九章の内容に関わらず、その位置として不適切ではなかったと言える。

それから、第七章までがアラム語で書かれ、似た内容である第八章がヘブライ語に戻っていることについて、”元々全体がアラム語であったものを、ユダヤ人に受入れさせるために態々幻の最初である第七章までをアラム語に残し、後をヘブライ語にして双方の部分の一体性を装った”という識者がいるというのだが、これは的外れではないだろうか?

なぜならそれは簡単なことで、第七章冒頭の二つの節にはこの章の原筆者がダニエル自身ではないことが明示されているし、第八章の冒頭からはダニエル自身が原筆者であることが分かる。例えこれらが意図的な書き加えであるとしても、これら二つの章には見掛け上の矛盾が内容に生じている。つまり、この二つの章は似ていても内容は異なっているのである。これをそのままに読めば「矛盾している」と感じて、「どうせ、その程度の宗教のまやかしだ」と捉える学者は少なくないように思う。だが、この内容は「その程度のもの」ではけっしてない。

 

◆各章の内容 

では、ダニエル書全体の構成を俯瞰すると

第一章

時代はエホヤキム王の第三年(605)のネブカドネッツァルのエルサレム攻囲が語られ、第一陣の捕囚にダニエルたちが居たことが語られる。彼らは素質ある少年であり、有能な官吏として養成されるべく、バビロンでの生活が始まった環境で如何に未だエルサレムの神殿で祭祀の行われている中での律法の要求を守り続けるかについての知恵を働かせた姿が語られる。その後ダニエルは他の三人の友よりも長い寿命を保ったことが分かる。

 

第二章

ネブカドネッツァルの第二年(603)、王が見た夢が不安を掻き立てたので、その解き明かしの下命があったところからアラム語で語られ始める。

王自身もその夢を忘れていたので、解き明かしを示すことはカルデアの占い師にも困難を極めたが、ダニエルには夜の幻によってそれが明かされ、その解き明かしをも得ることができた。

それは金、銀、銅、鉄からなる巨像の夢であり、それらの金属が新バビロニア帝国以降の四つの世界覇権の推移を物語り、『人手によらず切り出された石』によって像の全体が倒壊し、その『石』で表される神が立てる国によって世界が治められるに至ることが、現に世界覇権者自身に示されている。

 

第三章

ダニエルの三人の友らは、地方長官の役職を拝命していたが、律法に従いネブカドネッツァル自身を象徴する像を伏拝することを拒んで、火刑の危機に面した。

灼熱の炉に投げ込まれた彼らであったが、遣わされた天使に保護され、無害で炉を出ることにより、ネブカドネッツァルに彼ら三人の神への畏敬を懐かせるに至った。(年度不明)

第一章に続き、ダニエルの三人の共が教育を受け終えて国の役職についているが、それでも律法遵守を続けていることが強調される場面となっている。依然、エルサレム神殿ではYHWHの祭祀が続行されていたか否かは年度が分からず不明。

 

第四章

既に宗教の長官に任官されていたダニエルに、再びネブカドネッツァルの夢の解き明かしが求められた。(年度不明)

それが世界を覆う大樹の夢であり、ネブカドネッツァル自身を象徴するその大樹が切り倒され、切り株には箍がはめられ、芽吹きが抑制されて地の草草の中に在って獣と分を共にし『七つの時』を経させることが示される。

これは一年後にネブカドネッツァル自身に起る事柄の予告であり、突然に人間理性を失い、獣のように草を食らい過ごす期間を迎えた。

しかし、定められた時を過ごすと理性が戻ったが、王位は簒奪されず、その王権は保たれたままであった。

そのために、ネブカドネッツァルは天の神を讃え、誰であれ王権を自ら望む者に自在に与える神を讃える布告を出した。

 

第五章

話は飛んで、新バビロニアの首都の最後の晩(前539年ティシュレイ16日)にダニエルが呼び出され、奇跡の手が宴会の王宮の壁に記した文字を読み、その解明をする場面が描かれる。

その間に、イザヤやエレミヤの預言がキュロス大王の攻撃によって刻々と成就していた。攻撃側の情報はクセノフォンなどの資料で伝えられているが、ダニエル書の第五章は、当夜のバビロンの王宮の様子を知らせる貴重な情報となった。

 

 第六章

メディア・ペルシアの支配のはじめ、メディア王ダレイオスの治世(539~538年)で、ダニエルはマゴイ族からの姦計のためにライオンの穴に落とされるが、天使の助けによって保護される。ダレイオスに尊重されるダニエルは、この事件を通して却って地位をより強固にし、反対者の全滅を見ることになった。

 

 第七章

時代はベルシャッツァルの第一年(553)に遡り、ダニエルが床で見た夢について語るが、筆者はダニエルではなくアラム語が続く。

波を立てる海からあがる四頭の獣、ライオン、熊、豹、恐るべき獣。ライオンには(一対の)翼が有ったが取られて二本足で立つ、熊の体は一方が高い、豹は四つの翼と四つの頭を持つ、最後に野獣は例えられるものがなく、十本の角について記述が多い。

第二章の四種類の金属の像を補強して、バビロニア、メディア・ペルシア、マケドニアギリシア、ローマに対応しており、この夢では第四の獣から十本の角が生え、更にそこから別の小さい角が現れ他の角より大きくなり、そのために三本の角が抜け落ちることが加えられる。

それでも最終的には裁かれ『その獣は滅ぼされ、燃える火にわたされる』しかし、『ほかの獣は一時、一時節だけ生き長らえることが許される』そして『雲と共に来る人の子のような者に支配権が与えられる』⇒黙示録を示唆

その者は『時と法とを変えようとするが』『一時と二時と半時の間、彼ら(聖徒)はわたされる』

<この辺りの単語の用法に曖昧さがある。おそらくは理解を乱すための策>

 

第八章

ベルシャッツァルの第三年(551)、ダニエルはスーサに居て(左遷?)、ウライ運河の畔に居る幻を見たが、語り手のダニエルの筆記としてここからヘブライ語に戻る。<当時のエラムはペルシアに近く危険ではないか>

運河の傍らに二本の角を持つ雄羊がいるが、角の長さは後から生えた方が長かった。そこに日の沈む方角から一角の山羊が突進してきて雄羊の二本の角を折り踏み躙って高ぶったが、その一本の角は折れて四本の角が四方の風に向かった。<ペルシアを攻撃するアレクサンドロス大王は明白>

その四本の内の一本から小さい角が興り、東と南に向かい『飾りの地』にも向かった。これは大いに高ぶり『天軍に達し、その幾らかを地に落とす』。天軍の君にまで高ぶり、常供のものが絶え、聖所も打ち捨てられる。常供のものは徐々に引き渡されるがそれは『罪(違背)[בְּ פָ שַׁ ע]のためである』<口語と新共同はこの語句を無視>

『荒らす罪[וְהַפֶּ֣שַׁע שֹׁמֵ֔ם]による、この聖所と天軍とを踏み躙る幻はいつまでのことか?』 <もはや否定のしようがない>

 

第九章

メディア王ダレイオスの第一年(539)、場所は前後関係からするとバビロンらしい。ダニエルの注意はエレミヤの70年に向けられ『遅れないようにしてください』とエルサレムについて祈願を捧げ、遣わされたガブリエルから70週の啓示を賜る。エレミヤの70年が聖所の回復をもたらすのに対してダニエルに伝えられた70周年はメシアの到来と三年半の契約の締結と後の天界の聖所の油注ぎとを予告。メシアが断たれた後には一人の指導者の民によって荒らされる。終わりには洪水があり荒廃は避けられない。⇒ ダニエルの70週

<その後で>メシアは多くの者*と盟約を結び、一週の間は契約を保たねばならない。<しかし>半週の後に捧げ物を廃止する。<しかし>憎むべきものの翼の上(先端)に荒廃をもたらすものが座する。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。<明らかに神殿の再建と祭祀の復興と天界の聖所の建立とが対照されている><荒らす憎むべきものの正体は紛うことない>*おそらくは「大いなる者」

 

第十章

キュロスの第三年(535)、ガブリエルの通告から四年後、ダニエルはチグリス川の近くにいる。

「この(啓示の)言葉は真実であるが、理解するには大きな障碍が(争い)があった」と冒頭で記す。この啓示はダニエル最後のものとなる。

ニサン月の3日に祈りを捧げて断食し同月24日に至り天使の来訪を受ける。その言葉によれば、はじめから祈りは聴かれていたが、ペルシアの土地の君に妨害され21日の間ダニエルの許に至れなかったが大天使ミカエルの助けを得て来た。

自分はペルシアの天使長と戦うために戻ってゆくが、その戦いが済むとギリシアの天使長が現れる。<ここの翻訳は種々雑多>

 

第十一章

前の章から引き続き天使が語り、啓示をダニエルに伝える。

まずペルシアの四王が示され、ギリシアに戦いを挑みギリシアの英桀王が立つが、すぐに四人の王らが代り立つことを知らせる。その中から南の王が強くなり、やがてそれをしのぐ王が現れる。

この二王は策略と争いを繰り広げ、南北の王国の覇権争いとなってゆく。やがて北の王は『飾りの地』(清い地)をも支配するようになる。<それにしてはハスモン朝やハヌカーの由来が無く、途中でアッシリア史が示唆され始める>

やがて軽んじられた者が北の王となり、契約に「違背して*」それになびく者らが現れる。*ペシャ「罪行」

北の王は南の王国を占領しようと大軍で襲い掛かるが、キッティムの船が来襲して諦めることになるが、北の王は契約から離れる者を滑らかな舌で違背に巻き込む。聖所を汚し、常供の犠牲を廃させ、荒らす憎むべきものを据える。

<この後からセレウコス朝の歴史からの逸脱を始め、アッシリア史に遡る>

民の内の聡い者は多くの者*を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。それは終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。(聖徒への迫害)*あるいは「大いなる者」

北の王は誇り高ぶり、自分を神とし、神の神に対してさえ驚くべきことを口にする。彼はただ先祖の知らなかった軍神にのみ多くの財を捧げて賛美する。

この王は異国の神に頼って多くの要害を攻め取り、気ままに愛顧するものには栄誉を与えて支配させる。

終わりの時になると、南の王は彼に戦いを挑むが、北の王は多くの軍勢で嵐のように押し寄せ洪水のように通り過ぎる。『飾りの地』も同様に侵略を受け多くの者らが倒れる。しかし周辺地域のアンモン、エドム、モアブは逃れ出る。

いよいよエジプトも「隠された宝」*までをも支配されるが、北と東からの知らせに驚き、滅ぼすために激高して進軍し、飾りの山に向けて布陣しているところで突然の消滅に至る。*(習慣的に「王家の秘宝」を含意し、王朝の危機を表す) ⇒ 「二度救われるシオンという女

 

第十二章

その時、大天使ミカエルが立ち上がる。(ハルマゲドンに非ず)

それは苦難の時となるがダニエルの民は救われる、また眠りから覚める者たちがいるが、ある者は永遠の命に、ある者は恥辱に至る。目覚めた者らは大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。(聖徒の復活と召天)

さて、ダニエルよ、これらの書を秘し封印せよ。多くの者らが右往左往して<雑多な>知識が増すことになる。

 天使の一人はもう一人に問う「これらの驚くべきことはいつまででしょうか?」「一時と二時と半時である。聖なる民の力が全く打ち砕かれると(聖徒の消失)、これらの事はすべて速やかに成就する。」

「常供の犠牲が絶え、荒らす憎むべきものが据えられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。あなたは休みに入り(80歳代)、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるだろう。」(「常供の犠牲が絶えて」後であれば、これらの日数は1260日の延長上とは言えない)

 

 ◆所見

以上の内容は、旧約預言に照らして歴史を探ると様々な事跡が予型として終末を指し示していることが分かる。

しかし、単語の差異や表象のズレがあって理解を阻むが、言葉に拘ればそこで探求は停止せざるを得ず、預言そのものが学識的探究の限界を告げている。

この場合、障碍を乗り越えさせるものは、書かれた文書と情報源への畏敬であり、文学的に読むこと以外にない。高等批評的解明方法ではまったく歯が立たない。

加えて、明白で理解し易いところと、敢えて言葉を混ぜていると思われるところ、そして全く難解な部分が有り、ある程度は開示しつつ、伏せているところがあるので、平板な理解を広めようとしている意図がある一方で、本論は悟らせないように工夫されているらしい。

明らかなところでは、終末の世界に於いて、軍事に資金をつぎ込む反宗教的な『北の王』と、黙示録によればキリスト教主義の『南の王』の世界覇権の対立の渦中にある。

そこに『飾りの地』に相当する『聖なる者』らが現れ、セレウコス朝のアンティオコス・エピファネスに相当する『新たな角』に『三年半』の間、常に悩まされ、最後は強烈な迫害に勢力を失って『常供の犠牲』が絶やされるが、その原因となるのは『契約への違背』であり、脱落する聖徒らの裏切りによる。

また『北の王』は『他国の神々と共になって』『固く防御された砦を攻略する』のは、黙示録中に『大いなるバビロン』の慫慂による聖徒攻撃と思われる。

新たな角が聖徒を絶やすと、次に信徒の集団を恫喝するが、その結末はアッシリアのものとなり、突然に権力崩壊を起こして消滅する。これが『北王国』と新たな角の終りを意味し、それはナホム書とヨナ書へと連なる。

その時、聖徒らの復活と生き残った者の天への召しがある。

ここまでがダニエル書第十一章に啓示されているが、その後に残されるもう一方の覇権国家『南の王』については記されていない。それは黙示録に譲られている。<おそらくは予型がアッシリアに移ったのでマケドニア南北朝には戻さなかったのかも知れない。しかし、終末の『北の王』については、その実体を見紛うことがないまでに描かれている>

 

しかし、預言の全体が描く終末像については、ダニエルを中心とするイッシューだけでは片付かないので別記する。

しかし、ダニエルがほぼ把握できると、一気呵成に描きだすことができる。

それには新約のキリストの終末預言と黙示録、パウロ書簡も含む。

現段階では、「エドムへの苛烈な報復」、「新しいエルサレム」、などが気になって残ってはいる。

しかし、エゼキエル37章以降、特に第三神殿に関わる土地の詳細を確認できれば、三大宗教の中心地が割り出せるように思う。これについては、「本当に現エルサレムではないのか」にいくらかの不安定要素があるが、エゼキエルの土地の分配は常軌を逸しており、エルサレムともシオンとも語らない。そこで現エルサレムではない可能性は少なくはないと思える。それであるから、終末に現エルサレムが争点になると思うのはゼカリヤが障碍になってはいる。これは「新しいエルサレム」の描写とエゼキエル神殿とに相似の働きがあり、しかも両者の意義は正反対であるところについては、まずそのように理解して良いと思える。(だが、ウジヤの時の地震からすると、オリーヴ山云々は良い意味で語られていないようだ)

どちらにしても、現エルサレムは終末に論争の元にはなるようだ。

このダニエル書の理解を得ることによって、終末の全体像はほぼ把握できたようだ。しかし、以下の各資料をまとめる仕事が残されている。

エゼキエルはおおよそ要点を把握した。残るはゼカリヤの黙示とイザヤのシオンについて。それからキリスト教界への警告となるホセアとアモス

「2300の夕と朝」については秘儀であると特に謂われているので、これは自分が解けるような分際ではないと思う。おそらく聖徒が為すべき解明を待つものだろう。1290日と1335日は聖徒と信徒のいずれに関わるものかが分からない。聖所に関するものである可能性が高く、これも無契約の者には預かるところは無いように思える。或いは『荒らす憎むべきもの』の存続期間との関わりを示すのかもしれない。それは『七つの頭を持つ獣』よりは幾らか長く存在することは確かだが。

 

LF

 

◆ノートの集積

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